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お救いと生き方 (若林眞人師)

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真宗の法話

阿弥陀さまが、ごいっしょです (1)
阿弥陀さまが、ごいっしょです (2)
阿弥陀さまが、ごいっしょです (3)
お葬式 (若林眞人師)
お葬式 2(若林眞人師)
お救いと生き方_(若林眞人師)
四分六分の道
とんぼ安心
念仏ひとり遊び
お念仏は大きな海
阿呆堕落偈
仏の眼

浄土真宗ご法話集

お救いと生き方

五月のこと、高校に入学して1ヶ月、十六才になったばかりのH君が亡くなりました。頑丈なスポーツマンのH君は、ラグビーの選手をめざして、クラブに入部し、いよいよ本格的な練習の始まった連休あけの7日、その練習中にたおれられたのです。

ご家族はもちろんのこと、友人たちも、先生方も驚きの思いでいっぱいです。そして深い悲しみの中に、お葬式、中陰のご法事が続きました。

校長先生、クラス担任の先生がお参りくださったある日のこと。ご一緒にお正信偈のお勤めをさせて頂いたあと、校長先生がおっしゃいました。

「この漢文のご文には、深い意味が説かれているのでしょうねえ。なにか人生訓とか、生き方に役立つことが書かれているのでしょうか。」

校長先生のお言葉を聞きながら、はて、と、想いをめぐらします。

「いいえ、人生訓とか生き方は、一つも説かれてはいないですねえ。」

「ほほう、それならどんなことが説かれているのでしょうか。」

「そうですねぇ、お救いが説かれているだけです。」

こんなご縁がきっかけになって、阿弥陀さまのご法義と、私たちの生き方ということに、思いが広がりました。

仏教が、何か生き方の役に立つと考える立場のお方がおられます。例えば、スポーツマンがスランプの時、それを脱するために山寺にこもるとか、政治家が自らの進退を決するために座禅をくむとか。

ここでの主体は世俗の論理であって、仏教は利用すべきものと考えられているようです。〝為になる〟という考え方です。

蓮如上人のお言葉に (『御一代記聞書』一五七)

「一、仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひ相はたらくべきことなりと云々。」

主客の逆転にこそ、救いの意義があるのではないでしょうか。

「もし、お救いの中に生き方の規定があるとすれば、そこからはみ出した者は、もれてゆかねばなりません。『一人ももらさじ』との、お救いには、生き方の規定はありえないのです。私たちは訂正不可能な日々を生きております。それぞれの個性を日々生きております。一人々々をめあてとする平等のお救いには、条件はありえないのです。」

お話を聞いてくださったクラス担任の先生が、

「校長先生、何か教育現場に欠けている問題のようですね。」と、おっしゃてくださいました。

阿弥陀さまは、私たちの生き方の変わるのを待って、それから救おうとなさるのでなく、変えようのない凡夫と見抜かれた阿弥陀さまは、自らが変わってくださいました。南無阿弥陀仏と名告りはたらくおすがたとなってくださったのです。

私の口もとに「安心なさい、そのままでいいよ、南無阿弥陀仏は今ここにおるよ」と、私の身に入り満ちておってくださいます。

工夫十分なるお救いによって、凡夫の自性はひとつも変わらぬままに、広大な値うちものの身にならせていただくのです。そこにこそ、世俗の価値観から脱却した、真の仏弟子としての生き方が恵まれてあると申せましょう。

『一味』640号 (行信教行の機関紙)以下同じ。

金剛の信心ばかりにて

如来のおおせにうちまかせたる信心。
その信心を親鸞聖人は〝金剛心〟とたたえられた。きらめく美しき言葉だ。
もとより、金剛とは金剛石・ダイヤモンドのことなのだから。

唐の善導大師は処々に金剛を語られる。

その一つ、回向発願心の御釈には、〝必ず浄土に生るゝに決定した心〟〈作得生想〉を、「この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。……」と。

それらの意趣を研ぎすまして、さらなる輝く言葉に磨きあげてくださったのが親鸞聖人でありました。

〝金剛〟と喩えられる所以は何か。以下四点よりうかがえば。

  • (イ) その体、清浄なる故に
ダイヤは純粋な炭素の結晶体。屈折率は宝石中最大。光輝あふるゝきよらかさが、多くの人を魅了する。
いま信心の体=本質を言えば、無上の佛智。ひとかけらの煩悩をもゆるさず、一点の執着もなし。無漏清浄なる佛智が衆生の煩悩心中に満ちみちてくださる。
「金剛の真心」とは、入り満ちたる如来の真実心を指す。
  • (ロ) その相、堅固なる故に
ダイヤの硬度は鉱物の中で最大。著しい高温と高圧のもとに形成せられたダイヤ。その語源となるギリシャ語「アダマス」は「打ち勝ちがたい」の意であるとか。
他のいかなるものをもってしても破壊できぬ。
これをもって、他力信心の相を喩えられたのが「金剛堅固」。
源信和尚の『往生要集』には、
「一切の煩悩・諸魔怨敵、壊することあたはざるところなり」と。
  • (ハ)その用き、摧破する故に
岩盤を打ち抜くボーリング工事、地中深きトンネル工事に、ダイヤモンドは欠かせない。最高の硬度は、他のいかなるものをも摧破する力用をもっている。
いま、同じく金剛の信心は、一切の無明煩悩を破して断滅する力用をもつ。
弥勒菩薩は、等覚の金剛心を窮むるが故に、ついに元品の無明(もっとも根源的な迷い)を破して、無上覚のおさとりを極めなさる。
念佛の衆生は「便ち弥勒におなじくて」如来他力なる横超の金剛心を窮むるが故に、命終まさにその時、大般涅槃を超証す。
迷いの因《煩悩》のみならず、迷いの苦果をも截断す。「即横超截五悪趣」(正信偈)
  • (ニ) そのもの、獲がたき故に
ダイヤモンドの最大の輸入国は日本とか。獲がたきはずのダイヤなのに、コマーシャルの多さはどうしたことか。金満国なのか。ともあれ、名だたるダイヤは獲がたきゆえに、多くの争いを生んだという。
いま言う金剛心は争いを生じない。なぜなら、一人一人の衆生の上に、如来の佛智が入り満ちてくださる。
「悲願は、たとえば湧泉のごとし。智慧の水を出して窮尽なきが故に」(行文類)
一々の衆生に、かかりはてられたる大悲なるに、獲がたき理由は疑いの情、自力のはからいがそうさせる。自力疑心の悲しさは、如来広大の恩徳を迷失す。
「難信金剛の信楽」とは、獲がたき金剛の佛智をたまわりたる大きなるよろこびでもあるのだ。
五濁悪世の われらこそ 金剛の信心 ばかりにて
ながく生死を すてはてて 自然の浄土に いたるなれ

                (高僧和讃・善導讃)

釈尊は、五濁悪世のわれらに、弥陀法を説くこと、極めて難事なることを知りぬかれてある。にもかかわらず、その難事を行じなされた。

『阿弥陀経』終わり近くの一節、十方の諸佛方はこぞって釈尊を讃えなさいます。

善導大師の御釈によれば、

「十方の方角におのおのガンジス河の砂つぶの数の佛がましまして、同じ心にて釈尊を讃えたまう。

『釈尊よ、あなたはようこそ、この五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなる時に、弥陀佛の名を説きて、ほめたたえなさいました。ようこそ衆生にすすめて、名を称うれば必ず浄土に生まるゝとお説きなさいました。』

また、諸佛がたは皆、釈迦一佛の説法ならば、あなどるやも知れぬ衆生に向かって、同心同時に、それは間違いなきことぞと、言葉を重ねて証明なされた。なんじら衆生よ、まさにこの釈尊の説きたまうところを信ずべし。」

                   (観経四帖疏・散善義取意)

五濁悪世にうごめく我等=無善造悪の凡夫が、釈尊金口の説法によって、弥陀佛のお救いに聞きふれる。 弥陀佛は我等衆生を覩見なされた。そこに映し出された衆生のすがたは深い悲しみに満ちている。

「一切群生海は、始めなき昔より、今日今時に至るまで、よごれきってひとかけらも清浄の心なし。まがりきってひとつとして真実の心なし。」

                       (信文類・至心釈)

弥陀佛の深い悲しみは、衆生を救う願力となって告げられる。真実なき衆生ならば、この弥陀が真実となりきってその身心に入り満ちようではないか。

「安心せよ、如来ここにあり」弥陀佛の真実心がわれら心中に徹到してくださる。

「真心徹到するひとは 金剛心なりければ」もはや壊れようがない。

他にタノムものなく、待つものなし。「金剛の信心ばかりにて」必ず浄土の佛となる。

ふとわが心を憶うに、必ず浄土に生まるゝという思いは微少なものだ。四六時中、夢の時を含めても、思うは世俗のことばかり。

しかし、たとえ微少であっても砕けようがない。金剛堅固なのだから。 貪瞋煩悩さかんにして、いまは迷いの身。迷っているとは思いにくくとも証拠がある。やがて死ぬ身。生死輪転の身なのである。過去世のことには思い及ばぬながらも。

ともあれ、いまこの人生が輪転の結句。生死流転のうちどめなのだ。金剛の真心入り満ちたる身。もう迷いに止まることはない。

〝ながく生死を すてはてゝ 自然の浄土に いたるなれ〟

〔昭和六十三年『一味』623号〕

工夫十分なるお救い

☆ 浄土眞宗の入門書?

将棋の内藤國雄九段が、あるエッセイに書いておられた。以下の様なお話。

「最近の若手棋士たちは、棋譜の勉強にパソコンを活用している。自分はいまさら始めようとは思わないけれど、ふと本屋で『誰でもわかるパソコン入門』という本を手にしてみた。ところが、いざ読んでみると何が書いてあるのか、さっぱりわからない。〝誰でもわかる〟はずが、どうやらそうではないらしい。将棋の入門書も、全く駒の動かし方すら知らない人に〝誰でもわかる〟本を書くのは、実にむつかしいことだ。・・・」

そのエッセイを読みながら、「はて、浄土眞宗には、誰でもわかる入門書というものが、果してあるのだろうか。いや、待てよ、阿弥陀さまの工夫は十分だから、入門の為の手だてを必要としないのではないだろうか」と、そんな思いがいたしました。

おばあちゃんの膝の上で、小さなおまごさんが、「まんまあーーん」と、もみじの手を合わせている。

入門書も何もいらない、はやお念佛の人なのです。

それでは、いったい、私たちの口もとに「まんまあーーん」とあらわれてくださる南無阿弥陀佛とはどんな佛さまなのか、どのような工夫をして、どのようにして私の身に入り満ちてくださるのか、そしてどのような身に仕上げてくださるのか。

それを生涯かけて、お聴聞させていただく。阿弥陀さまの願いに聞きふれてゆく。阿弥陀さまの仰せを聞くひとつ。お聴聞のほかは無いのですね。

その広大なしくみ、教義を学ぶ入門書はたくさんたくさんあるのでしょう。でも、教義を理解して、それからお念佛に入門するのではなさそうです。

あるお寺でお聴聞をさせて頂いた時のこと。夜のご法座が果てゝ、山門の所まで来ると、世話方をなさっているお同行とばったりお顔をあわせました。

「ご院主さん、ようおまいりしてくれはりましたな」

「つづいてお世話頂いて、ありがとうございます」

「いえいえ、お役をさせてもろうてるだけですがな。そやけど、ご院主さんらはお話聞いたはっても、ようわからはりまっしゃろけど、わたいらは本堂で聞かせてもろうてる時は、わかったように思いまんねんけど、草履はいてここまで来たら、みんな忘れてしまいますわ」

「よろしまんがな。私が阿弥陀さんを忘れたかって、阿弥陀さんが私を片時もお忘れでないから安心ですわな。」

阿弥陀さまは、私たちの理解力を決してあてにはなさらない。『賢愚簡ばず』のお救いです。『賢いということは手柄にはならず、愚かであることは邪魔にはなりえず。そのまま救う。』

私どもの持ち前が、決して悟りの役には立たないことを見抜かれてのお救いです。

理解力およばぬままに、聞かせて頂く。阿弥陀さまのお誓いは、工夫十分ですから、聞くひとつにともなって、広大な利益がめぐまれる。その工夫十分を聞かせて頂くほかはないのですね。

阿弥陀さまのお誓いは、世俗の論理ではありません。人間の作り出した話ではありません。井戸端会議からは決して出てこない内容です。

ですから、世俗の価値観をもってしては、はかり知ることは不可能なのですね。むしろ、世俗の価値観にふさがれている私が、阿弥陀さまの価値観の中に摂め取られてゆく、そこにおおいなる安心のご用意があるのです。


阿弥陀さまに真向かいで

寛喜三年(一二三一)親鸞聖人五九歳、初夏四月八日※のこと。その昼ごろ風邪をひかれたご様子にて、大事を取られて夕方から床に就かれたのでした。このときの事が、三十二年後、聖人ご往生の知らせをうけて、末娘の覚信尼さまにあてられた、惠信尼さまのお手紙に記されています。

このとき親鸞さまは、腰・膝をさする人も近ずけず、全く看病人もよせつけずに、ひとりお部屋にこもって臥しておられたのです。

心配のあまり、惠信尼さまは親鸞さまのお身体をさぐられます。火のようにあついお身体、頭痛も激しいご様子。「人を近づけるでない」との仰せに、たゞ案ずるよりない惠信尼さまです。

四日目の明け方、苦しげなご様子で「まはさてあらん」と親鸞さまがおっしゃいます。「うわごとを仰せですか」とお尋ねになれば、「たはごとにてもなし」と寝床にて思案なされた事柄をお語りになられました。

床に臥して二日目の日より『大経』を読むことひまもなし。たまたま目をふさげば、お経の文字が一字も残らず、きららかにつぶさに目に焼き付いて離れぬ。はて、これはどうしたことか、「念佛の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべき」と想いをめぐらしたのだよ。

その思案のために、人を近づけることを許されなかったのでしょう。

親鸞聖人は床の中で、十七・八年前の事に思い至られました。衆生利益の為に三部経を千部読誦せんとなされたこと。そのときのことは、惠信尼さまにとっても、忘れ難い出来事でした。

「三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野(こうずけ)の国やらん、佐貫(さぬき)と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸(ひたち)へはおはしまして候ひしなり。信蓮房は未の年三月三日の昼生れて候ひしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候ふ。」

親鸞聖人四十二歳、幼子とともに越後を旅立たれて、光寺を経て利根川のほとり、上野の国(群馬県)佐貫に来られた時のこと。源平の争いの頃以後、気候の悪化も重なり、飢饉に田畑を捨てた人びとが、街道筋にあふれておられたことでしょう。

親鸞さまが風邪をひかれた寛喜三年の頃も、全国大飢饉だったのです。十七年前のことがなまなましく思い返されたことでしょう。

親鸞さまは僧侶であるわが身が、何一つ力になれぬ。己が身のつらさ、悲しさに、三部経千部読誦の功徳をもって、飢えに倒れる人びとに施そうと思いたゝれたのでした。

その時のご様子を想像いたします。三部経千部読誦には、恐らく百日間の日程を要します。 「惠信尼よ、明日から三部経千部の読誦を始めるぞ。」

そうして、夜明けから夜更けに至るまで、小さなお御堂の如来さまの前に座り続けられました。次の日も又次の日も、幼子を抱かれた惠信尼さまにとっても、つらい日々であったでしょう。明日の日暮らしの不安を抱きながらも、そのお姿をたゞ見守る他ありません。

四、五日を経た時、お堂の親鸞さまのお声が途切れました。障子の隙間からそっとご様子を覗かれた惠信尼さまの目に、肩を小刻みに揺らされている親鸞さまの後ろ姿が映ります。何事か、目を凝らせばさめざめと涙を流されておられるではありませんか。近づき難い気配に息をひそめて案じられるばかりです。

衆生利益の為に三部経読誦を始められた親鸞さまの耳元に「親鸞よ、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするや」とのお声が聞こえてまいります。その声が、大きく大きくなって響いてきます。

「ああ、何ということ、法然さまから聞かせて頂いた他力のご法義は、念佛一行。十方衆生を救わんとお誓いになられた阿弥陀如来は、南無阿弥陀佛となり切って、今この親鸞の身に入り満ちておって下さる。この親鸞一人をこそ捨てぬお慈悲の前に、捨てられてゆくお方のあろうはずが無いではないか。 思い上がったか親鸞よ、飢えに倒れる人びとにはお慈悲がとどかぬと思ったか、阿弥陀さまに手落ちがあると思ったか。その手助けが必要と思い上がったか。」

千部読誦を始めるよりも、その発願(ほつがん)を止(や)めることのつらさ、いやそれよりも、この親鸞一人にこそかゝりはてられたる弥陀佛を仰がれる涙であったでしょう。

己れの真実が役に立つと考える「人の執心(しゅうしん)、自力のしんは、よくよく思慮あるべし」と思いかえされたのでした。

しばらくの時を経て、何事も無かったように「惠信尼よ、経を読むことはやめたぞ」と告げられました。ほっとなさる惠信尼さま。・・・

それから十七年後のこと。明け方、このことに思いいたられた親鸞さまは、「まはさてあらん」(いまはこれ程にしておこう)と、仰せられたのでした。

この時、善導大師の『初夜禮讃』のお言葉を引用されておられます。

自信教人信  自ら信じ、人を教へて信ぜしむること、かたし
難中転更難  難きなかにうたたまた難し。

『ご本典』信巻・化巻には、続く二句までご引用です。

大悲弘普化  大悲弘く、あまねく化するは、
真成報佛恩  まことに佛恩を報ずるに成る。

流布本では、「大悲伝普化」(大悲を伝へて普く化する)となっている。ところが親鸞聖人は「弘の字、智昇法師の『懴儀』の文なり」と、注目せられるのです。

「大悲弘普化」私がお慈悲を伝えることではない、お慈悲が衆生を化益(けやく)する。それを仰ぐ他はないのです。

『悲歎述懐和讃』に

無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
 まことのこころはなけれども
弥陀の回向(えこう)の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ
小慈小悲もなき身にて
 有情利益(うじょう りやく)はおもふまじ
如来の願船いまさずは
 苦海をいかでかわたるべき

大慈悲の化益を仰ぐこと、それこそが報佛恩の営みです。阿弥陀さまに真向かいの親鸞聖人。その後ろ姿に、お慈悲の尊さを知らせて頂きました。

聖人八十五・六歳の頃に作られた『恩徳讃』も、『正像末和讃』五十八首の結びとして、阿弥陀さまに真向かいで歌われたのです。

私どもは、その親鸞さまの後ろ姿にあわせて、阿弥陀さまに真向かいでご一緒に唱和させて頂く。広大なるお慈悲への賛歌なのですから。

※この日時については、初めのお手紙では「四月十四日」と記されているのですが、後に日記を確かめて訂正なさっておられるのです。

御文のなかに先年に、寛喜三年の四月四日より病ませたまひて候ひしときのこと書きしるして、文のなかに入れて候ふに、そのときの日記には、四月の十一日のあか月、「経よむことは、まはさてあらん」と仰せ候ひしは、やがて四月の十一日のあか月としるして候ひけるに候ふ。それを数へ候ふには、八日にあたり候ひけるに候ふ。四月の四日よりは八日にあたり候ふなり。

    わかさ殿まうさせたまへ        ゑしん

先の手紙で、「四月十四日」と記されたのを、勘違いをされて、「四月四日」と記されたのですが、「臥して四日と申すあか月」が「四月十一日」の暁であれば、「四月八日」から風邪をひかれたことになります。

『一味』642号

そのままのお救い

源平の争いに名を残す、熊谷次郎直実。幾度となき戦を経て、一の谷の合戦では、我が子と歳のかわらぬ平敦盛の首を討ち、その無常感の中に出家発心をされたという。

その後五十二歳の頃、所領争いを機に、自ら髻(もとどり)を切って逐電し、浄土を期する身となられる。

『四十八巻伝』に依れば、つぎの年、聖覚法印(27)の房を訪ねて、後生菩提の事を尋ねられている。聖覚法印の祖父は保元の乱の首謀、藤原信西入道であり、平治の乱で討たれている。

実はこの時、直実二十二歳、源義朝の配下として、信西討伐の戦いに加わっていたのである。聖覚とその父、澄憲にとっては仇とも言うべき直実です。

しかし、浄土を期する直実に対して怨恨の情を交えず、聖覚法印は、「左様の事は、法然上人に尋ね申すべし」と、告げられるのです。

そのすすめによって、法然聖人の庵室に参じた直実は、武将としての自らの罪業のありだけを語られたに違いありません。

静かに耳を傾けられた法然聖人は、

「罪の軽重を言はず、唯、念佛だにも申せば往生するなり。別の様なし」と、語られるのみでした。

この言を聞きて、しばし言葉も無くさめざめと涙を流す直実。 「何事に泣き給ふぞ」と、法然聖人が問われると、
「手足をも切り、命をも捨てゝぞ、後生は助からむずるとぞ、うけ給はらむずらんと存ずる所に、『唯、念佛だにも申せば、往生はするぞ』と、易々と仰せを被り侍れば、余りに嬉しくて、泣かれ侍る」

そこで法然聖人は、諄々と「無知の罪人の念佛申して往生する事、本願の正意なり」と、念佛の安心を細かに授けられたのでした。直実の罪業もろともに抱き取って捨てぬ弥陀法「そのままのお救い」を告げられたのです。

罪業意識、これがあってはじめて法を聞く事ができるのかと言えば、決してそうではありません。罪を罪として意識するところには、はや真実の法がはたらいてあるのですね。私が私自身に気づくよりも先んじて、この私の罪業を悲しみ抜かれた阿弥陀さまです。

「佛かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」(『歎異抄』第九条)


他力の弥陀法には、私どもに、罪に対する不安すら持たせまいとされるご用意があるのですね。「罪深きこと」それは私のすべき心配ではありません。阿弥陀さまが心配し抜かれた中身、お慈悲の素材なのです。

蓮如上人の『御文章』には、 「さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。」(五帖目第一五通)

「当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、 なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、」(五帖目第一八通)

当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば佛にまかせまゐらせて、」(五帖目第二一通)

「うちすてて」とは、「我が心配には非ず、無用のこと」との仰せです。

阿弥陀さまは、私の持ち前をあてにはなさらない。あてにしては救いが成就しない。「衆生には成佛に役立つ真実が無い」と見抜かれてある弥陀佛は「ならば、この弥陀が真実と成り切って衆生に入り満ちよう」と、我等が身を生き場となさいました。

この私の変わることを待つこと無く、弥陀佛が変わってくださった。「そのまま救う、唯念佛せよ」「そのままでいいよ」と、かかりはててくださる、それが我が口に南無阿弥陀佛と名告(なの)りはたらくお姿です。

先年あるご法座でのこと。ご講師が「安心せよと阿弥陀さんがおっしゃるんだから、安心して阿弥陀さんにおまかせなさなさるといいですよ」とご説法くださいます。

私の右前に坐っておられたおじいさんが、カバンの中からノートを取り出されました。その動きにつられて、ふと、目をやると、そこにボールペンをはしらせて「安心出来ん」と書かれたのです。

そのひと言を記して、ノートをもとのカバンにしまわれました。そのひと言の中に「安心せよ」と言われても、「安心できぬ」という、正直なお心を知らせて頂いたのです。

生まれてこのかた、本当にまかせきれる、たよりきれる、そういうものに会ったことの無い私どもには「安心できん」のが本当なんですよね。

「安心できぬ」私ども、そのことこそが、阿弥陀さまの深い悲しみの中身でした。「安心できぬ」私であることを見抜かれてある阿弥陀さまは「そのままでいいよ」と、抱き取っていて下さいます。そのお慈悲のぬくもりを聞かせてもらう。聞かせてもらうと「安心できぬ」ことの心配はいらぬことになる。

それでも「安心できん」「そのままでいいよ」「そのままでいいよ」「そのままでいいよ」

(参考 梶村 昇著『熊谷直実』東方出版)

『一味』643号

阿弥陀さまに真向かいで(その2)

しかれば祖師聖人(親鸞)は、弥陀如来の化身にてましますといふことあきらかなり。

これは『御伝鈔』巻上・第四段の一節です。
著者、覚如上人は親鸞聖人の曾孫。その誕生は、文永七年(一二七〇)の十二月。曽祖父親鸞聖人がご入滅なされて八年後のことでした。

幼くして母と死別し、祖母である覚信尼さま(親鸞聖人末娘)の膝下に育たれました。

若き頃、父、覚恵さまに連れられて、親鸞聖人のみ跡を慕う旅をなさっておられます。そうした旅を通じて、阿弥陀さまに真向かいの親鸞聖人の後ろ姿を仰がれたのです。

たゞ人にあらざるお方、阿弥陀如来のご化身としての親鸞聖人。これはなにも血縁関係があるゆえに仰ったのではないのですね。

先のご文の依りどころとなさったのは、親鸞聖人常随のお弟子、蓮位房の夢想でした。

一 蓮位房〔聖人(親鸞)常随の御門弟、真宗稽古の学者、俗姓源三位頼政卿順孫〕夢想の記。

建長八歳(1256)丙辰二月九日の夜寅の時、釈蓮位、夢に聖徳太子の勅命をかうぶる。皇太子の尊容を示現して、釈親鸞法師にむかはしめましまして、文を誦して親鸞聖人を敬礼しまします。

その告命の文にのたまはく、
『敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中決定即得無上覚也』文。

この文のこころは、「大慈阿弥陀仏を敬ひ礼したてまつるなり。妙なる教流通のために来生せるものなり。五濁悪時・悪世界のなかにして、決定してすなはち無上覚を得しめたるなり」といへり。蓮位、ことに皇太子を恭敬し尊重したてまつるとおぼえて、夢さめてすなはちこの文を書きをはりぬ。」【『口伝鈔』十三】

聖徳太子が親鸞聖人を、阿弥陀佛として敬礼なされたという夢です。蓮位房にとっても、たゞ人にあらざる親鸞聖人でした。

実は、この蓮位房の夢から、ちょうど一年後、しかも同じ時刻に、親鸞聖人も夢をごらんになりました。

康元二歳(1257)丁巳二月九日夜寅時夢に告げていはく

弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」 【正像末和讃】

親鸞聖人からこの夢のことを聞かれた時、蓮位房は身ぶるいするような想いを胸の内に抱かれたことでしょう。

『歎異抄』の後序には、
聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。

唯円房の目に写る親鸞聖人のお姿も、たゞ人にあらざるお方。「かたじけなく、わが御身にひきかけて」ご教化下さるお方でした。

『一味』644号

お礼を申す

ある年のこと、本州の西端近く、山口県の先輩のお寺の《親鸞聖人ご正忌法要》に、ご法話をさせていただく機会にめぐまれました。

お寺は日本海に面した漁師町のはずれにあり、ご法要は、一月十四日から十六日までの三日間です。新下関から一時間程、車中から見えるお寺の山門には仏旗が目に入ります。どのお寺もご正忌法要の真っ最中でした。

お寺に着くとあらためてご挨拶を下さいます。 「ご講師さん、ここらは何にも無い所です。まぁ海のものがおいしい所ですが、ご正忌はお精進ですので、それもお出しできません。もし帰路お急ぎでなかったら、法要のあと近くの料理屋で一献をと思いますが、いかがでしょう」

私に異存は無く、仰せどおりにご馳走にあずかることになりました。近くの先輩・友人を交えて五人が、漁師町にあるこじんまりした料理屋に行ったのです。

仲居さんがお膳をはこんでくださいます。すると先輩がその仲居さんに向かって 「あなたはどこの門徒かね」と尋ねられます。

仲居さんは

「はぁ私は○○寺さんの門徒です」

そのあたりはほとんどが浄土真宗の土地柄だそうで、仲居さんも真宗のご門徒でした。 「そうかね、今日はご正忌に参ったかね」

「いいえ、私はこのお店がありますから参れやしませんです」

「つまらんじゃないか。ご正忌に参れんような門徒じゃつまらん」

先輩は他のお寺のご門徒にまでお叱りになります。

「はぁ、私は今日早出の当番が当たっておりましたから、お店に出にゃならんし、とても参れやしませんので、朝一番にお寺のお御堂にまいって、お礼を申してまいりました」

「ほう、そうかね、今あなたはえぇことをおっしゃったね。《お礼を申して》来られたかね」

「はぁ、お礼を申して、それから大急ぎでこちらにまいりました」

「そうかね。えぇことを聞かしてもろうたね」

と、ひととき仲居さんを交えて、ご法義のお話に花が咲きました。

ご正忌は親鸞聖人のご法事です。ようこそ阿弥陀様のお救いを身にかけて伝え残してくださいましたね。そのご命日にあたって《お礼を申す》、親鸞さま九十年ご苦労でございました、ありがとうございました。

いま私の手元には、あなた様の書き残してくださった『お正信偈』『ご和讃』を頂いております。今こうして、阿弥陀さまのお慈悲を聞かせてもらう身になりました。こころ新たに《お礼を申す》ひととき、それが御正忌だと、仲居さんのすばらしいお言葉を聞かせて頂いたのです。

『一味』654号


《降誕》の意味するもの

「きょうは花まつりとは言え、まだ桜はちらほら咲きですねぇ。・・・」

「んっ?」

車中のラジオに引きつけられる。どうやらアナウンサーさんは、四月八日を「桜の花祭り」とお考えであったらしい。

四月八日は何の日? 入学式かな? いいえ、お釈迦さまの「お誕生の日」なのです。その時、諸の天人は花びらと香湯をふりそそいだ。それで「花まつり」「潅佛会」ともいう。

もっとも、二千五百年も昔のこと、仏教国でも暦(こよみ)の歴史や伝承が異なることもあって、慣習はさまざまに違っているようです。

キリストさまのお誕生日は、ケーキにプレゼントと、ずいぶんにぎやかです。お菓子屋さんもぜひ「花まつり蓮華パイ」〔なまえがもう一つかなぁ〕など、いかがでしょうか。

五月二十一日は、親鸞さまの「お誕生の日」(昔の暦日のままだと、四月一日なのですが)この日を「降誕会」と呼び親しんでおります。本願寺はじめ、各地の寺院では、およろこびの法会が開かれます。

ところで、仏教徒の先人は「誕生」という言葉でなく「降誕」と語り伝えてこられました。単なる人間の誕生ではなかったのですね。お釈迦さまがお生まれになると、七歩あゆまれて《天上天下唯我独尊》とお語りになったと、それを大まじめに伝えてこられたのです。

そこには「ようこそ、この私一人のために、この娑婆世界にお出まし下さいましたね」という意味が込められています。

私たちは、お釈迦さまよりも、のちの時代に命を受けられてよかったですね。なぜなら、『お三部経』の経説に聞きふれることができたのですから。

親鸞さまよりも、のちの時代に生まれることができてよかったですね。なぜなら、自ら阿弥陀さまのお誓いを身にかけて、たくさんのご法語をこの私に書き残してくださったのですから。

そうして、いまここに生きることができてよかったですね。ここは、お念仏の聞こえる世界、お念仏の申される世界です。私の耳に聞こえる程に、浄土真宗のご法義がはんじょうしていてくださった。これを伝え残したいですね。その方法はたゞ一つ、私自身が阿弥陀さまの仰せに聞きふれること。息の出入りする、いまここが、阿弥陀さまの活動の現場なのですから。

念仏者としてのあらたな誕生。諸仏がたは、きっとよろこんでくださいます。「かならず仏となる命。ようこそこの煩いの娑婆にお生まれなさったね。ようこそ難信のお念仏の身となられたましたね」と、私の《降誕》を。

『一味』655号


目連尊者が見たもの

モッガナーラ(目連尊者)の誕生の地は、王舎城の北のコーリタ村と伝えられている。王家のバラモンの一人子として、父母の熱愛をうけて成長した。近隣の村に生まれたサーリプッタ(舎利弗尊者)とは幼な友達として互いに切磋琢磨して道を求めた。もしすぐれた師に出遇ったならば行動を共にしようと約束した仲であった。

釈尊成道の二年頃、サーリプッタは仏弟子のアッサジ比丘から諸法因縁の偈を聞き、驚き歓んでモッガラーナに知らせる。二人は相携えて釈尊の弟子となった。やがて目連はそのすぐれた修道によって神通第一の尊者と讃えられることになる。

父母のもとを離れてながく出家の道を選んだ目連は、祇園精舎において初めて神通自在の境地に至ると、先ず第一に亡き父母を済度して養育の恩に酬いようと思った。神通力によって捜し当てた母は、なんと餓鬼道の身となって痩せ衰えはてた姿であった。

目連は悲しみのあまり、鉢に飯を盛って母に供えた。むさぼる母はその飯を口に入れる。するとその飯は火炭となって母の口を焼いた。施そうとすればする程、それによって更に身を焼き苦しむ母。

泣き帰って釈尊に詣でて、愍みを請うた。
「汝が母の罪は、汝ひとりの力にてはいかんともしがたい。九十日間の安居が終わる七月十五日は出家比丘の懺悔表白の日である。その日に麦飯・五菓・香油・臥具などをそろえ衆僧に供養すれば、彼らは一心にその供養を受けるであろう。清浄の戒を保つ聖衆の徳は大洋のごとく広大であり、その供養の功徳によって現世の父母のみならず過去世の父母も三途の苦しみを脱するであろう」【山辺習学師著『仏弟子伝』他参照】

この伝説にならって、七月十五日に父母の養育の恩を報ずるために衆僧供養を行う行事が盂蘭盆会の始まりと伝えられる。

さて、目連尊者の見た母の姿とは何であったのか。餓鬼道とは貪欲愛着の結果として受けねばならぬ苦の世界をいう。目連は一人子として母の愛を一身に受けた。それは無償の愛に違いない。もし子に対して見返りを求める愛であれば、親は親であることを失う。餓鬼と化した母の姿は、一人子の目連を偏愛するゆえに為さねばならなかった罪の報いである。目連は哀れな母を救おうとしたがかなわない。それはまた母への偏愛であった。

苦の姿の重さは、そのまま子を愛するゆえに作らねばならなかった罪の重さをあらわす。養育の手柄も語らず、見返りも求めず、子を愛したゆえの苦しみ。釈尊の慈語によって偏愛の執着から離れたとき、その苦の姿の中に養育の恩の深さを見た。その時すでに、目連も母も共に救いの中にあった。

『一味』656号


おとりこし

「たろべぇやんとこの ほおんこさんだっさかいに おまいりなはっとくんなはれやー」

子ども達のふれ声が聞こえると、おとりこしの季節だったそうです。

ご門徒の家では一年に一度、家族がそろって、嫁がれた娘さんも実家に帰り、ご近所のお同行も「おとりこし」の正客、そうして、皆がお佛壇の前でお正信偈をおつとめする。

私の住まいする地域では、その風習が太平洋戦争をさかいに途絶えてしまいました。お佛壇を中心にした一日の生活、毎月のお講、年中の行事が、都市化・核家族化の波の中にその伝承を失ってしまったように思うのです。

今日では、「おとりこし」て、何のこと? と、思うお方も多いことでしょう。

新聞の投書欄に、ふるさとの「おとりこし」をなつかしく思いかえされたある女性の方は、思い違いをして「おとりこしとは、ご先祖のおまつりなのです」と、書いておられました。

「おとりこし」とは「取り越し」のことで、親鸞聖人の御正忌報恩講を、そのご命日の前に引き上げてお勤めすることなのです。

近畿地方の寺院では、ご本山の御正忌に参拝するために、それぞれのお寺の報恩講はそれより早くに取り越して勤める習わしでした。

ご門徒のご家庭での報恩講もそれにならって、「おとりこし」「おひきあげ」と呼ぶようになりました。

滋賀県湖東のある地方でのお話。
中国地方出身のAさんは、奥さんの実家近くで住まいされるようになりました。ふるさとのご住職が京都の本願寺に研修に来られるというので、その日程に合わせて、ご法事を勤める手配をされました。

いっそのこと「おとりこし」もいっしょに勤めたらよかろうと、親戚に相談をされると、奥さんの父親から、「そんなもん いっしょにするもんやない」とお叱りをうけられたそうです。

それで二日に分けて「おとりこし」と「ご法事」を勤められることになりました。しかもお佛壇のお荘厳を見れば、「おとりこし」は五具足(お花・蝋燭が一対)、「ご法事」は三具足(お花・蝋燭が一つ)でした。 つまり、「おとりこし」が何より大切なお佛事だぞと、父からのご教化だったのです。

「聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもって……」耳慣れた『御文章』のお言葉です。

親鸞聖人が身にかけて、お伝えくださったお念佛のおみ法。私自身が気付くよりも、はるかに先立ってこの私を大切にされたのが阿弥陀さま。そのことを知らせてくださった親鸞聖人。縁あって浄土真宗の家庭に身を置くことができた私たちです。親鸞聖人のお徳を偲び、年に一度の行事としてご家族そろっての「おとりこし」。何よりも大切に。

『一味』657号


お盆によせて

「お盆の里帰りはね、家族の交通費だけじゃないでしょ。お供えやら、おみやげやら、それは物いりで、たいへんなんですよ。」
とは、都会に住む人の嘆きです。

「お盆はね、ご先祖が帰ってくるだけならいいんです。兄弟姉妹までが家族連れで帰ってくるでしょ。片づけから、食べるものの準備から、たいへんなんですよ。」
とは、ご本家の嘆き。日本全国たいへんなんですね。

ところで、ご先祖が帰って来るという表現が、当然のごとくに使われるのですが、それがどういう起源をもっているのかは、まことにむつかしい。

五来重師は、『庶民信仰の諸相』の中で、
「日本人の霊魂観では新精霊は、新魂であるとともに荒魂である。お盆はこの荒魂をむかえてまつることによって、その祟りやすい性格を和らげるのである。

新魂はなぜ荒魂なのかといえば、生前の罪のために死後地獄の苦をうけるので、その怨恨が災害の源になると信じられた。そこで、できるだけ早く送り出すわけである。

とくに非業の死者の霊や戦の中でたおれた霊は、祟りやすい霊としておそれられた。

ところが、夏から秋にかけては流行病が発生しやすいので、これは荒魂が浮遊して災をおこすためだと昔の人はかんがえた。

そこで、お盆には盆棚または精霊棚をつくってこれに荒魂をまねきよせ、お供物によって御機嫌をとりなすだけでなく、水を棚にかけて霊の罪穢を浄めてやる。……」と記されている。

浄土真宗の家庭においては、こうした精霊棚などの鎮魂の作法はありません。これには、あきらかなお浄土という世界観があるからなのです。

お盆のニュースには、きまって帰省ラッシュとお墓参りの影像が流れます。そのコメントには、又々、きまって「……先祖の霊を慰めました」とある。困ったものです。

マスコミを通じて、こうした精霊観が日本全国に流されてしまう中に、私たちは置かれている。慰めなければならないご先祖とは、迷いの境界にある人なのでしょう。悲しいことに、お浄土という世界観を持たない人は、亡き人を迷いの身として扱い、ご先祖を恐れの対象とされることになるのです。どうやら、日本人の意識の中に、死者を恐れると言うことが、抜きがたくあるようです。

ある日、タクシーの運転手さんとの会話に、街中を流しているタクシーは、決して乗車拒否ができないとのこと。お客とのトラブルに巻き込まれる可能性がいつだってありうる。

「そうですか、どんな人が乗ってくるかわからんというのは、おそろしいですわなぁ」

「お寺さんは、その点よろしいなぁ」

「どうしてですか」

「そらぁ、死んだ人が相手やもん、怖いことしまへんがな」

「なるほど、生きてる人間が恐ろしい」

そう、煩悩を抱えた生身の人間ほど、恐ろしいものはない。そのことに気付かずに、死者を恐れの対象とするのは、恐らく我が身の生き死ににかかわってくるからなのでしょう。

昔の日本人は、人間が死ぬのは、何かがとり付いたからだと考えた。それが自分にまで付いたらたいへんだと、すみやかに遠ざける方法をあみ出した。お葬式に見るさまざまな俗信はこうして生まれたようです。

食べ物の恨みは恐ろしい、そこで、最高のご馳走だった白米を炊きあげて、茶碗に盛って最後の食事とし、茶碗を割って「もう帰って来たって食べる器はありませんよ」と、追い出した。ワラを燃やして煙で家を見えなくし、お棺をくるくる回して、眼を回すことにより、帰る方角をわからなくした。それがすむと、塩をさがして清めておこう、これでもうすっかりかかわりはなくなったと。

なんとも悲しいしきたりですね。そうして追い出したものだから、年に一度は帰ってきてもらう。それがお盆と結びついたのです。暗い迷いの世界の人には火を焚いて、ご馳走を用意してお迎えをする。それでも長くいてもらうと困るから、三日ほどで帰って頂く。

こうした事にとらわれたお方に聞きたいのです。何処から来られて何処に帰って行かれるのですか。その世界観がないでしょう。

お浄土を知らされたものには、もう迷いの世界には用事がないのです。なつかしきお方とまた会える世界を頂いたのです。恐ろしさなど微塵もない。季節の花とお供えを用意し、なつかしさをもって、今は亡きお方を偲ばせて頂く。それがお盆のひとときなのですね。

『一味』674号