浄土への道は 浄土から開かれたものである
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![]() 法語法話 平成15年 |
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わたしがさびしいときに… |
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ… |
見えないところでつながりあって… |
信仰は悩みの逃避ではない… |
遠くなった耳が世音の中に… |
世間に抱く関心は… |
愚かさとは… |
人間は物を要求するが… |
己れに願いはなくと… |
浄土への道は… |
凡夫の身に帰れば帰るほど… |
比べる必要がないほど… |
自分のあり方に痛みを感ずるときに… |
金子 大榮(かねこ だいえい)
1881年、新潟県生まれ
『聞思室日記 続』(コマ文庫)
大阪の第22組で古くから伝わる和泉国寄講(いずみくによりこう)にご縁をいただきました。毎年18ヵ寺の寺院が順番に会所(えしょ)を勤め、三日間お講が開かれます。組内のご住職が参勤(さんきん)し、ご門徒が相集い参詣(さんけい)される聞法(もんぽう)の会です。現在では、全国でも数少ない国寄講だと思います。勤行の後、その都度、御消息を拝読し、復演(御消息にもとづく法話)いたします。御消息は前年度当番寺院からお迎えし、丁重に引き継がれています。
和泉国寄講に伝わる御消息とは、『御文(おふみ)』第ニ帖目の第七通、「易往而無人(いおうにむにん)の御文」です。「あら、こころえやすの安心(あんじん)や。また、あら、ゆきやすの浄土や。これによりて『大経(だいきょう)』には、「易往而無人」とこれをとかれたり。この文(もん)のこころは、安心をとりて弥陀(みだ)を一向にたのめば、浄土へはまいりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなしといえるは、この経文(きょうもん)のこころなり」(真宗聖典785頁)
蓮如上人(れんにょしょうにん)は、こころえやすの安心ひとつにて、浄土への往生はたやすいことであるにもかかわらず、信心をとるひとまれなれば、往生は至難のわざであると諭されています。
では何が往生を難しくしているのでしょうか。それはどこまでも自力執心、現世(げんぜ)をいのるという雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)のこころであると示されています。「ただもろもろの雑行をすてて正行(しょうぎょう)に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというのは、なにのようもなく、弥陀如来(みだにょらい)を一心一向にたのみたてまつることわりばかりなり。かように信ずる衆生(しゅじょう)を、あまねく光明(こうみょう)のなかに摂取してすてたまわずして、一期(いちご)のいのちつきぬれば、かならず浄土におくりたまうなり」(真宗聖典785頁)
「弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる」とは、私が後生(ごしょう)たすけたまえと一心一向に弥陀をたのむのではなく、どこまでもこの私を救わずにはおれない、どこまでも衆生を信じてやまない如来のおこころが一心一向であります。この如来の一心一向のおこころが私のうえに至り届いてくださった時に、如来より賜りたる信心とうなずき、如来のおこころが生きる力となってくださるのです。
私が、仏たすけたまえと思うのではなく、ただ弥陀をたのむ一念の信心によりて、大きな如来光明のなかに生かされていることをいただくのであります。お念仏は私にとって手段や方法ではなく、いのちのまことを見失い、いのちを私物化しているこの私に、真実のいのちを知らしめ、迷いの私を真実の私に帰らしていただくはたらきなのです。その如来の智慧(ちえ)と慈悲が成就(じょうじゅ)してくださったのが本願の念仏です。
自分の都合でものごとを捉えてしまう我がものさしは、どこまでいっても拭いさることのないしぶとさを持っております。その我が身の姿を照らし出してくださる仏智不思議(ぶっちふしぎ)により、自己中心の我がものさしを取り除くことができ得ない身そのままで、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の大恩に与るのであります。それゆえ、現に救われることなく流転し続けている我が姿に目覚めるほかはありません。
年々歳々(ねんねんさいさい)聞法の集いを持たれている和泉国寄講から、改めて「広開浄土門(こうかいじょうどもん)」の教えに出遇い続けたく思います。
多田 孝圓(ただ こうえん) 大阪府・圓乘寺
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。 |