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生きているということ あるということほどの不思議はない

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成13年

闇をとおして 光はいよいよ光る
大悲を報ずる生き方は…
善人と思っていることが…
「生き物」すべて 平等である
めぐりあいのふしぎに…
如来を信ぜずしては…
人間が人間らしく生きる…
仏様というのは…
悲しみの深さのなかに…
深く生きる人生 それは…
他力は退却ではない進む力を…
仏法に明日ということはない…
生きているということ…

book:ポータル 法語法話2001

BOOK:ポータル 法語法話

松塚豊茂(まつづかとよしげ)
1930年、奈良県生まれ
『石見の善太郎』(永田文昌堂)より


私って何?

 心理学のテストに、「二十クエスチョンズ」があります。「私は○○です」というのが二十コ書いてあって、その「○○」の部分に、何でもいいからできるだけ早く書いて埋めるというテストです。名前を書いてもいいし、「私は男です」でも、「私は私がきらいな人間です」でもいい。そうして書いてもらった後で、消してもいいと思うものから消していってもらい、残ったものが何かをみるというテストです。何が残ったかで、その人にとって大事にしているものがわかるのだそうです。

 日本人がこのテストをすると、所属するところで自分を語りたがる傾向にあるそうです。会社や学歴、家柄などがそれにあたります。しかし、「私は○○会社の重役です」といっても、会社を退職したり会社がつぶれてしまったりすれば、成り立たなくなるでしょう。また先のテストではありませんが、家や車など自分の所有するもので自分を説明する人も意外に多いのです。

 こうした所有するものによって、あるいは所属するところによって自分の存在を成り立たせている人においては、その「もの」や「所属対象」がなくなってしまうことは、「私」がなくなってしまうのと同じ意味を持っています。昨今マスコミなどで問題になっている中高年男性の自殺も、このあたりに原因があるように思います。

おかげさまのいのち

 こうしたテストでなくとも、人は誰しも必ず一度は、「私って何」と考えるときがあると思います。そして変わらない、なくならない何かで自分を説明したいと思うものです。

 こんなとき、一度「私」というのを自分のことだけで語ろうとしないで、自分につながる人で語ってみてください。自分にとって母親はどんな人か、父親は、夫は、妻は、子どもは、友人は、近所の人は何なのか。さらにもっと広げて、いつも新聞をとどけてくれる人は、切符を売ってくれる人は、地球上で飢えに苦しんでいる人々は自分にどうつながっているのか?そうした人と自分の関係には、なくならない何かがあることに気づかされるはずです。

 それら他の人との関係すべてを包括して、「私は私になる」のです。「妻」があってはじめて「夫」となりえる、「子」があって「親」になりえるのです。「亡き人」があって「今の私がある」のです。しかし人はなかなか「子によって親にしてもらった」とか、「生徒によって先生にしてもらった」とは思いません。しかし他のいのちがなければ、私は私となりえない。これまで自分が「これが私だ」と思っていたものだけでは済まないのです。

 「私」は他のあらゆるいのちによって生かされています。「めぐまれたいのち」の不思議として自分を見つめたとき、「当たり前のいのち」が、「おかげさまのいのち、南無阿弥陀仏」にひるがえるのです。

逸見 道郎(へんみ みちお) 神奈川・浄土寺住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。