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大悲を報ずる生き方は大悲を伝える生き方である

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Dharma wheel

法語法話 平成13年

闇をとおして 光はいよいよ光る
大悲を報ずる生き方は…
善人と思っていることが…
「生き物」すべて 平等である
めぐりあいのふしぎに…
如来を信ぜずしては…
人間が人間らしく生きる…
仏様というのは…
悲しみの深さのなかに…
深く生きる人生 それは…
他力は退却ではない進む力を…
仏法に明日ということはない…
生きているということ…

book:ポータル 法語法話2001

BOOK:ポータル 法語法話

浅井 成海(あさい なるみ)
1935年、福井県生まれ
「真宗を学ぶ-愚にかえりて-」(永田文昌堂)より


小慈小悲もなき身

 「大悲」とは、阿弥陀仏の慈悲のことです。慈も悲もいつくしみの心を表しますが、とくに悲とは、他のものの痛みをわがこととしてともに痛む心をいいます。慈悲とは、人々の苦悩を同感し、痛みを共感しながら、人々の真実の幸せをわがこととして願い求めていく心なのです。

 私たちでも自分の親や子どものことについては、わがことのように悲しんだり喜んだりします。しかし、そうした思いが、果たして全く自分を捨てて起こったものであるか、あるいはだれかれと対象をわけ隔てることなく向けられるものであるか、と考えてみるとどうでしょう。私たちの慈しみの心など、自分のはからいを捨てることのできない、当てにならないものではないでしょうか。

 親鸞聖人はそのことを「ご和讃」で、「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」と謳っていらっしゃいます。このような、「小慈小悲もなき身」との凡夫の自覚があるからこそ、聖人はわずかの偽りも含まず妨げもない、阿弥陀仏の末通りたる大悲を喜ばれたのだと思います。

救いのなかにある喜び


 それでは「大悲を報ずる」ということについて、考えてみましょう。報ずるという言葉は、報恩感謝ということではないでしょうか。お釈迦さまのお使いになられた報恩、あるいは感謝というお言葉の意味を、インド古代の言葉にさかのぼって尋ねますと、「なされたことを知ること」とあります。

 阿弥陀仏の大悲に報恩感謝するということは、その大悲が何であるのか、私たちに何をなされたのかを、よくよく知ることです。それはまさに迷えるものを目覚めさせ、さとりへと導き救わんとする願いを、私たちにとどけてくださっているということです。

 世のなかの宗教には、悪い行いをしたり掟を破ると神さまが怒ったり天罰を与えるとするものがあります。しかし阿弥陀仏のお救いは、煩悩ゆえに迷い、われと人とを傷つけ、その結果ますます苦悩の汚泥に沈みもがく人々をこそ目当てとされているのです。たすけたまへと願う以前に、すでに私たちは阿弥陀仏の大悲のなかにあり、本願の対象であったと知らされるのです。ゆえに「大悲を報ずる生き方」は、阿弥陀仏の私を救わんとする心をいただく、阿弥陀仏の願を聞いていくということでありましょう。そしてその願いとは、南無阿弥陀仏と称えられる人となることであります。

 よく法話を聞いた後、「いいお話だったから、家の者に聞かせなければ」という人があります。その気持ちもわかるのですが、しかし肝心なのは誰よりもご自身が如来さまの願いに遇って、そのお心を歓喜し、大悲に向かい開かれているかということです。伝えるということは、熱いものが自然にまわりにも伝わっていくように、嬉しい気持ちが隠そうとしても隠し切れないで表れるように、救いのなかにある喜びがお念仏となっておのずから人へも伝わっていくことです。

逸見 道郎(へんみ みちお) 神奈川・浄土寺住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。