人間が人間らしく生きる それが信心ということです
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![]() 法語法話 平成13年 |
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闇をとおして 光はいよいよ光る |
大悲を報ずる生き方は… |
善人と思っていることが… |
「生き物」すべて 平等である |
めぐりあいのふしぎに… |
如来を信ぜずしては… |
人間が人間らしく生きる… |
仏様というのは… |
悲しみの深さのなかに… |
深く生きる人生 それは… |
他力は退却ではない進む力を… |
仏法に明日ということはない… |
生きているということ… |
松本 梶丸(まつもと かじまる)
1938年、石川県生まれ
「わが心のよくて殺さぬにはあらず」(柏樹社)より
昨今の青少年の事件報道を見るたびに感じ、学校で生徒と話す時に必ず考えてしまうことがある。というのは、自分を飾り、自分に素直になれないことを訴えてくる生徒が以前にもまして、増えてきているということである。こちらが見ていて辛くなるほど、彼女たちは自分が周りからいつ仲間はずれにされるかもしれないという不安におびえ、周りに痛いほど気を遣い、自分を押さえて人とつきあっているのである。そして、気づかぬうちに心の中にストレスをためていくのである。
彼女たちは、周りとの比較の中で劣等感に陥ったり優越感に浸ったりして、真の自分らしさというものを見失っているように思う。若者特有の優しさや、感じやすい心を失っているような気がする。
何がここまで彼女たちを追い込んでしまったのか。
反面、周りの大人たちはどうだろう。やはり大人たちも子どもたちと同じようにどこかで周りの眼をうかがい、自分というものを押さえて生きているのではないだろうか。
そのような有様で、果たして私たちは本当に生きていると言えるのだろうか。私にはそのことで思い起こされてくる言葉がある。
サカナは、海中にいても店頭におかれてもサカナである。人間は死ねば「故人」あるいは「遺体」である。生きているから人間である。しんじつ生きていないなら、しんじつ人間ではあり得ない。 <むのたけじ『詞集たいまつⅠ』(評論社)>
「真実生きる」ということの厳しい問いかけである。この言葉に出会ったとき、私は、ただ生きているのは人間ではない、真実生きていなければ人間の顔をしても生きていることにはならない、ということを知らされた。
では、「真実生きる」ということはどういうことなのか。それは自分が自分らしく生きていける、素直になれる場に立つことであろう。人は誰も、そういう場を求めているはずである。それが存在の故郷、浄土なのである。
浄土とは、人と比較して人を恨んだり、人を羨んだり、自分を蔑む必要のない場。それこそ自分を見捨てず、自分をおとしめず、自分が自分となって生きられる場である。
自分が自分として生きていくということは、同時に他を受け入れるということになるはずだ。すべての人が国を超え、民族を超えて本当に触れ合い、響き合える世界を求めてやまない-。それがいのちの根本の願いとして、どのような人の中にも鉱脈のように流れているはずだ。そして、いつもそういう眼で私たちを見てくださっているのが親鸞聖人の眼である。親鸞聖人は、すべての人びととともに浄土に生きる人になるということを、“信心をたまわる”というのだと教えておられる。
結局、私たちはどこに身を置いても自分を飾らず、偽らず、自分らしく生きていきたいものである。そうでなければ、いちばん信頼されるべき自分が自分自身を裏切っていくことになり、人間でない生き方を人間の顔をしてただ生きていくだけになってしまいかねない。
自分自身を本当に愛し、自分自身を本当に信じて生きていける世界があるということ、私はそのことを親鸞聖人の教えに触れる中で教えられてきた。これからも私は生徒とのかかわりの中で、このことを確かめていきたいと思っている。
高山 耕(たかやま こう) 昭和女子高等学校教諭
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。
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