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他力と言うは 如来の本願力なり

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2007年9月22日 (土) 14:36時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版

Dharma wheel

法語法話 平成15年

わたしがさびしいときに…
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ…
見えないところでつながりあって…
信仰は悩みの逃避ではない…
遠くなった耳が世音の中に…
世間に抱く関心は…
愚かさとは…
人間は物を要求するが…
己れに願いはなくと…
浄土への道は…
凡夫の身に帰れば帰るほど…
比べる必要がないほど…
自分のあり方に痛みを感ずるときに…

book:ポータル 法語法話2003

宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)
1173年生まれ
法語は『教行信証』「行巻」(『真宗聖典』東本願寺出版部)から

「他力本願(たりきほんがん)」を辞書で見ると、「阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願。また、衆生(しゅじょう)がそれに頼って成仏(じょうぶつ)を願うこと」とあり、続いて「転じて、もっぱら他人の力をあてにすること」(『広辞苑』)と記述されています。

 「他力本願」を、仏の本願に「頼って」とする基本理解からは、それが依頼・依存(いぞん)の意味に変質してしまうことも当然かと思われます。一般にはこの誤解・誤用が支配的ですから、近年何かと「他力」についての意味的発言も多いように見うけられます。

 しかしその場合、率直に言って例の「生かされている」のことばに象徴(しょうちょう)される〝宇宙の生命力〟のこととか、〝万人(ばんにん)・万象(ばんしょう)の恩恵力(おんけいりょく)〟の意味であるとか、とかく感謝の対象としてのトーンが高いように思われますが、いかがでしょうか。

 とは言っても、何もそれらを間違いなどと言うのではありません。ただ親鸞聖人(しんらんしょうにん)の言われる本義が、いずれにあったのかの確認を自問したいだけです。

 親鸞聖人にあっては表記のように、どこまでも「他力と言うは、如来の本願力なり」であったのでした。それは同じく『教行信証』のうえで、 十方群生海(じっぽうぐんじょうかい)、この行信(ぎょうしん)に帰命(きみょう)すれば摂取(せっしゅ)して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏(あみだぶつ)と名づけたてまつると。これを他力と曰う。(真宗聖典190頁) と仰ぎ、 本願を憶念(おくねん)して自力の心を離るる、これを「横超(おうちょう)他力」と名づくるなり。(真宗聖典341頁)  と言われることからも、如来の本願力という内容をもってのみあらわされることとして、「他力」が示されているからです。

 「本願力」とは、如来が私たちのうえに、私たちと共に仏に成(な)ろうとする無限の菩薩行(ぼさつぎょう)ですから、それは私たちに終わりなき聞法(もんぽう)・求道(ぐどう)の歩みとして現行(げんぎょう)していく仏力(ぶつりき)を意味しています。

 「生かされていることに感謝している」との告白は間違いでなくても、感謝ということで自己完結して、そこに「歩み」が欠落するならば、仏道とはならないでありましょう。「歩み」とは、「念仏をしながら、他力にたのまぬ」(真宗聖典541頁)自分、他力を聞きながら「わがみをたのみ、わがこころをたのむ」(前同)自力心のおのれ。そうした生きざまの事実にかえって人間の本性が凝視(ぎょうし)され、それを場としていよいよ如来の本願を、より確かに聞き直していく生活のことでしょう。その意味で、仏法聴聞(ぶっぽうちょうもん)は聴答ではなく聴問であることを銘記(めいき)したいことです。

 ある聞法者が、 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)のご修行を/遠くにながめていたので/教えに/自分の心を/合わそうとして/むつかしかった/さかさまでした と、「問題」が教えられていく道であったことを述懐(じゅっかい)されています。先人が「自力は依存主義、他力は自立主義」と喝破(かっぱ)されたことが、あらためて問われてまいります。


池田 勇諦(いけだ ゆうたい) 1934年生まれ、三重県在住 同朋大学特別任用教授


東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。