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「わたしがさびしいときに ほとけさまはさびしいの」の版間の差分

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金子 みすゞ(かねこ みすゞ)<br />
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1903年、山口県生まれ<br />
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「金子 みすゞ全集」(JULA出版局)より<br />
  
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さびしいとき
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  私がさびしいときに、<br />
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  よその人は知らないの。
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  お友だちは笑ふの。
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  私がさびしいときに、<br />
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  お母さんはやさしいの。
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  私がさびしいときに、<br />
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  佛さまはさびしいの。
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 「金子 みすゞ全集」(JULA出版局)より
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 私たちにとって、その人がさびしい時の本当の気持ちを理解することは容易ではありません。「よその人」や「お友だち」がわかってくれることは困難でありましょう。さびしいという感情は、個人的であり、内面的なことが多いから、その人の胸中を周囲の人でもなかなかわかってくれないようです。でも、自分に一番近いお母さんはやさしくしてくれます。が、そのさびしさは、むしろ自分の胸にとどまり、一時の慰(なぐさ)めでしかありません。人の愛の限界を、みすゞさんは感じていたのではないでしょうか。
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 人間の愛を衆生縁(しゅうじょうえん)といい、小悲(しょうひ)といいます。
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「小悲といわれる場合は、私ども人間世界の愛、悲しむことのできる愛ですね。(中略)・・・それは親の愛のことでしょう。子供に対する親の愛、それ以外には小悲という言葉で表されているような愛はないのです。夫婦の愛とか、兄弟の愛とかいろいろいわれてますけれども、それは背いたときには憎しみに変わるような愛です」
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(宗正元著『大悲に生きる』東本願寺出版部)
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 他人の心を理解できなかったり、憎しみに変わるような愛は、小悲にもはいらないのです。だから、みすゞさんは「よその人は知らないの」「お友だちは笑ふの」と言ったのでしょう。そして、親の愛を、「お母さんはやさしいの」とうたい、「佛さまはさびしいの」と、仏の「同体の大悲」(真宗聖典349頁)にふれたのです。
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 ある新聞の投稿欄に、70戸の小さな集落で、20戸は庭の植木などに電球をつけ、夜はイルミネーションの輝くメルヘンの世界になり、日々の疲れをいやしてくれる。投稿された方は、来年こそはわが家の庭木に電球をつけよう、というような内容のものが載っていました。大阪の御堂筋(みどうすじ)の並木道の樹にも電球がたくさん灯され、道行く人は「ああきれいだな」と言います。でもあれで樹は眠れなくなったのです。私たちは、いつしか闇はよくない、苦しみや悲しみにつながり、究極的には死につながるからといって闇を追放してしまったのです。
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 人間は自分たちの勝手な都合で自然を利用し、やれメルヘンの世界だ、疲れがいやされると喜んでいます。自然の樹にとってみれば、夜眠れず疲れが蓄積され、多分ストレスがたまっていることでしょう。そのようなことで人間が自然と共生できるはずがありません。せめて、そこに自分勝手な人間の思いを悲しむ心をもちたいものです。
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 童謡詩人・金子みすゞは同悲(どうひ)、同苦(どうく)の仏の心にふれ、一切衆生(いっさいしゅうじょう)のいのちと共に生きた人でした。 
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谷本 忍(たにもと しのぶ)
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大阪・良念寺
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東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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◎ホームページ用に体裁を変更しております。
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◎本文の著作権は作者本人に属しております。
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2007年9月22日 (土) 14:15時点における最新版

Dharma wheel

法語法話 平成15年

わたしがさびしいときに…
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ…
見えないところでつながりあって…
信仰は悩みの逃避ではない…
遠くなった耳が世音の中に…
世間に抱く関心は…
愚かさとは…
人間は物を要求するが…
己れに願いはなくと…
浄土への道は…
凡夫の身に帰れば帰るほど…
比べる必要がないほど…
自分のあり方に痛みを感ずるときに…

book:ポータル 法語法話2003

金子 みすゞ(かねこ みすゞ)
1903年、山口県生まれ
「金子 みすゞ全集」(JULA出版局)より

さびしいとき

  私がさびしいときに、
  よその人は知らないの。

  私がさびしいときに、
  お友だちは笑ふの。

  私がさびしいときに、
  お母さんはやさしいの。

  私がさびしいときに、
  佛さまはさびしいの。

 「金子 みすゞ全集」(JULA出版局)より

 私たちにとって、その人がさびしい時の本当の気持ちを理解することは容易ではありません。「よその人」や「お友だち」がわかってくれることは困難でありましょう。さびしいという感情は、個人的であり、内面的なことが多いから、その人の胸中を周囲の人でもなかなかわかってくれないようです。でも、自分に一番近いお母さんはやさしくしてくれます。が、そのさびしさは、むしろ自分の胸にとどまり、一時の慰(なぐさ)めでしかありません。人の愛の限界を、みすゞさんは感じていたのではないでしょうか。

 人間の愛を衆生縁(しゅうじょうえん)といい、小悲(しょうひ)といいます。 「小悲といわれる場合は、私ども人間世界の愛、悲しむことのできる愛ですね。(中略)・・・それは親の愛のことでしょう。子供に対する親の愛、それ以外には小悲という言葉で表されているような愛はないのです。夫婦の愛とか、兄弟の愛とかいろいろいわれてますけれども、それは背いたときには憎しみに変わるような愛です」 (宗正元著『大悲に生きる』東本願寺出版部)

 他人の心を理解できなかったり、憎しみに変わるような愛は、小悲にもはいらないのです。だから、みすゞさんは「よその人は知らないの」「お友だちは笑ふの」と言ったのでしょう。そして、親の愛を、「お母さんはやさしいの」とうたい、「佛さまはさびしいの」と、仏の「同体の大悲」(真宗聖典349頁)にふれたのです。

 ある新聞の投稿欄に、70戸の小さな集落で、20戸は庭の植木などに電球をつけ、夜はイルミネーションの輝くメルヘンの世界になり、日々の疲れをいやしてくれる。投稿された方は、来年こそはわが家の庭木に電球をつけよう、というような内容のものが載っていました。大阪の御堂筋(みどうすじ)の並木道の樹にも電球がたくさん灯され、道行く人は「ああきれいだな」と言います。でもあれで樹は眠れなくなったのです。私たちは、いつしか闇はよくない、苦しみや悲しみにつながり、究極的には死につながるからといって闇を追放してしまったのです。

 人間は自分たちの勝手な都合で自然を利用し、やれメルヘンの世界だ、疲れがいやされると喜んでいます。自然の樹にとってみれば、夜眠れず疲れが蓄積され、多分ストレスがたまっていることでしょう。そのようなことで人間が自然と共生できるはずがありません。せめて、そこに自分勝手な人間の思いを悲しむ心をもちたいものです。

 童謡詩人・金子みすゞは同悲(どうひ)、同苦(どうく)の仏の心にふれ、一切衆生(いっさいしゅうじょう)のいのちと共に生きた人でした。

谷本 忍(たにもと しのぶ) 大阪・良念寺


東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。