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己れに願いはなくとも 願いをかけられた身だ

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成15年

わたしがさびしいときに…
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ…
見えないところでつながりあって…
信仰は悩みの逃避ではない…
遠くなった耳が世音の中に…
世間に抱く関心は…
愚かさとは…
人間は物を要求するが…
己れに願いはなくと…
浄土への道は…
凡夫の身に帰れば帰るほど…
比べる必要がないほど…
自分のあり方に痛みを感ずるときに…

book:ポータル 法語法話2003

藤元 正樹(ふじもと まさき)
1929年、兵庫県生まれ
『願心を師となす』(東本願寺出版部)

蓮如上人(れんにょしょうにん)は宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)のご生涯を端的な言葉で表現されました。

 「故聖人のおおせには(中略)如来(にょらい)の教法(きょうぼう)をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり」(真宗聖典760頁)と、遇い難くして遇うことのできた、聞き難くして聞くことのできた喜びと願に生きる宗祖の姿をいいあててくれています。

 そして蓮如上人も病中にあって慶聞坊(きょうもんぼう)に『御文(おふみ)』を読ませ「わがつくりたる物なれども、殊勝なるよ」(真宗聖典878頁)と仰せられたといいます。

 すごい自信です。それは上人自らに対する自信ではなく、『御文』は「のり(法)のことのは(言葉)」そのものであって、縁あって自分にまで届いた真実の法が言葉となった教法についての自信です。

 教えを私物化せず名聞勝他(みょうもんしょうた)のためでなく、自らをつき動かし大きく広い世界に出遇った感動が、言葉を生み出し、人生を貫くことを教えてくれます。私に力がなくても、真実の言葉を聞くことが私に生きる力を与えてくれます。しかし、真実の言葉を、本当のことを聞くということは辛いことでもあります。

 思い起こす大先輩がいます。1995年に亡くなられたTさん。Tさんとの最初の出会いは東本願寺の同朋会館(どうほうかいかん)でした。何と元気な方がおられたものだというのが強烈な第一印象でした。その数年後、新潟県の三条別院でお会いした折、京都でお会いした時とうって変わり、老いた姿になっておられ、つい私の口から「何を苦労されたかわかりませんが、随分老けられましたね」と言ってしまいました。

 するとTさんは私の顔を見て「あまり本当のことを言わんでくれ。本当のことを言われるよりも嘘を言われたほうが僕の煩悩が喜ぶんだ。だからいつお会いしても、お元気ですねと言ってくれ」と言われたことがありました。Tさんは本当に正直な方です。

 人は本当のことを言われるより、本当でないことを好み喜ぶことがあるのです。真実の言葉は聞きたくないのが本音かもしれません。

 しかし、本当のこと、真実を求める心など、あるはずもないし起こるはずもない私の身の上に、真実なる世界、本当のことを求めずにおれない心が芽生える事実があります。それは私の中に起きた心であっても私の心ではありません。それは真実の願いの世界より差し向けられ、送り届けられた心なのです。仏法を聞くということは、真実のいのちの願いをかけられた身であると目覚めることだと教えられます。

 私はアパートの一室より始まった、ささやかな同朋の会を開いて15年となります。会を開くにあたって藤元正樹先生に相談とお願いに伺いました。その時言われた言葉が忘れられません。「君に愚痴をこぼしてくれる人がいた時、同朋の会が本当に生きた時だ。愚痴すらこぼれ出ない会は死んで閉ざされた会だ。愚痴を黙って聞いてくれ、その愚痴が求道心(ぐどうしん)を導くのだから…」と。なかなか実践できません。藤元先生は人々の声に身を沈めながら、立つべき場を教え示してくださいました。

 私には力がなくても、すでに道を求め歩まれた先師の言葉は生きる力と智慧(ちえ)を与えてくれます。生きている言葉は時空を超えて響きわたります。

今泉 温資(いまいずみ としし) 新潟県・往生人舎 同朋の会主宰


東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。