悲しみの深さのなかに 真のよろこびがある
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![]() 法語法話 平成13年 |
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悲しみの深さのなかに… |
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瓜生津隆真(うりゅうずりゅうしん)
1932年、滋賀県生まれ
「仏教から真宗へ-仏教用語散歩-」(本願寺出版社)より
悲しみの深さ
「悲しみの深さ」とはどういうことをいうのでしょうか。私はそれを悲しみに向かい合い、その意味を見つめることではないかと思います。作家の高史明さんのお話に、そうしたことの機縁となるものをいただきました。
高さんは、最愛のお子さんに先立たれて、はじめて真宗のご縁に遇われた方です。自分の後ろから来ていたはずのものが、先に死んでしまったとき、自分がこれから歩こうとする橋が壊れて、ないにも等しいように思われ、まるで息もできないという感じだったそうです。気がつけば、もう生きてはおれないという感じのなかで、「仏、たすけたまへ」という思いで念仏をとなえていたそうです。死んだ子どもをどうぞ見守ってやってください、息をするのも苦しい私をたすけてください、という思いです。
そうした高さんでしたから、蓮如上人の「御文章」のなかの「たとひ名号をとなふるとも、仏たすけたまへとおもふべからず」という言葉に出遇って、びっくりしました。そこでお念仏とは何かと見つめ直したら、報恩感謝の念仏だということを聞かされた。高さんは最初これがなかなかうなずけなかったそうです。
いのちの光に照らされて
そして、はじめて「白骨の御文章」に出遇われたときのことです。「行ってきます」といって学校へ出かけていって、夕方にはお棺に入って帰ってきたわが子。「御文章」のとおりでした。親子三人で暮らしていた家のなかに、子どもだけが白骨となっている。その白骨を見つめながら、「ただ白骨のみぞのこれり」というお言葉を、心からうなずかないわけにはいかなかった。全身でうなずくほかはなかった。しかしやがて、それはわが子の白骨を向こうにおいて、亡き子の身の事実のみを見ているだけだと、はたと気づかれました。
白骨になったお子さんが高さんに、蓮如上人の教えを通してよびかけているのだと気づかれたそうです。「後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」というのは、お父さん、これはあなたの身の事実なんですよと。そのよびかけに気づいたとき、高さんははじめてお子さんを通して、すでに自分にとどいている阿弥陀さまの願いを聞くことができたのでした。
「たすけてください」ではなく、私を救わずにはおかぬぞとの仏の慈悲を「たのむ」であったと。高さんは「たすけてください」といいながらも、まかせることなく、もがいていた自身の姿が見えたのだと思うのです。そしてお子さんに導かれて、はじめて真実のいのちの世界に遇われたのでした。そうしたとき、もう自分の歩いてゆく先には何もないに等しいと思っていたのが、「いのち」の世界に開かれていると知らされたのです。一時的な喜びではなく、深い悲しみの闇のなかにあって迷っていた私が、いのちの光に照らされていることに気づき、真の喜びをいただかれたのだと思います。
逸見 道郎(へんみ みちお) 神奈川・浄土寺住職
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。
出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。 |