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四分六分の道

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藤原 正遠師 法話



四分六分の道(九月二十九日)

私はいつも光源寺様にご縁をいただいております藤原正遠と申します。私はよく「四分六分の道」というお話をするのですが、ある奥さんに、「あなたは自分が一番苦労してこの家に辛抱したように言われますが、あなたはこの家を出るよりも、この家にいた方が楽だったからいられたのです。ソロバン高い方を取っておるのです。この家の方が六分だからおられるのですよ。

あの人は子ども二人もおいて出て行った。ほんとうに薄情者だとあなたはののしるけれども、あの人も出る方が六分だったから出たのです。

あなたは親切者だからこの家におられるのではないのです。あなたはこの家におる方が六分だからおられるのです。どちらも六分の楽な方を取って今日まできたのです。あの人とあなたはその点ではおたがいさまですよ。

今日まで私は家の中で、一番横着で欲張りで、いつも六分の道ばかり歩いてきたと気づかされた方が人生は淡々と歩けますよ。そのしかめたお顔の皺ものびて、あなたはもっとにこやかになりますよ。」と申し上げたら、その奥さんはプイと座を立って二階に上がってしまって、夕飯時になっても下りてきてくれません。そこでそこのご主人も困り果てて結局たくあん、お茶づけで夕飯をすましたことでございました。

よく朝その奥さんは二階から布団を抱えて下りて来て、私の前に手をついて言われました。「昨夜一睡もせずに私は考えました。私がまちがっていました。先生のおっしゃる通り、六分の道を私は歩いて来ていたのです。本当にありがとうございました。」

その後毎年その家に私は行くのでございますが、それからその奥さんは嬉々としてにこにこと私を迎えてくれます。そうして言われることは、「先生、あれからとても日々が楽に通れるようになりました。本当にありがとうございました。」そして二階に怒って上がられたことを笑いながら語り合うことでございました。それからの夕飯は、いつも大したごちそうをしてくれて歓待して下さったことでございます。


南無阿弥陀仏




死後の問題(十月二十七日)

ある寺で二十四、五才の若い婦人が私の部屋をたずねてこられました。

「先生、私は最近五つの女の子を死なせたのです。あの子は一体どこに行っているのでしょうか。」

「その子は地獄に行っていますよ。」

「先生は、ひどいことをおっしゃいますね。」

この婦人は青ざめた顔をして、私につめ寄ってまいられました。

「どうしてそんな事がおわかりですか。」

「あなたはその子に、生前に行き先を教えましたか。親であるあなたがじぶんの子はどこに行っていますかとおたずねになるので、その子は迷っているから地獄に行っていると申し上げたのです。

町の中で親が幼な子の手を離してごらんなさい。親をさがしながら泣き叫ぶでしょう。あなたはその子に行き先も教えずに手を離してしまっているのではありませんか。あの世で行き先も分からず、あなたをさがして現に泣き叫んでいますよ。あなたも無意識のうちにそれを知っているので、私の部屋を今たずねておいでになったのです。一体あなた自身、あなたの命が終わったらどこに行くのですか。」

「分かりませぬ。」
「自分の行き先も分からねば、自分の子に行き先を教えてやることも出来ませんねぇ。」
それから、その婦人は一心に、まず自分の行き先を求めて聴聞するようになられました。

私の友人にYという人がおります。広島の原爆で十三才と十五才の娘を女学校の校庭で一緒に亡くした人でございます。二人の死体をリヤカーに乗せて二里の道を、ただただお念仏申しながら家に帰ってきたと言われます。

その後数年してY君の夢の中に二人の娘さんが現れて来たとのことでございます。それは五つ六つの幼い時の姿であって、広い広い野原の中に二人の子が手を取り合ってボロボロの着物を着ていたそうです。そうして落ちくぼんだ眼でYさんを見つめて、「お父さん、お父さん、私たちはどちらに行ったらいいの。」と、あの細いあわれな声で言ったあの声と、あのボロボロの姿と、広い広い野っ原と、冷たい冷たい風とがY君の脳裏に焼きついたわけでございます。

それから改めて仏書を読み、遠近を問わず聴聞に出かけられるようになられたのでございます。


南無阿弥陀仏




妹のこと(十一月二十四日)

私に一人の妹がおりました。妹は体が弱かったので縁が遠く、三十才近くになって後妻として結婚いたしました。それがぜんぜん経験のないお百姓に嫁いだのでさぞかし苦労だったと思います。弱い体の後妻をもらった主人もまた同じご苦労だったことと思います。

私は北国へ来たので余り妹を訪ねることはできなかったが、ときおり訪ねたときの妹の姿はまことに哀れでございました。色の白い瓜ざね顔の美人だった妹が、やせ細っていつも青白い顔をしておりました。ある夕方訪ねた時、みかん山から藁の草履を引きずってトボトボと下りてきた姿は今も私の眼から消えません。まことに哀れな姿でございました。

結婚したのですから、弱い体でも次々に子供が生まれました。先妻の子供もおりました。妹はとうとう疲れ果てて病の床につく日が多くなったのでございます。そうしていつの間にか念仏の申される身になっていたのでございます。お念仏のまったく縁のうすい土地でございますが、お念仏が先手を打って妹の口を割ってくださったのでございます。すべてが哀れでございます。哀れであるが故に、弥陀のご本願が用意されているのでございます。

ある時旅先に、自坊より妹の手紙が廻送されて来ていました。折よく私は妹の近くに来ておりましたので、さっそく時間をさいて妹の病床にかけつけたのでございます。その手紙には次のような意味のことが書いてありました。

「兄さん、私は昨年の暮れからこの春にかけて死ぬような大病をいたしました。そうして今も寝ております。私は今までこんな念仏をしていました。子供もたくさんいることだし病気で寝たきりであってもいい、命だけはお助けください。大難を少しでも小難にしてください。どうぞお願いいたします。南無阿弥陀仏。」しかし今度の大病によって、お念仏の内容がすっかり変わりました。「みほとけさまのお召しであれば、私は文句は申しません。お仰せのままに参らせていただきます。こんな心でお念仏をさせてもらうようになって今は心がまったく安らかになりました。お兄さん、ありがとう。」

この手紙を読んで、まことに驚きいったことでございます。「果遂の誓いまことなるかな」と、私は喜んだことでございます。


南無阿弥陀仏




どの手でもらう(十二月二十二日)

私の町で最近一人の婦人が亡くなられました。亡くなられる一週間ほど前に、この婦人が私の寺の同朋念仏会の席で質問をなさいました。

「先生、念仏しておればよいのでしょうね。」

私は答えました。

「お念仏をしておればよろしいですと私が申し上げましても、あなたご自身に安心はできぬのではないでしょうか。」かさねて婦人は、「お念仏をしておれば、いつか信心がもらえるのでしょうね。」

私は申し上げました。

「信心はもらえるでしょうが、いったいその信心をどの手でもらいますか。その信心を入れる袋の用意があなたにありますか。」

この婦人は、「どの手でもらう」という公案にぶつかって、帰り道に自分の家の前を通り越して川原の方まで行っていられたそうです。

翌日この婦人は中風で倒れられました。私は数日してお見舞いに行きますと、この婦人は涙を流してよろこんでおられました。

「先生、私はおかげさまで助かりました。私の両手両足がかなわなくなりました。私は今、信心をもらう手も足も失いました。もらう手を失いましたら、”もらおうとしていた”ことがまったくの見当違いであることがわかりました。私はすっかり助かりました。”一切は仏さまのお働き”です。仏さまのお働きの中にあって、仏さまにご無理ばかり申しておりました。そうして長い間自分が自分の首をしめて苦しめていたことでございます。頭が割れるように今痛みますが、おおせのままに、あーんあーんと泣いていることでございます。」

このようにしみじみと述懐されたことでございます。そうして翌々日の朝この婦人は亡くなられました。


南無阿弥陀仏




弥陀ご廻向のみ名(三月二十三日)

いずれにも 行くべき道の 絶えたれば

口割り給もう 南無阿弥陀仏

私にもお念仏が口を割って下さるご因縁が待っていて下さったのでございます。しかし、私は「自力無効になるのに苦労した」のでもなく、「如来を信じた」のでもなく、ただ「いずれにも行くべき道が絶たれた」のでございましょう。お念仏が口を割って下さったのでございます。

このお念仏が口を割って下さったということに、私の現在の一切の幸せ、「こころのほどける」ことにしていただいた出発でございました。また最後でもございます。だから私は、私に苦悩を訴えるお方に「お念仏がお出ましになりますか。」と、第一におたずねいたします。上げもできず、下げもできず、にっちもさっちもゆかなんだら、「親鸞聖人のまねをして、ただお念仏なさいませ」と、私はおすすめするのです。

分別が 分別をして 出離なし

無分別智の 弥陀のよび声

「分別でわかって称えるのではなく、分別が間に合わぬからこそ、いずれにも心の行くべき道がないからこそなんまんだ仏でございます。」「自力の念仏とか、他力の念仏とか、そんなことを考えていることが十九の願と言われるのではないでしょうか。十九の願にもまだ入っていないのかもしれません。

小さな私の分別心が、まだまだ中心でございます。これを邪見驕慢の悪衆生とおっしゃっているのではないでしょうか。」二十願の念仏を自力の念仏とか、半自力、半他力の念仏とか、罪福心の念仏とかいわれますが、そんなことは機法一体のなんまんだ仏になられた人が後でわかることで、そんな事をいくら覚えても何の役にもたたず、分別の流転輪廻でかえってこれも邪見驕慢心を増長させることでないでしょうか。

十八願は、向こうに行くのかと私は思っていました。二十年修行をしても前進できず、いくらお念仏をしても前進できず、ほんとうに上げも下げもできぬ所に如来さまの方から、「弥陀の廻向の南無阿弥陀仏 み名なれば功徳は十方にみちたもう」と、ご開山聖人は私たちに教えていらっしゃることでございます。本当にいよいよ行き詰まるから、南無阿弥陀仏でございます。


南無阿弥陀仏




怨み怨まれそのままに(四月二十日)

浮き沈み 怨み怨まれ そのままに

南無阿弥陀仏の お手のまん中

この歌は、九州で以前大地主であった方が私に胸の苦しみを訴えられた時ふとできた歌でございます。

終戦後、田地を全部失ったKさんとおっしゃる方は、生活のかてとして質屋を始められたとのことでございます。不馴れなKさんは、毎日怨んだり怨まれたりの生活だとおっしゃいます。

それは素人で物の目効きが十分でないので、大したものでないのに大金を貸してやって、その残念さが怨みとなって夜もろくろく眠れない。また、いつまでも取りに見えぬので流したあとで、「あれは父の形見の品だった、もっと置いていてくれたらよかったのに。やっと金ができたので今日取りに来たのに。」と、怨み言をお客さまに散々いわれる。毎日怨んだり怨まれたりの苦しい生活ですとのお話でございました。

大地主が一転して小作人の人よりも下に転落する。その時、そういう苦しみを訴えられた時、この歌がふと私に浮かんで一筆軸も書いたことでございます。

正信偈の中に

巳によく、無明の闇を破すといえども
貪愛瞋憎の雲霧 常に真実信心の天におおえり
譬えば日光の雲霧におおわるれども 雲霧の下明らかにして闇なきがごとし

とございますが、この歌は、この「正信偈」の”偈”と同じ心境だと私は思っています。「雲霧の下明らかにして闇なきがごとし」とは、私にとって「雲霧」は「浮き沈み怨み怨まれ」それが私には雲霧であり、「下明らかにして闇なきがごとし」というのは、「南無阿弥陀仏のお手のまん中」というそういう心でございました。

Kさんは、三十年後の現在も浮き沈み、怨み怨まれの生活だとのことでございます。私もいよいよ浮き沈み、怨み怨まれの生活の連続です。しかし、南無阿弥陀仏のお手のまん中で「お手のまん中」など意識していっているのではありません。機法一体の南無阿弥陀仏でございます。


南無阿弥陀仏




念仏は無碍の一道なり(五月二十五日)

『歎異抄』第二章に、関東からはるばる念仏の真義をたずねに来た同行たちに、まず押さえられて申された聖人のお言葉は、「ひとえに往生極楽の道をといきかんがためなり」ということでございます。

それに対して聖人は、「しかるに念仏よりほかに往生の道をも存知せず」といい切っていられます。では一体、往生極楽とはどういう意味なのでございましょうか。

「この身今生において度せずんば、いずれの生においてかこの身を度せん」とありますように、仏法の要は「度す」渡すということであります。

不定の人間から定住の極楽に度すことでございます。有限の人間と思っていた私を無限の法界に渡して、私は法界から生み出されてまた法界に帰らしめられることを信知せしめて大安心を頂戴することではないでしょうか。

「前念命終、後念即生」とございます。私の五十年と思っていた私が前念が終わって、私は無量寿の法界から出生せしめられている法界に心が決定することではないでしょうか。

これを後生の一大事というのであると今私は思います。正定聚不退転に定住することだと思うのでございます。しかし、有限相対の私の頭脳では一応の理解はできても信知は出来ぬのでございます。二十年の万行諸善の修行も「罪悪生死の凡夫」から聖人は抜けることができなかった。

生命あるものを念々喰べて罪悪の限りを尽くしながら、念々自分の身はすりへらされあわれ火葬場行きでございます。聖人はその苦悩を、「いずれの行も及びがたき身なれば地獄は一定住家ぞかし」と悲歎されております。まことに三定死でございます。曠劫より巳来、未来永劫に、この凡夫の身より一人も逃れ出ることはできません。ここに聖人は法然上人のご勧化により、なんまんだ仏にお遭いになったのでございます。

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられ(往生極楽)まいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて信ずるほかに別の子細なきなり。」この一言でございます。


南無阿弥陀仏




かがみ(七月十三日)

療養所にたびたび私はまいりますが、はじめはお念仏の世界を寝ていらっしゃる方々に知らせて上げようなどと思い上がった心であったことを、この頃しみじみ感じることでございます。

まったくご病人の諸仏が、五年十年と闘病してくださってだんだんとやせ衰えて細ってゆかれる。私はその手の施しようのない諸仏の方々の前に立たされて、まったく私の一息の自由のできぬ無力の私を知らしめてくださって、その行きづまりにお念仏さまでございました。

又、刑務所にまいります。そうしてさまざまの受刑者の方々のお話を承っては、出てくるもの暴風駛雨ごとくあらわれてくる起悪造罪にまったく堰する余地のできぬ、自力無効の私をしみじみとしらさせてもらってまたまたお念仏でございます。一切私の手のかなわぬ、私のはからいできぬ世界を知らせていただくことでございます。

人が死なれるとすぐ私はよばれます。死人の枕もとで枕経をお読み申し上げるのでございます。青年の方、子供さん、老人、産婦、それぞれ死なれた仏は私に語ってくれます。「藤原よ、お前の一息はまったく自由にならぬことがわかるね。」と、私に語ってくれるのでございます。

諸仏は、はかなく哀れに、かなしく、さびしく、手のつけられず息を切って、またしても私を金しばりにしては無間地獄におとして念仏の門を開いてくれるのでございます。帰りのみちみち野草の花々の咲き乱れた野道を歩きつつ、白い蔽いの紙をそっと上げて拝んできたあの面輪が、私の目の中に焼きついて私はただただお念仏がご相続されることでございます。

ああ一切は諸仏とあらわれて、まったく私のゆき場所を失わしめてくださいます。しかし行き場所のないもののしあわせよ、もう私はどこにも行かないのです。私には私の足が間に合いません。私は出たまんまの大法のまん中に、ここにこのままただただ南無阿弥陀仏です。


南無阿弥陀仏




阿闍世王のために涅槃に入らず

「阿闍世王のために涅槃に入らず」と聞きますと、釈尊が阿闍世を救済するまでは涅槃に入らないという風に聞こえますが、実は問題は阿闍世になくて釈尊にましましたのであると思います。

阿闍世の五逆罪を犯したその罪業が、釈尊の胸に収まらない以上、釈尊自身に救いがないということである。その救いは、阿闍世に改心させての救いではない。改心したとしても、今までの罪業は絶対に消えないのではありますまいか。

釈尊が如来の摂取不捨にあわれた時、釈尊は涅槃に入られたのでございます。涅槃に入られた釈尊は阿闍世も阿闍世の罪業もすべて大法界の所産であり、大聖釈尊も無道の阿闍世も摂取の中においては平等であり同列であった。

阿闍世と同列になられた釈尊は阿闍世が耆婆につき添われて訪ねてきた時、「阿闍世王さまよ、ご苦労さまだったなー」というその眼差しが月愛三昧となって阿闍世の胸に届いたのではないでしょうか。この光に照らされて阿闍世の体中のカサが一時に治ったのであると思います。

「念仏は無碍の一道」とは、摂取不捨によって法界より一切は永遠にかけてあらわれていることを教示して、私を摂取し万物を摂取して下さることをいうのであります。

天地●地祇も、魔界●外道も、罪業も業報も、諸善も、すべて法界からあらわれたもうた大悲の念仏が摂取くださるゆえに念仏は無碍の一道なのでございます。

悪性さらにやめがたし 心は蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるがゆえに 虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて まことの心はなけれども
弥陀の廻向の御名なれば 功徳は十方にみちたもう

悪性さらにやめがたき私、修善も雑毒の私、無慚無愧の私、狂い通しの私、真実は毛筋ほども私にはない。その私のために大悲の南無阿弥陀仏はあらわれたまい、私を摂取に来て下さったのでございます。法界から摂取に来て下さったのでございます。ここに功徳は十方に満ち満ちたまい、私も成仏、山川草木悉皆成仏。過去も未来も成仏。三世十方同時成道。


南無阿弥陀仏




ご安心(十一月二日)

私は若い時から、ただ心の「安心」一つが欲しかったのです。そうして今はお念仏の摂取をいただきまして安心させてもらっております。

それは単なる個人の安心ではございません。有限の個人の安心は「賽の河原」でありまして、私の安心は有限の安心あるいは不安心をそのまま摂取して下さるところの大法界の安心でございます。

念々、心の安らかな日もございます。また、まことに手のつけられぬ不安心、苦悩の日もございます。天気のようなものでございます。それをそのまま摂取して下さっている南無阿弥陀仏のお慈悲でございます。

まことに、お念仏は、身も心も生み出して下さった母親をしたう子供の心でございます。子供は困れば困るほど母親を呼ぶように、実は母親が摂取に来ているのでございます。お念仏もそれと同じく、私が称えますが、実は大宇宙の大生命の根元の南無阿弥陀仏さまが、困れば困るほどご摂取に来て私にやすらぎを与えて下さるのでございます。

ご摂取にあった私は万物がすべて阿弥陀仏のご活動体からの所産と見える眼をもらい、私はお陰さまで大安心をいただいております。


来し方も 又行く方も 今日の日も
われは知らねど み運びのまま

は何も知りませんけれども一切が仏さまのお運びのままという歌でございます。

生きるものは 生かしめ給う 死ぬものは 死なしめ給う
われに手のなし 南無阿弥陀仏

一切が南無阿弥陀仏のお運びでございます。これは三十年前の私の歌でございますが、今もまったくこの通りのご安心で念々一日一日生活をさせてもらっているのでございます。真にありがたいことでございます。


南無阿弥陀仏




復活(十二月二十一日)

キリスト教で、アダムとイブが知恵の実を食べて天国から追放されたという話を聞きますが、今言いたいことは追放されたアダムとイブは出所が天国から出ておる、というこういうことに私は眼をつけたいと思うのです。

キリストさまが磔にあわれて復活なさった、あるいは天国に帰られた。まあ、その道ゆきがですねぇ、磔にあわれた時に神さまは、お恵みでおろして下さる、というお気持ちだったのでないでしょうか。

しかし、神さまがお救いにおいでにならんで、「神よ、我を助けたまえ」とお祈りなさったと聞きます。しかし、神は無言であった。しまいには、「神は、我を見棄てたもうたか」とおおせられたと聞きます。でも神は無言でいらっしゃいました。しかし、この神は本当の神ではなくて「化神」仮の神であって、そうしてその仮の神に棄てられてまったく無救済の所に神の方から、「お前は、わしの国から出ておる」と、いうことを信知されたのを「復活」と私はいただくのでございます。

浄土真宗でも、「三願転入」というものがあります。はじめは、自分の力で仏の国に帰ろう。しかし、万行諸善をやっても帰れなかった。そこにはお念仏なさって、ま、十九から二十に帰るんですね。しかし、いくら念仏しても、まったく救いのない所に「無縁の大慈悲」というお言葉がございますが、まったく助けのない所に私がおるのでなかった、大法界から私は出ておる。ということを信知されたのが親鸞聖人の「往生極楽」とおっしゃることではないでしょうか。

ここに、キリスト教のおしゃることと、仏教でおしゃる、浄土真宗で言う「三願転入」を一つだと私はいただくことでございます。


南無阿弥陀仏




諸仏に棄てられたお陰さまで(一月二十五日)

三年間寝たきりのある奥さんをお尋ねいたしました。

「家のものに、さんざん苦労をかけます、私も長い間寝たきりで、いっそのこと死んでしまいたいと思います。」と、その奥さんはおっしゃるのです。

私は正直に受けて、

「それでは、あの高い所から吊られたらいかがですか。」と申しますと、
「足が立ちません。」

「それなら、お孫さんにフトンの下のお金を一枚やって、納屋から農薬をコップに入れて持ってきてもらってはいかがですか。水を入れて飲めば翌朝はあなたは死んでいらっしゃいますよ。」

「おばあちゃんが自殺したと知れたら、孫が学校で友だちにいじめられるのではないかと思うと、今までそれも考えましたがやっぱりだめでございます。」

「それではお念仏なさいませ」

「いくらお念仏してもおはずかしいことですが、いつの間にか出てしまっているのです。」

「お念仏は垂れ流しを止める薬ではありません。一体私達は生まれる前から、生まれてからも、又死ぬことも死んだ先も、ほとけ様の大きなお命のご活動の中に入るのです。その親様が南無阿弥陀仏となってお迎えに来ていられるのでございます。一切は阿弥陀さまのお命ですから、こちらの勝手に生きることも死ぬことも出来ぬのです。あなたの命ではないのです。ほとけ様のお命なのです。周りのものに棄てられ自分で自分を棄てても阿弥陀さまは”私の命だから苦しかろうけど、私の与えた命の終わるまでどうか生きてくれ”とたのまれているのです。お願いなさっているのです。子供が”お母さん、お母さん”と甘えるように、あなたも阿弥陀さまの懐の中で、”南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”と甘えてはいかがですか。」

こんな話をいたしましたら、その奥さんはポロポロと大きな涙をながされてやがてしきりにお念仏をなさったことでございます。私も一緒に”南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”とお念仏さしていただきました。


南無阿弥陀仏




あるご婦人のお便り(二月十五日)

ご主人が入院され奥様も足のわるい方からのお便りを読まさせていただきます。

「・・・主人は今のところ病気以外には考えられないようですが、先生のご法話のテープだけは持って行って聞かせていただいております。全身麻酔で手術でしたが運ばれて行きます時に”仏さまと、お医者さまにおまかせしてね”と主人に言っていましたが、実はそのように自分に言い聞かせているのだとわかって一人で苦笑したようなことでございます。先生のお歌を紙に書きうつしていつでも見せていただいております。


受けてゆく 力なければ み六字に
こころも身をも うちまかせつつ

おまかせが 出来ざる故に お念仏
口割たまう ことがおまかせ

今日は、この二首をいただいております。
先生、今朝目がさめてお念仏を床の中で申させていただいておりますと、フトああ今日一日のおいのちをたまわっているのだと気づきました。そうしましたら私の苦悩は明日のこと、これから先のことで、そんな必要はないのだとわからせていただきました。

そんな事はわかりきった事ですのに、お念仏の中で気づかせていただくとほんとうに安らかな心になり、今日一日の私の歩みの軽々とはじまるのに驚いております。こうして行きづまるたびにおみちびきにあずかっている・・・もったいなく思います。これから足はひきずりながらも、心はかるく病院に行ってまいります。先生ありがとうございます。」


南無阿弥陀仏




往生極楽の道(三月十四日)

親鸞聖人は、はるばる関東から京都までたずねて来られたお同行さんたちに対して「ひとえに往生極楽の道を問いにきたのであろう」と、まずたずねて来た目的を確かめられているのでございます。その目的は、「道」でございます。「往生極楽の道を問いにきたのであろう」と、確かめていらっしゃるわけであります。一体「往生極楽」とはどういうことなのでしょうか。

私たちは実はそのお浄土、絶対無限の不壊の世界から出て来ているのでございますが、それが迷い出て有限相対の個人の世界に苦悩しておるのでございます。どのくらい迷い出ているかと言うと「十万億仏土」迷い出ていると言われるのでございます。それで、この有限相対の世界に迷っている私たちが、いくら万行諸善をやってもその法界にはとうてい帰れるはずがありません。絶対無限などと口にだしても、それは有限の私の意識の中の妄念妄想でしかないのではないでしょうか。ではその極楽浄土です。我々の根元、出所ですね、その極楽浄土の壊れない法界にどうしたら帰れるのか、問題はその一点にあると思います。

親鸞聖人は比叡山で二十年万行諸善の修行をなさったが、そのお浄土が見つからなくて、「いずれの行も及びがたき身なれば、地獄は一定住みかぞかし」と、悲しまれたのでございます。しかしありがたいかな、法然様に帰れる道、お念仏の道を教えてもらわれたのでございます。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」ただお母さん、南無阿弥陀仏とお称えして親元にお帰りなさい、光寿無量の世界にお帰りなさい、この一言が浄土真宗の教えでございます。

私もおかげさまでお念仏によってそういう世界を教えてもらってよろこんでおる次第でございます。まことに、浄土真宗の教えはただその一点でございます。


南無阿弥陀仏




一枚のレコード果遂の誓(四月十八日)

いつだったか忘れましたが、だれかに尋ねられたことがございます。「レコード盤のあの小さな線は何本あると思いますか。」と、私は数えたことがないので返事に困りました。「大きな盤は数が多いだろうし、小さな盤は数が少ないでしょうが。」と答えたら、「みな同じですよ。一本ですよ。」と言われました。そう聞けばまことに一本でございます。歌謡曲で言えば歌い初め歌い終るまでただ一本の線を針はたどり続けているのでございます。

私達の人生も、如来から賜った一本の道をたどっているのではありますまいか。胎内に宿った時からレコードの盤は動きはじまっているのでございます。そうして息の終わった時、針は止まるのでございます。私たちはこの如来から賜った私だけの一本の道を何本にも数えたり、又は他人のレコードと比較して苦悩しているのではないでしょうか。

善じゃ悪じゃ、勝った負けた、万物はすべてしかりです。人間もまた万物の中の一コマでございます。しかし人間はこの鉄則から何とかして逃れようとあがき苦悩するのでございます。果たして逃げ出せるでしょうか。

親鸞聖人は比叡山でのあの二十年の修行は、この決定された大法から逃れようという逃避行ではなかったのでしょうか。「いずれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定住家ぞかし」とは、逃避できなかった苦悩の告白でございます。

法然上人にすすめられて今度は念仏の力で逃れようとなさった。これを自力の念仏と申します。しかし如来よりたまわったレコード盤から兆載永劫逃避しようとしても、あるいは念仏しても、それはかなわぬことでございます。ついに「果遂のみ誓い」によって、聖人はレコード盤を一筋にたどって狂いのない大法とご面会あそばしたのでございます。そこに「果遂の誓い、まことに故あるかな」と慶喜あそばされたのでございます。

私も六十年お念仏してる間にそういうことを知らされまして、本当に親鸞聖人身をもって知らして下さって、私はその身になったことをよろこんでいるのでございます。


南無阿弥陀仏




無量寿の命 園子ちゃんの死のご縁で(五月二十三日)

私は福岡県の筑前秋月の生まれでございまして、今は石川県の浄秀寺というお寺にご縁をいただいて、もう五十年過ぎております。

ええ私、この頃の九大ですね、あそこの試験を受けて落ちまして、一年浪人をしている間に、何時も家に遊びに来ていた私の兄の子の友だちで九つだったと思うなぁー、園子という子でしたが、きれいな子で可愛い子でした。この頃遊びに来んので行って見たら脳膜炎という病気にかかって眼をつり上がらせ、口をつり上げるというのかなぁー、顔も白い顔がどす黒くなって、まあほんとうに苦しんでいる姿を見てやがて死んだんです。

私はあれから一体勉強しているという、その勉強て何のためにするのか、とそんなことが気になって勉強も捨てまして、そして京都のお念仏の大谷大学に入学さしてもらった訳でございます。そのお陰さまで私の口からお念仏が出て下さってもう六十年越しますが、一体念仏は困る時出て下さる。

困るということは私に自由がないということですね。そしたら「南無阿弥陀仏」ということは、「お前の自由で生きているのではないぞ、すべてが光明無量、寿命無量の仏の命から出ておるのだ。」ということを、六十年教えてもらったところに私は今、無量寿の親から生まれて、又無量寿の親の世界へ帰らしてもらう、というところに心がおさまっておる訳でございます。

親鸞聖人は、「帰命無量寿如来」ということは五十年の命ではなかった、お念仏のお陰で私は無量寿から出て、又無量寿の親に帰らしてもらう、まことに「南無不可思議光如来」一切がまことに不思議な狂いのないねぇ、そういう世界におったことを念仏で知らされて、「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし」この念仏を教えて下さった、「師主知識の恩徳も、ほねをくだきても謝すべし」とおっしゃることがねえ、この年になりますとほんとうに私もその通りであると知らされてよろこんでるような訳でございます。どうもありがとうございました。


南無阿弥陀仏




南無阿弥陀仏の明け暮れ(六月二十七日)

最近こんな歌が出来ました。

友は呆け 友は死にゆく われはただ</br> 南無阿弥陀仏と 申す明け暮れ

ええ、今年私は八十三才になったんですがまあ次々に友達は死んでゆきますし、この間も友達の所に行きましたら、「あなたは、どなた様ですか。」と言われてまあびっくりし、又寂しくなったことですが。

みんなこれ仏様でしてね、先に死んで見せ、呆けて見せて、「お前の姿やぞ」と、そうすると私はね、「なんまんだ仏、なんまんだ仏」と仏の声が聞こえて来るのです。

私達は、”自分の命や”とこう思っているけどもお念仏をしてるとね、仏の無量寿のお国から人間と出さしてもらって、今息をしてるのもこれは私の息ではなくして仏様の下さった息だと知らしてもらう。そうすると死ぬ日も仏様の方でお決めあそばした日に、仏様のお決めあそばした姿で親元に帰らしてもらえる、ということがね。お念仏によって私は知らされて心は安らかにさして頂く訳でございます。

もうお念仏は二十四、五に出たのですが、まあ六十年ほどお念仏が私が称えたのではございません、行き詰まると南無阿弥陀仏と出て下さる間に、念仏のお陰さまで私の五十年でなくて無量寿の命から私はここにある、ということを知らしてもらうところに、寂しければ寂しいほど南無阿弥陀仏と、悲しい時は悲しいほど、あと幾ばくもない命と思えば思うほど南無阿弥陀仏と出て、一切が阿弥陀仏のお仕事と教えていただいて、ま、最近いよいよ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏で歩かしてもらっている訳でございます。

一寸聞くと寂しい歌のように思いますけれども、私としてはねえ、清々しい歌なのです。もう一ぺん申してみますとねえ、

友は呆け 友は死にゆく われはただ
南無阿弥陀仏と 申す明け暮れ

こういう歌でございます。どうも今日はこれで失礼いたします。


南無阿弥陀仏




カボチャとすいかの話(七月二十五日)

私は藤原ですが、今日は私の著書の「親のこころ子のこころ」の中の一節を読ませてもらいたい、題は「カボチャとすいかの話」というのでございます。

私はどこに行ってもカボチャとすいかの話をする。  こちらの畑に顔のでこぼこのカボチャがいた。向こうの畑に顔のまん丸い美人のすいかがいた。カボチャは向こうの畑のすいかを見ては、いつも自分の顔の醜いことが気になりすいかの顔をうらやましく思った。そうして毎日タワシで自分の顔をこすって、すいかの顔のように丸くなろうと精進努力した。

しかし、自分の顔に傷がつくだけでかえっていよいよ見苦しい顔になった。カボチャは根尽きてお念仏を称える身になった。しかしお念仏も効力を発しなかった。「私の身は仕方ありません。せめて今度生まれる子供は、どうかすいかのようなまろやかな美人にお願いします。」やがて、カボチャの子が生まれた。祈りのかいあって円やかな子供が生まれた。カボチャの親はよろこんだ。「ああ、お念仏のお陰様で美人の子が生まれました。ありがたいありがたい。」と涙流して感謝しました。

ところが悲しいことに十日経ち一ケ月経ち、子供のカボチャが成長するうちにだんだん子供のカボチャはでこぼこが出来て、最後には親そっくりの醜いカボチャになってしまった。自力も尽き果て、自力のお念仏にも棄てられたカボチャは、そこに阿弥陀仏のみ声が聞こえて、「すいかもカボチャも、私のいのちから生まれ出た尊い私の子なのだ。私の与えた顔なのであるよ、美しいとか醜いとかで苦悩するのも無理はないが、永遠不変のそのままが定則なのだ。姿も味も永遠不変の大法からの所産なのだ。カボチャはカボチャの姿、すいかはすいかの姿、カボチャはカボチャの味、すいかはすいかの味。万物すべてがそうなのだ。」

私はこの話をどこに行ってもするのでございますが、もう時間が来ましたので今日はこれまでにいたします。


南無阿弥陀仏