十七 寝ずの番 「浅原 才市」
提供: Book
あさましや さいちこころの ひのなかで
だいひのおやは ねずのばん
もゑるきを ひきとりなさる おやのおじひで
(浅原 才市)
一月十七日
浅原才市は、昭和八年一月十七日に八十三才で、どこぞへいんだ。この人のうたを、いくつもよんでいると、なつかしくて仕方がない。才市は、せかいをおがむ、また才市は、せかいからおがまれていた。なむあみだぶつは、せかいであった。せかいは、つづめて、才市のためにあった。浅ましい思いは、単なる反省ではない。才市は、わが心のあさましさを、火という。まさしく火である。狂いまくる業火である。
この会報第一号に、武子夫人の
なにをもて なぐさめやらん かの日より
胸のいとしご おとろえゆきぬ
を、かきましたが、純情というわが心は、業火の前に、ひとたまりもなく、やけうせた。
仏とは
才市が見つけ出した仏は、その心の業火の中に、立っていなさった。気がついたときだけいなさるかと思っていたが、仏は心の火を、ねずのばんをしていて下さった。私が京に行った間に、福隅信義さんも、山近さんも、亡くなった。家族は、寝ずの番をしたに違いない。寝ずの番、ああ寝ずの番、燃える私を、仏は自分の火として。
(昭和三十七年二月)