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愚かさとは 深い知性と謙虚さである

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Dharma wheel

法語法話 平成15年

わたしがさびしいときに…
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ…
見えないところでつながりあって…
信仰は悩みの逃避ではない…
遠くなった耳が世音の中に…
世間に抱く関心は…
愚かさとは…
人間は物を要求するが…
己れに願いはなくと…
浄土への道は…
凡夫の身に帰れば帰るほど…
比べる必要がないほど…
自分のあり方に痛みを感ずるときに…

book:ポータル 法語法話2003

平澤 興(ひらさわ こう)
1900年、新潟県生まれ
『生きよう 今日も喜んで』(関西師友協会)より

平澤先生は、戦後の学制改革のあと、京都大学の総長として、大変な苦労をされました。私が旧制三高の学生だったころ、京大の教養部長に就任され、その温顔に触れたことが思い出されます。先生はいつも笑顔を絶やさず、あたたかい空気がいつも先生の周囲には漂っていました。

 先生は、新潟県のご出身で、篤信(とくしん)のご門徒だったのです。先生が「愚かさ」とおっしゃっているのは、おそらく親鸞聖人の「愚禿(ぐとく)」に通じるものでしょう。知性をふりまわしてぎすぎすしていることと反対の、春風駘蕩(たいとう)たる雰囲気をいうのではないでしょうか。平澤先生ご自身、そういう生き方をなさっていましたし、また、それを望んでいらっしゃったと思われます。

 ほんとうの「愚かさ」ということは、単なる愚かさではなく、深い知性に裏付けられた愚かさであり、それが人間を謙虚にするということを先生はおっしゃりたかったのでしょう。

 また逆に、ほんとうの知性というものは、謙虚さをそなえた知性でなければならないということも、先生のお気持ちにはあったように思います。おそらく先生の周囲には、賢明な知識人が群れていたと思われます。そういう知識人のかくれた傲慢(ごうまん)さに、先生は人間として望ましからぬものを見ていらっしゃったのではないでしょうか。

 よく知られた漱石(そうせき)の「智にはたらけばかどがたつ、情に棹(さお)させば流される」という言葉があります。知性は謙虚さと結びつかなければならない。それを結びつけるのは、すぐれた意味での「愚かさ」であるというのが、平澤先生の真意であるようにも思います。

 聖徳太子の『十七条憲法』の十にこういう言葉があります。「われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ」(註釈版聖典1436頁)。

 こういう言葉はどこからでてくるのでしょうか。それは、仏さまの深い智慧からです。聖徳太子は、激しい反対があったにもかかわらず、普遍宗教としての仏教の真理性をみとめて、わが国における仏教の受容を決断されたかたです。親鸞聖人は聖徳太子を深く尊敬して、「和国の教主聖徳皇(きょうしゅしょうとくおう)」と仰いでいらっしゃいます。聖徳太子も、深い知性と謙虚さをそなえた方であったと申せましょう。

 京都の六角堂で、その聖徳太子のご示現(じげん)を受け、それをきっかけとして親鸞聖人が法然上人にお遇いになったということは、よく知られたことです。

石田 慶和(いしだ よしかず) 仁愛大学学長


本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。