遠くなった耳が世音の中に 仏さまの声をふと聞かせていただく
提供: Book
![]() 法語法話 平成15年 |
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わたしがさびしいときに… |
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ… |
見えないところでつながりあって… |
信仰は悩みの逃避ではない… |
遠くなった耳が世音の中に… |
世間に抱く関心は… |
愚かさとは… |
人間は物を要求するが… |
己れに願いはなくと… |
浄土への道は… |
凡夫の身に帰れば帰るほど… |
比べる必要がないほど… |
自分のあり方に痛みを感ずるときに… |
榎本 栄一(えのもと えいいち)
1903年、兵庫県生まれ
『煩悩林』(真宗大谷派難破別院)より
歳を取ると耳も遠くなるし、目も不自由になるし、体の機能はどんどんおとろえてゆきます。人はそこに自らの老いを知り、孤独と寂しさを感じるでしょう。
しかし、その中で、今まで見えなかったものが見えてきます。聞こえなかったことが聞こえてきます。それは「諸行無常」という響きであり、「一切皆苦」という教えです。どうでもいいことが聞こえるより、時々響く「正覚の大音(しょうがくのだいおん)」の方が、私にとっては、ずっとよろこばしいものではないでしょうか。そこに「老いること」の意味があるのです。
日本人の平均年齢がながくなったといって、よろこんでいる人があります。人間は200歳まで生きて何をしようというのでしょうか。
ただ生きることが大事なことではありません。ソクラテスは「よく生きる」ことが大事だといいました。「よく生きる」というのは、「まこと」に触れることです。孔子(こうし)さんも「朝に道をきかば、夕べに死するも可なり」とおっしゃったではありませんか。
「酔生夢死(すいせいむし)」という言葉がありますが、蓮如上人も、「それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。いつもまにかは年老(ねんろう)のつもるらんともおぼえずしらざりき。しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじはりつらん。また歓楽苦痛の悲喜にもあひはんべりつらんなれども、いまにそれともおもひいだすこととてはひとつもなし。ただいたづらに明かし、いたづらに暮して、老(おい)の白髪(しらが)となりはてぬる身のありさまこそかなしけれ」(『御文章』4帖目4通、註釈版聖典1166~1167項)とおっしゃっています。
人生は、あっという間に時が去り、振り返ってみると、夢・幻のようだとおっしゃるのです。そして、今となっては、「生死出離(しょうじしゅつり)の一道ならでは、ねがふべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし」と教えていらっしゃいます。
まことにその通りで、この迷いの世界を離れる道を見いだすこと以外に、私の求めるべきことがあるのでしょうか。そういう仏さまの声が、あわただしい世の音の中から、ふと私の耳に届くのです。
その時に初めて私は、年をとったことの意味に気づくでしょう。
石田 慶和(いしだ よしかず) 仁愛大学学長
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。 |