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善人と思っていることがそのまま顛倒にほかならない

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成13年

闇をとおして 光はいよいよ光る
大悲を報ずる生き方は…
善人と思っていることが…
「生き物」すべて 平等である
めぐりあいのふしぎに…
如来を信ぜずしては…
人間が人間らしく生きる…
仏様というのは…
悲しみの深さのなかに…
深く生きる人生 それは…
他力は退却ではない進む力を…
仏法に明日ということはない…
生きているということ…

book:ポータル 法語法話2001

BOOK:ポータル 法語法話

石田 慶和(いしだ よしかず)
1928年、京都府生まれ
「親鸞聖人と現代」(永田文昌堂)より


己を殺す

 日本ほど「己を殺す」ということが、古くから美徳と思われている国は他にないのではないでしょうか。確かに、「己を殺す」「自分を犠牲にする」ということを、「わがままをいわない」と解釈すれば美徳といえるでしょう。

 しかし問題なのは、なかなか己を殺し切らないことです。「己を殺す」ということは、本来自分がいいたいことを我慢し、やりたいことを後回しにするのですから、所詮無理があります。もし自分以外の人を生かすために、やりたいことを後回しにしても、その人にとってそれが喜びならば、己を殺したことにはなりません。自分は本当はこうしたいのに、人のために我慢しているという意識があるから、「己を殺している」と思うのです。こうした人が自分のことを善人と思っている人なのです。しかし人は誰でも、生きているうちに自分を押し殺すことなどなかなかできるものではありません。心のうちの我慢した部分が、意外に生きた状態でうめいていることがあります。

 そうすると厄介なことに、自分はまわりの人のために自分のいいたいことや、やりたいことを我慢しているのだから、少しはそのことを人も認めるなり感謝すべきだという気持ちが沸いてきたりします。そして、家庭なり職場が平穏にまわっているのは、自分が我慢しているからだと思いこみ、果てはこんな善人の自分に比べ、みんなはなんて自分勝手なのだろうと非難しはじめたりします。

いづれの行もおよびがたき身

 こうした自分を善人だと思っている人が身近にいると、まわりの人は案外その人のために苦労したりします。なぜなら、本来ものごとには善や悪の決まった自性は存在しないのに、人の自己中心的なはからいによって、自分勝手に善悪の判断をしているからです。しかも困ったことに、己を殺し、人のために善いことをしていると思っている人は、自分を善人だと錯覚しているので、自分の行為を振り返り反省するということがありません。そして何か問題が起きると、自分ではなく他の人やものごとにその原因があるのだと信じて疑わないのです。「善人の家には争いが絶えない」といわれるのは、このことからです。

 だからといって、「己を殺すことはない。自分の思うようにすればいいのだ」とか、「どうせ私たちは罪悪深重の身なのだから、善などなしえない」と居直るのもまちがっています。

 今月の言葉の「顛倒」とは、煩悩ゆえに思い違いをするという意味です。そしてここでいう「善人と思っている」人とは、とくに浄土に生まれる因を自分の行為の正当性に求める人のことです。虚仮不実の身でありながら、人は自らのはからいによる善行を依りどころとしようとします。しかし大切なのは、煩悩に汚れた私の善行ではなく「いづれの行もおよびがたき身」である私に気づき、すべてを仏のはたらきに委ねることなのです。

逸見 道郎(へんみ みちお) 神奈川・浄土寺住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。