仏様というのは「なんまんだぶつ」という響きです
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![]() 法語法話 平成13年 |
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闇をとおして 光はいよいよ光る |
大悲を報ずる生き方は… |
善人と思っていることが… |
「生き物」すべて 平等である |
めぐりあいのふしぎに… |
如来を信ぜずしては… |
人間が人間らしく生きる… |
仏様というのは… |
悲しみの深さのなかに… |
深く生きる人生 それは… |
他力は退却ではない進む力を… |
仏法に明日ということはない… |
生きているということ… |
西光義敝(さいこうぎしょう)
1925年、奈良県生まれ
「自然」(りゅうこくブックスXXII)より
煩悩具足の私に出遇う
仏とは、ブッダ(目覚めたもの=覚者)を指し示す言葉ですが、浄土真宗でいう仏さま、阿弥陀仏とは、大悲の本願をもってあらゆる衆生を等しく救わんとする覚者の名です。阿弥陀仏は「限りない光の仏さま(光明無量)」であるとか、「限りないいのちの仏さま(寿命無量)といわれます。それは、阿弥陀仏が「迷いの闇を破る限りない智慧の性格」と「迷いの人々をさとりへと導こうとする永遠なる慈悲の性格」の仏さまだからです。
ところで、人は何かを信仰するとか、信じるという場合、ともすると自分の方から「どういう仏(あるいは神)なのか」を品定めしてからということが多いように思われます。たとえば、縁結びの神さまであるとか、安産の神さま、奇跡を起こす神さまなど、その利益によって信じたり疑ったりするのではないでしょうか。
しかし仏教でいうところの、仏を信じるとは、むしろ仏が私を救おうとするよび声を聞いていくという、全く反対のことをいうのです。私が救ってもらおうとしたところが、すでに仏の側から救わずにはおかぬぞという、願いのなかにある私であったと気づかせていただくことなのです。私が信じる対象として仏さまをみるのではなく、仏さまに願われている対象としての煩悩具足の私に出遇うという一八〇度のひるがえりです。
無知と煩悩を打ち砕く響き
阿弥陀仏の大悲はつねに、そしてすでに私たちのところにとどいている、そのことを仏自ら名号において名告られたのです。もし疑い深くはからい多い、何一つ確かなものも持ち得ない私の方からの信心であったならば、当てになどなるものではないでしょう。しかしそのような無明のなかにある私だからこそ、仏の方よりたまわりたる信心が「なもあみだぶつ」のお念仏となって私にとどけられているのです。「南無」とは帰依し信順するという意味です。ですから「南無阿弥陀仏」とは、「私は阿弥陀仏に信順いたします」ということです。そしてこの言葉には、私が起こすべき阿弥陀仏への信心がすでにこめられています。凡夫の私が確かめて、「なるほど」と納得したから信心するものではないのです。
私たちは通常、何かのものがあってそれに名をつけるのですが、信心をいただくとは、逆に「なもあみだぶつ」という名号において仏の真実に遇うことなのです。この名号は仏の名にして、なおかつはたらきであり、その名を通して久遠の昔より私たちへかけられた願いを知らしめんとされているのです。もしこの名号がなければ、私たちはどうやって仏を求めることができるでしょうか。
阿弥陀仏の限りない「智慧」と「慈悲」の二つのはたらきが、私の「無知」と「煩悩」を打ち砕く「なもあみだぶつ」の響きとなっています。お念仏は呪文ではありません。阿弥陀仏の本願のよび声と、私の信順の思いが一つになって響くのです。
逸見 道郎(へんみ みちお) 神奈川・浄土寺住職
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。
出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。 |