仏法に明日ということはない今日の尊さ 今日のありがたさ
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![]() 法語法話 平成13年 |
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仏法に明日ということはない… |
生きているということ… |
曽我量深(そがりょうじん)
1885年、新潟県生まれ
「曽我量深講義集第六巻『現在に救われよ』」(弥生書房)より
毎月、『法語カレンダー』をめくって法語を味わっておられる方も多いと思う。今までどれほどの法語を味わってきただろう。だが、いろいろと味わい感じることはあっても、それらはいつの間にか通り過ぎて、なかなか人生を貫くものにまでならないというのが実際のところではないだろうか。
法語を味わうといっても、こちら側に全存在をあげた真剣な問いのないところでは、法語が法語にならないのだ。それならばと真剣な問いを立てようとしても、せいぜい考えてみる、思ってみるという程度のことしかできない。それでは真剣とはいい難い。
いったいどうしたらよいであろう。どれだけ聞いても、どうしてもはっきりしない、これが聴聞するものの悩みではないだろうか。聞き方が悪いのか、心得方が悪いのか、聞いても忘れてしまうからいけないのかといろいろ考え、どうしたら、どうなったらと何とかはっきりする日が来ることをどこかで願っている。
しかし、「もしやもしやとまてども、往生は臨終までおもいさだむることなきゆえに、くちにときどき名号をとなうれども、たのみがたき往生なり」(『安心決定鈔』と教えられてあるように、その日は来ないのだ。いつか、というこちらの願った明日は来ない。「仏法に明日ということはない」。
ここで「今日の尊さ」と言われる今日は、我々の頭で考えている昨日今日明日の今日ではない。『大無量寿経』がまさに説かれようとするとき、阿難によって「今日世尊」と言われる今日である。それは、仏の聖旨を承った目覚めの今である。
我々の意識のうえでは、今日という時は過ぎてゆくばかりだ。いつの間にこの年齢になったのか、気づいてみたらもうこの年齢である。何をしてきたのか、過ぎてゆく日々、その日々とともに人生もまた、ただ流され過ぎてしまう。そういう空しい人生のとき、そのときの真っ只中に時そのものが現行してきた。阿難はそういう時に目覚めたのである。 『大無量寿経』では、この部分で「今日」「今」という言葉を七回も使ってそのことを表している。これは、阿難が世尊の本当の尊さや仏であったこと、導師であったこと等に初めて目覚めた今日ということであるが、もう少し踏込んで言えば、今日が阿難のうえに目覚めたと言ってもよいのである。今日が現在する。今、現在。その今日である。生きた今日である。
我々はいかにして今日を生きようか、いかにして今日を尊く、ありがたくいただこうかと考える。そう考える限り、今日を生きることにならない。生きた今日にならないのである。尊くありがたく思えるか思えないかということより、今日のほうがそういう思いを打ち破って出てきた、その目覚め、それを今日という。我々が今日を生きるのではない、今日が我々を開いて生きるのである。
凡夫は仏道を求めたりしない。しかし、何かを求めずにはおれない。それは、今日を生きてくれという今日そのものの願いに、どこか触れているからであろう。我々は、本質的に今日を生きる存在である。だからこの今日、この今日にめぐり遇わない限り、どうしても生きたことにならないのである。
佐野 明弘(さの あきひろ) 石川・光闡坊
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。
出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。 |