世間に抱く関心は 必ず自己中心の善悪による関心である
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![]() 法語法話 平成15年 |
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わたしがさびしいときに… |
仏を仰ぐとき自分の姿が知らされ… |
見えないところでつながりあって… |
信仰は悩みの逃避ではない… |
遠くなった耳が世音の中に… |
世間に抱く関心は… |
愚かさとは… |
人間は物を要求するが… |
己れに願いはなくと… |
浄土への道は… |
凡夫の身に帰れば帰るほど… |
比べる必要がないほど… |
自分のあり方に痛みを感ずるときに… |
信国 淳(のぶくに あつし)
1904年、大分県生まれ
『いのちは誰のものか』(柏樹社)より
信国先生は、大谷大学のフランス語の先生でしたが、同じくドイツ語の先生だった池山栄吉先生の導きで親鸞聖人の教えに帰入され、晩年には大谷専修学院で若い人たちの指導にあたられて、大きな感化をのこされました。先生のご講義は、八巻の『信国淳選集』に集められています。
先生の書かれたものの中で、とくに感動をよぶのは、「出会い」と題された一文です。先生はそこで「何かにつけ、自分が自分で持ちきれず、自分自身が自分にとって不安であり、ややもすると自分と自分自身との間にずれが生じるので、始終自分自身の前で浮き足立った格好で生きるよりほかなかったその頃に、……私は不図(ふと)その”人”に出会ったのである」とおっしゃって、ある冬の寒い夜、池山先生と出会われたその出会いを、感激をこめて語られ、そのときに、帰宅後、奥さんに話された言葉を記されています。それはこういう言葉です。
「私は浄土に往く、浄土が何処かにあって往くというのではない。浄土を思想的に考えたり、観照的に捉えたりして、そこへ往くというのでは毛頭ない。私が浄土へ往くという理由は簡単だ。私は今夜、念仏して浄土に往く人を見て来たんだ。この眼ではっきり見て来たんだ。ただそれだけ。それでもう充分。私はこの人を信じる。だから、私も浄土に往く、とこういうことなんだ、さあ、君はどうするか? 君も私と一緒に往くか? どうするか? ……しかし、それは君自身の決定にすべき問題だ。とにかく私は浄土に往く」
ここには、『歎異抄(たんにしょう)』の第二条に、親鸞聖人が東国からやってきた門弟たちに、「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」(註釈版聖典832頁)とおっしゃったお気持と同じお気持ちが表明されています。善知識(ぜんちしき)に遇うということはこういうことであり、そのお言葉に信順するということもこういうことです。
「善知識にあふことも をしふることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」(『浄土和讃』同568頁)と、聖人は和讃にもうたっていらっしゃいます。
その善知識の導きによって、初めて私たちは、この世の善悪に対する関心から解放されるのです。「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぷ)、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」(同853~854頁)というのが人生の実相です。そういう人生に、私たちは、あれがいい、これがわるい、と言ってすがりついているのです。聖人は「善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり」(『正像末和讃』同622頁)ともおっしゃっています。
石田 慶和(いしだ よしかず) 仁愛大学学長
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。 |