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仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ 愚かさが照らし出される

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成15年

わたしがさびしいときに…
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ…
見えないところでつながりあって…
信仰は悩みの逃避ではない…
遠くなった耳が世音の中に…
世間に抱く関心は…
愚かさとは…
人間は物を要求するが…
己れに願いはなくと…
浄土への道は…
凡夫の身に帰れば帰るほど…
比べる必要がないほど…
自分のあり方に痛みを感ずるときに…

book:ポータル 法語法話2003

花田 正夫(はなだ まさお)
1904年、岡山県生まれ
「生死巌頭を照らす光」(樹心社)より


花田正夫先生は、私が幼いころ、私の両親と親しくされていました。よく遊びにみえていたようです。

 あるとき、私が氷砂糖をのどにつめて呼吸困難におちいったとき、たまたまその場にいらっしゃった花田先生が、私をさかさにして、お尻をたたいて氷砂糖を出し、たすけてくださったそうです。私は記憶していませんが、母が何度もその話をしていました。私のいのちの恩人だったのです。

 その花田先生のお言葉を、なつかしく拝見します。

 私たちは、自分の力で自分の姿を見いだすことはできません。自分の姿を映し出す鏡がほとけさまの教えです。この言葉のあと、花田先生は、「親鸞聖人が愚禿(ぐとく)と名のられ、法然上人が十悪愚痴と仰せられ、源信僧都が余の如き頑魯(がんろ)の者と仰せられたのも、単なる謙遜ではなくて、仏のまことの光明によって自然にお知りになったのです」とおっしゃっています。

 親鸞聖人は『愚禿鈔(ぐとくしょう)』の冒頭に、「賢者の信を聞きて、愚禿が心(しん)を顕す。賢者の信は、内は賢にして外(ほか)は愚なり。愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」(註釈版聖典501頁)とおっしゃっています。ほんとうの賢者は、外から見れば、愚かなように見えるが、その内実は賢明である、それに比べて、私の心は、外は賢明をよそおっているが、その内実はおろかである、というのでしょうか。

 よく知られていますように、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に記された浄土往生の要因たる三心の一つ、「至誠心(しじょうしん)」をめぐって、親鸞聖人は、善導大師(ぜんどうだいし)の『観経疏(かんぎょうしょ)』の原文を、「一切衆生の身口意業所修(しんくいごうしょしゅ)の解行(げぎょう)、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現じ、内に虚仮(こけ)を懐(いだ)くことを得ざれ」(註釈版聖典七祖篇455頁)と読まずに、「かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲(おも)ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて」とお読みになりました。これは、「至誠心」というものがどういうものかということを、善導大師のお言葉を通してお知りになったからこそ、それに対して自分のほんとうの心の在り方に気づかれたのです。

 善導大師に教えによって、初めて「至誠心」とはほど遠い自らの虚仮の心というものを見いだされたと言ってよいかもしれません。「虚仮不実」の我が身というものは、仏さまの姿を仰いではじめて知らされるのです。


石田 慶和(いしだ よしかず) 仁愛大学学長



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

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