比べる必要がないほど 平等なことはありません
提供: Book
![]() 法語法話 平成15年 |
---|
わたしがさびしいときに… |
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ… |
見えないところでつながりあって… |
信仰は悩みの逃避ではない… |
遠くなった耳が世音の中に… |
世間に抱く関心は… |
愚かさとは… |
人間は物を要求するが… |
己れに願いはなくと… |
浄土への道は… |
凡夫の身に帰れば帰るほど… |
比べる必要がないほど… |
自分のあり方に痛みを感ずるときに… |
延塚 知道(のぶつか ともみち)
1948年、福岡県生まれ
『「他力」を生きる』(筑摩書房)
ある本で「下方比較(かほうひかく)」という言葉を知りました。下の方と比べたがるということです。人間は、自分自身の中に満足感や喜びや、生きていて良かったと思えるものがないと、必ず一つのパターンをとるそうです。そのパターンとは、自分より劣って見えるもの、下位のものを探すようになるということです。探して見つからなかったら作ってでも、そういう人が必要になってくるのです。自分より明らかに下、劣っていると思われるものを見つけて、その人と比べて初めて、「自分はあの人から比べたらましな方だから喜ばなければ」「あの人は私より随分気の毒な状態で、それに比べて私はこういう状態だから幸せだと思わねば」と、こうやってしか満足を得ることができなくなるということです。大変情けない姿です。
私たちが、自分自身の人生や生活の中からの喜びや安心というものを見出すことができたとき、そんな比較は全く必要ないことだし、意味がないことです。しかし私たちは日常の中で、ついつい優越感に浸って、うれしくなってしまうことがあります。他人が辛い思いをしていたり悩んだりしていると、何となく、うれしいわけでもないけれど、同情しながらも自分でなくて良かったと思ってしまいます。そういう私たちの考え方が、錯覚であり、差別をつくりだしていくのでしょう。
私という人間には、自他から見て長短・特徴・クセなどいろいろありますし、私の人生の中には、都合の良いこと悪いこといろいろ起こってきます。それを成功と思ったり失敗と思ったりして一喜一憂する私がいます。が、実は、不都合のことも含めて私の身の上の、そのすべてには意味や価値があり、そのすべてが決して捨てられることはないという確信が「南無阿弥陀仏」という如来様との交流によって与えられるとき、比べる必要は全くなくなります。どの一人、どの一つとも尊いもの同士という、完全な平等が開かれてくるのでしょう。否、本来の平等に立ち返ることになるのです。気がついてみると、私たちはもともと完全な平等の中に生まれ生きているにもかかわらず、私の知恵と都合で不平等・差別の世界にしてきていたのです。
大悲(だいひ)のひかりに照らされて初めて、この私自身が比べる必要のない平等の地に立脚する実感を賜るのでしょう。毎日毎日、一時ひととき、大切でかけがえのない「いま」と「ここ」であったと、そして無量のいのちとつながりながらの私であったと、開かれていく歩みをともにしたいものです。
真城 義麿(ましろ よしまろ) 京都府、善照寺
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載
◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。
出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。 |