「九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」」の版間の差分
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親鸞は 父母(ぶも)の教養のためとて 一返にても
念仏まうしたること いまだそうらわず
(親鸞聖人)
冥福を
人が亡くなると追慕の情やむこと難いものである。泣けてくるのである。別れの悲しさである。非難すべき心ではない。殊に父母・兄弟・子孫・夫婦・親友を追慕する情、悪しとせず。ただし、それは俗情であり、凡夫の迷いである。
死人を鞭うつのはよくないという。死人をうつとは、その生涯を悪評することだ。死後を悪しかれという話はまず少ない。それなのに冥福を祈るとためらいもなく言う。一体どうしようというのか。人の行先を案ずる人あり。それらの心を信仰である、と思っているようだ。死後、幸あれと思うのは、生者に幸あれという思いと同じだ。俗情の親切にすぎない。
祈らず
念仏の信仰は、死者の冥福を問題にはしない。
弔辞などで、もっと用心せねばならぬ。死者の仏事を念仏の中で行うのは、行う人の信仰そのものが大切である。その亡き人の残した人生から人間とは何かを学ばせてもらうのである。
念仏は感謝だ。
(昭和四十三年十月)