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阿弥陀さまが、ごいっしょです (1)

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真宗の法話

阿弥陀さまが、ごいっしょです (1)
阿弥陀さまが、ごいっしょです (2)
阿弥陀さまが、ごいっしょです (3)
お葬式 (若林眞人師)
お葬式 2(若林眞人師)
お救いと生き方_(若林眞人師)
四分六分の道
とんぼ安心
念仏ひとり遊び
お念仏は大きな海
阿呆堕落偈
仏の眼

浄土真宗ご法話集

藤岡 道夫師 法話

以下の文章は藤岡道夫師の了解を得ての掲載です。 尚、文章のタイトルはオリジナルにタイトルが無い為、一時的に付加したものです。


はじめに

畏友・広兼至道氏往生の後、その父上と夫人の懇請を承けて、氏が設置して間もなかった、法話電話を引継ぎました。

大光寺に移設して一年、こんな形にまとめるのは、実のところ早過ぎます。

しかし、一話十日間、年間の聴取合計六、五五三回。それが、五月の末から広兼氏の”命の際を承知してのご報謝の極み”を語り始めて以来、一話三〇〇回を何度か超えました。 五月以降の八ケ月は、一と月平均六七〇回に及びます。これは、当初の予想をはるかに上回るもので、冥加を喜ぶばかりです。

老いた人の誰彼が、製本をせがまれます。”受話器から、かろうじて聴きとりますが、文字でゆっくりたどりたい”とおしゃる。

特に、広兼氏にかかわる話”今一度聞きたい””くり返し味わいたい”と老若の希望がしきりです。

本来、受話器を握った人のその耳許に伝わり、それで消え失せてよろしいかと存じます。

それが”録音テープをおこしています。本にして下さい。聞こえぬが、読める人のために”と請われて思いたちました。

十日ごと三十六話。重複の言葉が眼ざわりでしょう。 ただ、西念寺深川倫雄和上の”この身の助かりぶりではない。阿弥陀さまのお助けぶりを告げる”とのかつての仰せに順うよう心掛けました。

”阿弥陀さまが、ご一緒して下さる”のであって”私が阿弥陀さまとご一緒している”のではありません。 私のことでなく、阿弥陀さまのお話です。

ずさんな原稿のまま、手を加えてません。字ではなく、声をもって伝えようと試みたところを、おくみ取りください。 なお表紙に、広兼氏のキリ絵、恵信尼さまシリーズの一景を、夫人に借りて使いました。

他は、氏の生前に貰い受けたものですが、特に全ページに見える”弥勒像”は、往生十八日前に手渡されたものです。

深甚の領解を偲び、豊潤なる仏恩をかみしめています。 昭和六十二年 大逮夜に

    大光寺住職 藤岡 道夫



昭和六十一年

昭和六十一年歳が改まりました。元日ということで、身に沁み入って偲ばるることがあります。

私共のご開山親鸞聖人八十五才の正月は、元日とその翌日の二日に亘って、西方指南鈔という書物の校合ということをなさっています。

これは親鸞聖人のお師匠、法然さまのお三部経についてのお話、あるいはその御遺言や、ご往生をめぐってのお話などを集められた書物です。 現在では親鸞聖人八十四才、八十五才の折りの筆跡のもの丈がとどめられて、日本の国宝として大切にされています。

書きあげられた西方指南鈔を、一字一字丁寧にご覧になって、字の誤りその他の手落ちがないかとおしらべなさいました。 それが元日から二日と続けられおわりました処で、正嘉元年一月一日、二日とそれぞれ日付を入れられています。

聖人におかれては丁度半年前、大切なお法ご信心の上の事から、お子さま善鸞さまの縁を切られ胸にたっぷり悲しみをきざんで、正月を迎えられています。

この年三月二日に書かれたお手紙には”眼も見えず候”と記められ、きわめて視力が衰えておいでのご容子がうかがわれます。

失明された訳ではありません。八十八才の折り、弥陀如来名号徳という書物を著わされています。 ともあれ元日といえども、ナマンダブナマンダブとお称名され乍ら、お師匠さまを偲ばれ、如来大悲の恩徳を仰いで老齢の身を傾けられます。

壮絶なるご報謝を尽くさるる八十五才のご開山さまで、この年はまた有名な恩徳讃を含む正像末和讃百十四首が成りました。 壮大なご報謝の営みが元旦に開始されているのです。



建長七年親鸞聖人

建長七年親鸞聖人は八十三才になられ猛烈な忙しさで一年が過ぎます。 尊号真像銘文・愚禿鈔・三経往生文類などを書き上げられました。

又教行信証・文類聚鈔・浄土和讃など既にお仕上げの書物を写し採られる作業、その上この年、善鸞さまの為お法混乱の極みにある関東から、審しさ疑わしさに耐えかね訪ねてくる同行の応接に暇がありません。 キリもなく届く質問状に一々ご返事なされる等、誠にご多忙の聖人でした。 あまつさえ暮れの十二月十日、火事のお為お住いを失われます。

時に、円仏房なる関東の一人の門弟、誰の導きが確かやら思い惑うた挙げ句、この上は直にお師匠さまにお出会いしてと思いつめます。 下人身分の円仏に自由はありません。銭で売り買いされ、人一人前の扱いは受けられませぬ。

思い決して主人に無断で出奔し、関東を後に京都に到り着きました。 火事のあとでお移り先も定かでなく、まして不案内の京の街に漸く聖人を訪ね当て、適切懇ろなお示しを承わり終わりますと、忽ち帰郷を告げる円仏房に、走り書きして手渡されたお手紙が今もとどめられています。

思いつめて主人に無断で上京の円仏の身を気遣われます。 そこで真壁の城主大内国時の甥に当り関東同行の中心人物・真仏房に当て、円仏の主人に取りなして身の安堵がかなうよう依頼されます。

”この御房よくよく尋ね候いて候なり。志有難きように候ぞ”と仰言います。世の下積みに漸く命繋いで生きる円仏を、この御房といとほしみ志有難しと、弥陀大悲にうるおう信心の行者をおし戴かれます。

大悲の御手の中に、如何なる命も見込まれて手離されず、願海平等にして皆御同朋の命なりと、振舞われる親鸞聖人でありました。



親鸞聖人八十四才

親鸞聖人八十四才、五月二十八日付けの手紙が今に残ります。関東の老同行・覚信房に宛”命候はば、必ず必ず上らせ給うべく候”と京都へ上ることを促されています。

この便りの翌二十九日”自今巳後は、慈信におきては、子の儀思いきりて候なり”として、お法の乱れを静める処置の為、お子様・善鸞さまの絶縁の手紙を記められました。

この悲しみの報せと上京を待たるるお便りと併せ見て、覚信房たまりません。患いの身を押して旅立ちます。 ”同じくば み許にて終り候はば、終り候はめ”同じこの世の命終わるのも、お師匠さまの膝元ならば本望と上り着きました。

失望落胆、何事も手に付かぬ有様のお師匠さまかと来てみると、正像末和讃のご述作、言語文字の極限を磨き吟味を尽くされます。 また、法然上人のお話がまとめられます書物、西方指南鈔のご執筆に没頭されています。 壮絶な仏恩報謝の営み、崇高な師徳讃仰のお姿であったのです。

聖人お書き上げの西方指南鈔と、この折り覚信房書写のものと二つ、今も保存され国宝とされています。 やがて覚信房は、八十六才になられる聖人にお看とり頂き往生の本懐を遂げますが、臨終に聖人に申述べます。

”喜び既に近づけり、存せんこと一瞬に迫る。刹那のあいだたりとも、息の通わんほどは、往生の大益を得たる仏恩を報謝せずんばあるべからずと存ずるについて、かくは称名仕るなり”と、正しく領解・往生成仏の大慶喜・大安堵から、今生の命最後の一息まで、ご恩報謝のお称名しきりに絶えません。 その傍らに添はるる聖人の頬を流れる涙は、とめどなかりしと伝えられています。



この十日の夜、焼亡に遭うて候

この十日の夜、焼亡に遭うて候。これは七百三十一年前、八十三才のご開山聖人が、十二月十五日付けで認められ関東同行の束ね、真仏房に宛てられたお手紙の一節です。

この十日の夜、火事に遭いましたと仰言る。遭うて候と述べられるは、類焼の火災と察せられます。

さて、三十三才の若きご開山が恩師法然上人からお許しを得られて、一宗独立の柱とされる書物・選択集を書き写されました。ただならぬ感激は相続されて、この書物は身の傍から生涯離されることはなかったにちがいありません。

しかし、ご開山聖人のこの選択集の書写本は、今日に伝わりません。同じ若き日の精密な研鑽の文類をちりばめた、観無量寿経と阿弥陀経の集註というご開山の真筆本は、今に伝わり残ります。それが選択集は無いのです。恐らく火事に焼け失せましたろうか。だとしますと、燃え上がるは御師匠さまを焼く火か、我身を焦がす炎かと、お悲しみが深うございましたろう。

お師匠さまが自ら選択本願念仏集と題号まで書き入れて下さった何にも替え難いもの。あ嗚呼!なまんだぶなまんだぶ、なまんだぶなまんだぶ。あ、如来(おや)さまがいらっしゃてる。なまんだぶ、如来さまはご一緒していて下さった。なまんだぶなまんだぶ、如来さま離れず居て下さいました。なまんだぶなまんだぶ。

これより後、烈々たるお覚悟があって、ご報謝の中に仁王立ち、八十八才十二月二日書き終えられる。最後の著述、弥陀如来名号徳まで実に十数巻、驚嘆すべき数のお書物を著されたご開山さまを思います。今報恩講の季節、ご開山聖人ご出世のご恩です。



世に、又得難い親友・広兼至道君

世に、又得難い親友・広兼至道君。あなたの往生は、昨年九月三十日、数え四十五才の若さでした。

動かすと骨がくずれると気遣われる程、進行しきった骨髄ガン。あと一と月の命と診断が出たのが、一年前のこの5月。貴方はこの事実を自ら承知して往生までの四ケ月、たっぷりと豊潤なご恩報謝の病床でした。東西に活躍、稀にみる布教家だった貴方に約束のお説教先に向ける代わりの布教使さんの手配を一任されました。

年内一ぱい十二月までの約束を私が一覧表に写し終わったその時の事。”来年一月から後はもういいでしょ。その時僕はもう娑婆(ここ)にはいませんから。年末には喪中欠礼のハガキを出すはずですし、いずれ近い中に死亡通知を家内が出します折りには、藤岡先生、挨拶状の文面相談にのってやって下さいね”と、まことに凄絶な状況をにこやかに語る貴方。お念仏を申し乍らうなずくと、にんまり微笑んで貴方もうなずきました。

貴方は”凡数の摂に非ず”と仰言いますからと親鸞聖人のお言葉を反芻してました。信心念仏の身は真の仏弟子、流転は終わり、も早只の凡夫じゃありませんとね。み仏の智慧に同等、弥勒菩薩の覚りの位に同じ正定聚。覚りの仏となることは、命果てる一瞬に実現しますと。

喜びすでに近づけりと、お父さんが語りかけられたのを、有難いお説教だったとも聞かせてくれました。

すぐ帰って来ます。貴方はそう言いました。成仏は自己満足じゃなくて、阿弥陀さまのお救いの極まり、仏となった上からは、存分に衆生を済度を果たさせようとの下心、ご期待どおりにすぐ帰ってきますといいました。

お称名ご報謝の明るい命を拝ませていただきました。



またとは会い得難い親友

またとは会い得難い親友・広兼至道君。あと一と月の命と、骨髄末期ガンの宣告を受けた去年の五月から九月三十日の命の際まで、貴方の仏恩報謝の営みは、深厚の極みでした。

”今日が目的です”と、何度も語りました。今息絶える極限の命を、見込み取り込んで掛けられた御本願です。救いの相手にレベルを定められません。規準もありません。規準レベルに達したら救うとあれば、稽古も訓練も必要。しかし大信大慶喜心のお法は非行非善、私の手出しすることではないと親鸞聖人の仰せをよくよく味わいました。  十方衆生のその中で命の際の者をこそ、とりわけ急がねばならぬと見込まれた親さまです。その親さまがナンマンダ仏ともう今現にこの命に来て満ちて離れずご一緒なのですから。

お説教聞くのは如来さまに会う準備運動ではありません。お念仏もご信心もお助けに逢う段取りではありませんもの。ナマンダ仏、お称名のまま、只今が弥陀願力の摂取の事実。今日が目的ですと貴方が語るのは、お助けに会うた謝念のことば。

去年五月二十四日西念寺の深川倫雄和上さまが、黒衣五条に威儀を正して大竹国立病院の病室に臨まれました。今生最後のお説教をしますと、御讃題・御法話・そして聖人一流章のご拝読まで、まことお浄土の仏事と仰がるる希有のご法縁。

その折り貴方は言いました。全身の骨がうづき咳の為、呼吸困難ともあいなって声に出してお念仏申されないその時は、”如来さまに甘えさせて頂きます”そうつぶやきました。

仏恩報謝は他でもない。わが裡なる親さまとの親密ないとなみなのですから”甘えさせて頂きます”。まことにこれは、殊勝至極の御報謝なるかなとほれぼれ仰ぎ聞くことです。



骨髄ガンの為

骨髄ガンの為、四十五才で往生を遂げた広兼至道君、貴方のご報謝の営みが偲ばれます。

貴方のキリ絵、ご開山さまと恵信尼さま、それにお子達三人、旅の姿の後影。聖人と恵信尼さまとがナンマンダ仏、纏り歩まれるお子さまがたもナンマンダ仏。これが広兼さん貴方と奥さん坊や達三人の姿と重なり映って胸にしみ入ってきます。

去年十月二日貴方の葬儀の日、父上と奥さんとの間に三人並んだ坊や達、私の向う正面に見えてます。

お寺方のご導師が道俗時衆等と帰三宝偈を始められたその時、小学一年の一番下の坊やまで三人揃うて各発無上心、口許が動くではありませんか。お経本を持ちもせず最後の一句に至る迄唇が動きます。いまやお浄土の仏事の只中にあると、胸に充ちてくるものを覚えることでした。

西念寺の和上深川先生の常の仰せにあります。”ご報謝は、日常茶飯の習慣に保ってそれがクセになるほどに努力工夫して営みましょう”と。恩師の言に欣喜随順した貴方のご報謝の実践が、この三人の坊や達にまで及んで蓄積されてたことを知りました。

咳がこみ上げ骨がうずく中で、押し出すように貴方は呟きました。”声にお称名されないその時は、思いの裡をめぐらしてナマンダ仏、唇を動かし念仏申せぬその時は、心の裡に翻えしナマンダ仏、まだまだ盛大にご報謝が出来ますから”と語る貴方。

如来等同の至道如来と、和上さまのお便りにありました。貴方の個性人物のレベルにとどまらず貴方の中に満ちる如来さまを拝む、病院の見舞いは至道君、あなたを拝みに行くのだとも、和上のお言葉を承ることでした。



親友・広兼至道君

親友・広兼至道君。貴方の尊厳無類の仏恩報謝の営みを賛嘆させて頂きます。「藤岡先生、普通ガンの患者は病気のことを告げられていませんから、看護婦さんは患者に言います。

”暖うなったら家に帰れます”とか”涼しゅうなったら元気になられます”とか上手につくろうて看護するのに馴れてます。処が僕みたいに腰のあたりの脊椎三つがくずれてる骨髄ガンで、あと一と月の命と自分で承知している患者の看護の仕方を看護婦さん達は知りません。

”長いことじゃないけ仲良うしょうね”て言うと、看護婦さん困った顔をしよります。”そんな困った顔せんでもいいよ、貴方もその中ぼくの看護が上手になるよ”そう言うて慰めとります」と、にこやかなものでした。

これは主治医の話ですが、”今一度お説教出来る体にしてあげよう。退院してもらうその時は、この大竹国立病院の医者と看護婦一同が、お説教聞かせて貰うて退院を見送ろう”と、申し合われておられたと聞きました。

しかしやがて九月三十日、かけつけられた西念寺の深川倫雄和上さまと共に、貴方の命終に臨むことになりました。

和上さんが貴方の手をとって”五月に父上が喜び既に近づけりとは、今がそのですね”と仰言ると、三度四度貴方はうなずきます。

”声に称名かなわぬその時は、思いの裡を廻らしてナマンダ仏。まだまだ盛大にご報謝がなりますとも言いましたが、今が思いの裡を廻らすご報謝ですね”と和上が仰言るのにも亦、二度三度四度とうなずいて、四十分後の往生でした。

命の際まで離れずご一緒下さる如来さま、大切にと力を傾け尽す荘厳なご報謝、拝ませて頂きました。



昨年骨髄ガンのため

昨年骨髄ガンのため、四十五才で往生をとげた法友・広兼至道君の一周忌の法要に会いました。十余年間その学場に連なって欣喜随順した彼の恩師、深川倫雄和上の豊かなご讃嘆で貴いご法縁でありました。

往生百日前の六月二十日、至道君は深川先生のお手許に弥勒菩薩のお姿を、キリ絵に仕上げて贈っております。

菩薩像の傍らにスナハチミロクニオナジクテと片仮名で入れておりますキリ絵は線の乱れも見えません。

骨髄ガンで不治の宣告を受けて、そのことを胸に含み周囲に来る人に、残りの命が僅かでご報謝の時間がもう充分にないと語り乍ら、キリ絵のカッターを握りしめて仕上げたものでありました。

ところが九月十二日、私にも弥勒菩薩のキリ絵を贈ってくれました。コバルト治療が始まってから”食欲が落ちるだけでなく意欲が殺がれます”という彼、恐らく最後の気力をしぼったかと察します。

ゴメンナサイ、コレデと渡された作品には、スナハチミロクニオナジクテは、切り入れられていません。細かくカッターを操るのには、指先に力が及ばなかったろうと、その時の彼の無念の心中を思います。

成等覚証大涅槃、私共がなじんでいます正信偈です。ナンマンダ仏とこの身に来て下さった如来(おや)さまと--ご一緒して、私は今や成等覚・正定聚、如来さまのお覚りに同等の位にまき上げられました。

ここを”すなわち弥勒に同じくて”と至道君は喜びました。親鸞聖人と同じ喜びを慶びました。衰えていく気力、指一本の力すらままならぬ命に来て、ナンマンダ仏の如来さまが、離れずご一緒していて下さいます。すなわち弥勒に同じくて、すなわち弥勒に同じくて。



本願寺第三代覚如上人の仰せに

本願寺第三代覚如上人の仰せに”如来の大悲、短命の根機を、本としたまえり”とあります。臨終命の際の者こそ、急ぎ救わねばならぬと、阿弥陀さまがナンマンダ仏のお慈悲のおすがたに現れて来て下さるとのお示しの言葉です。

余命いくばくもない命は、精神的にも肉体的にも訓練を受け続ける力はない。たとえ力があったとて充分な時間の残りはもはや有りません。

それが短命の者、命の際に臨む者なのです。そこには、教育していく時間の余裕も能力を開発してなどという見込み一つ立たない命を、取り込んで諸有衆生(あらゆるもの)を救う方便(てだて)が仕上がりました。

ナンマンダ仏、そこには身構え・気構え・体力・気力・全く見込めぬ命こそと、お慈悲きわまるところから聞こえて下さる声の如来さまがいただかれます。

さて再び法友・広兼至道君の話。 骨髄ガンの末期症状をこまかに説明をうけ、あと一月の命とも自ら承知して彼が語りました。

”真宗関係のいろんな雑誌を見舞いに貰う。然しどの文章にも大方、阿弥陀さまがおいでになりません。この世に五年も十年も生きとって、ゆるうっと読んで理解すりゃええ程度のことばかり書いてある。悠長なことです。私はあと一月長いこたぁない私には間に合う文章ではないですよ。

そこはさすが如来さまです。私を見込んで組み込んで、ナンマンダ仏五体一杯満ちて来ておいでですもんね。ナマンダ仏のお助けは、今日が目的ですもんね。極めつけの短命の機、私がお眼当てです”とお称名しきりでありました。



親鸞聖人の祥月命日のご法事

親鸞聖人の祥月命日のご法事、報恩講がここかしこのお寺で勤まります。そしてご門徒のお内仏毎に、帰命無量寿如来、お正信偈の声が響きます。真宗門徒のゆかしい報恩行、おとりこしが営まれる季節となりました。

お正信偈に添えるご和讃は”五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん 信心まことに うるひとは このたびさとりをひらくべし”以下六首、正像末和讃から特に取り出してお称えする慣わしです。

自ら力を尽し、功徳・善根を積んで百大劫。命を連ね、劫を累ねて到りつく菩薩の頂点を極められた弥勒さま、阿弥陀さまのお覚り同等の智慧を持つに至って、最早真の覚りは確定しきって、正定聚の位にのぼりつめられましたが弥勒菩薩。

ひるがえって私も有難くもはや正定聚。阿弥陀さまの智慧のみ光お慈悲の真命、無量の功徳を集めて持ち込み御成就(おしあげ)の名号、ナンマンダ仏に大安堵の身と成りおおせております。頭から爪先まで、五体中はおろか思いの裡の端々まで、光寿無量の如来(おや)さまが、余すところなく漲り満ちて離れず私にご一緒していて下さいます。念仏行者、私はまさしく弥勒に同じ正定聚。

いつも語ります親友・広兼至道君。彼は骨髄ガンの骨のウズキ、こみ上げる咳に耐えて”ご開山さまが、凡数の摂に非ず、と仰言いますから”と呟いた喜びも、ここの処のお領解でした。

信心の行者は、只の凡夫ではありません。この生死の息絶え命終る忽ちに覚りの仏たらしめられます。阿弥陀さま本源の覚り大涅槃に及びます。”このたび覚りを開くべし”という、ご開山のお喜びを慶んだ至道君でした。

すぐ帰ってきますと、還相の大利益まで仰いで往きました。



母みづから 母といふものを

母みづから 母といふものを 言はざりき この母を母の中の 母とぞ思ふ

アララギの歌人・鹿児島寿蔵先生は、紙塑人形作家として国の重要無形文化財、世にいう人間国宝でもありました。亡くなられて二年目の一昨年福岡市の岩田屋デパートで、その人形の全作品が一挙に展覧公開されました。今詠みあげました歌も、先生の筆になる条幅で拝見いたしました。

人形は先生の感性・情緒・古典の教養による思索、そして独特の制作技法をもって練り上げられ玄妙優美極まりないものでした。

男が人形作りなどと人の嘲りにつけても暮らし向きの苦しさなど仰言らず、お母さんは励ましすら下さいました。少年期より六十有余年、この人形業の背後には母上の慈愛あることが偲ばれます。

母みづから 母といふものを 言はざりき この母を母の中の 母とぞ思ふ

母はみづからを説明しない。ひたすら子故に振舞います。母自ら慈悲について弁舌をしない。しかし子の身を案じてはじっとしておれず、立ち廻ってやまぬもの。この母の身の振舞い行動自体が、慈悲のあらわれであり働きです。母親の中身は隅から隅まで子の為、子故にで満ぱい一杯なのです。

阿弥陀さまの中身は私のことで一杯です。愛憎止むことないまま命の際に向う私をいたたまれぬと見とどけて立ち上がって下さった。その最初からこの私を摂り上げて離されません。功徳を集めるもこの私のため、善根を持ち込むも凡夫この私故にで、弥陀名号のナンマンダ仏はなりました。

死のおびえはもちろん人間関係のもつれすら大きくため息となる、この身この命に来てナンマンダ仏の親さまが今もご一緒していて下さいます。



人間国宝の紙塑人形作家

人間国宝の紙塑人形作家でアララギの歌人・鹿児島寿蔵先生に、


”母ありき その母ありき 父ありき その父ありき その父母ありき”

という歌があります。母上が逝かれお祖母さまももうありません。父上も又既になく、お祖父さまも早逝かれました。もちろんその親、ひいお祖父さま方もとうに逝き給うた事でした。

母ありき その母ありき 父ありき その父ありき その父母ありき

血を分けて情を分け合うて偲ぶ思いは、遠い祖先(おや)たちまで遡ります。

然し世に在る者の悉く、がやがて命終、命の際を迎えそして終わります。この事に代理を務める者なく、更に伴う連れはなく、全く個別に行われる生死界の厳然たる事実です。寿蔵先生は又、”母は母の 行くべき処見ゆと言いき 臨終に逢わずとも よしと言いにき”とも歌われました。

お母さんが仰言る。私はお浄土に参ります。命の際に寄り添おうと駆けつけても間に合わぬ別れもあります。然し阿弥陀さまのお浄土は、極楽とまで呼ばれて再びの出会いが御用意されています。南無阿弥陀仏の命はまぎれもなくお浄土に往生遂ぐべき希みを持って安堵の身なのです。臨終の出会いかなわずとも、念仏申し合うお互いは、必ずやきっとお浄土の出会いをいたします。

お父さんが参られたのはもちろん小さい時、死んだあなたのお兄ちゃんになるあの子もお浄土に参らせてもろうてます。

命、はかのう逝った幼い体を抱いて泣きました。止まらぬかと思う程の涙の中からお導きお育てを聞きました。あの子はこの母をお法に導く尊い命の子でありましたと。これは正しく大経の”咸(みな)一類に同じ”そして阿弥陀経に説かれる”倶会一処”のお心です。



重度の障害のある子

重度の障害のある子を連れた中年の母親に聞きました。

大きい子供が三人居るのに四十前にもうけた末の子がダウン症。五才にもなって言葉の理解がない。飲み食いから脱着まで、朝夕一切、手がかかります。

”母ちゃんはこの子より先に死なれん。こうして面倒みてやれる間にお浄土に参らせて貰うがよか。”こんなこと申しますと、 長男が”母ちゃん俺長男じゃ、こ奴のこた俺が見る”といいます。 次男も”兄ちゃん、連れて行けん転勤も、その中あろう。僕が家を継ぐ。この子は僕にまかせとけ。”と申します。

娘も時には私に代わってこの子の面倒をみる中に”困っとる人の世話しよう”と、看護学校にはいりました。

それから船乗りの主人はひどく短気な男、私ゃあ腹を立てた主人に何遍もなぐられたものでした。それがこの子が馬鹿な子と知れて以来申します。

”母ちゃんお前、こ奴と遊んどれ何もせんでよか。傍に付いとらにゃ生きちゃおれん奴じゃけ”と、優しい事言う男になりました。 この子のお陰で三人、情のある子を恵まれて亭主も優しい男になったとこそ思います。要らん子じゃない、大切な尊い子とまで思います。それでも言うとります。

”あんた母ちゃんが面倒みておれる間に、お浄土にお参り。母ちゃんが達者な間に、親さまんとこお浄土に参らせてもらうがよかろう”そう言い言い、この子と遊んどります。こんな母親の述懐を聞くことでした。

案じられる命、気掛りでならぬ子故に寿命の無量を願うは慈愛の極まり。五感五欲の満足、快楽を希む話ではありませぬ。ナンマンダ仏は無量寿の親さま。無常の命の私を見込んでかかって受けこんで、離れずご一緒していて下さいます。無量寿は慈悲の極まるところです。



中国新聞の投書欄

中国新聞の投書欄”こだま”に、三十才の女性の次のような投書が載りました。

庭に干す布団を下取りに出して新しいのを買わないかと誘われました。然しこの古い布団には手離しかねる想い出があります。

十五年前、十五の歳中学を卒えて住込みの就職した年の事。冬近く急に寒くなった或朝、田舎の母さんがバスに乗って布団を届けてくれました。聞くと一番二番三番とも”バスに布団は乗せられない”と断られる。それでも四番のバスならばと待ってみて漸く乗せて貰うて来たとのことでした。

”先生と奥さんに可愛がってもらえ”と言い置いて、母さんは帰っていきました。

バスが通う回数とて少ない田舎のこと。乗せて貰えぬバスを一番二番三番と見送り乍、寒かろうと運ぶ布団を抱えて、母さんは停留所でよほど冷たかったろう。そう思うたら結婚する時にも里に置いとく気持ちになれず持って出た布団。とても新しい布団の下取りには出せません。

こんな投書を読みました。住込んで独りぼっち。まだ幼いほどの娘です。寒い思いをさせられないと、思い立ったら退けませぬ。満々たる母の慈愛の働きです。

阿弥陀さまのお慈悲の姿をうかがいます。衆生界等しく身の煩いに伴うて命のおびえを抱えます。また例外なく心を悩ますのは、骨肉の情ある者に関わる愛憎の境界。実は此処が弥陀本願の舞台であり現場です。

まさしく煩悩具足の凡夫を見込んだ上から弥陀大悲の利益は実現します。あらゆる衆生の立場を汲んで、憂い悲しみ悩みそして苦痛の全てを受け込んで南無阿弥陀仏は仕上がりました。弥陀の名号、ナンマンダ仏は、私に添うて離れぬ親として今やご一緒していて下さいます。



山口県・俵山の西念寺

山口県・俵山の西念寺、本願寺司教・深川倫雄和上さまに、昭和三十五年六月以来二十六年間随順しています。特にこの十余年間は、お三部経のご講義を毎月承りご法義の極意をお聞かせ頂いて無上のお育てを蒙っております。

和上さまの西念寺には、お手伝いのサヨチャンがいます。サヨチャンは中学を終えた年から俵山の温泉宿のあちらに一週間、こちらに十日間と引取られた先を六~七年も転々として、どこも長続きしなかったそうです。

それが西念寺に居ついて今もう二十二年。四つ五つの子供なみのお手伝いをし乍お寺に暮らします。サヨチャン物の数が分かりません。五ケ、六ケと数がふえるとそれはもう一ぱいなんです。物の道理もわかりません。お寺に居るようになってサヨチャンお念仏を聞きました。お称名絶え間ない和上さま。それにご家族・お同行のお念仏を耳にしてサヨチャンお念仏しようとします。

ナマナァマァ、まるでそれは赤ちゃんの片言のようなものだったそうです。今、朝夕の御飯の前には、必ず本堂にお礼をします。如来さまの前に座って、ナァマァダ仏。ご開山さまの前に座って、ナァマァダブ。そして善知識さまのご影の前に座って、夫々にナァマァダ仏。十五・六年も前に、私はこのお礼の姿を眼のあたりにしました。胸にこみあげてくるものを覚えることでした。

如来さまのお慈悲は極まりまして、資格・レベル無用・極限の能力に及びます。どんな愚かな拙い身にも間に合うナマンダ仏。もし頭脳弱ければ、片言にでもその口に表れて離れず一緒していよう、お慈悲を声に極めて下さいました。親さまのお慈悲の立働かれるご様子をサヨチャンのお礼の姿に、拝むことでありました。



幼い子供が泣いています

幼い子供が泣いています。声を限りに泣いています。じれ切っています。泣いている子供の傍らには母親がいます。あれほどじれて泣く子なのに、なんとか声をかけてやればいいのに。

傍(はた)迷惑なこと、うるさくってしょうがないとふとみると、子供に寄り添うた母親は、しきりに指を動かしています。なんと手話・手ばなしでもって子供をなだめるのに懸命なのです。耳が不自由なため声を出してお話が出来ないお母さんです。

耳が聞こえぬばっかりに、この子が訴えていることに気付くのが遅かったのでしょう。じれきった子は、仲々お母さんのなだめに静まりません。

よくみると一生懸命手話をしているこのお母さん、頬を涙が伝わります。たえ間なく流れてやみません。しかし涙して、そして満々たる慈愛の思いを顔に集めてほほえみます。

泣きわめく 子にほほえみて 手話をする 母あり頬に 涙流れいき

これは朝日新聞に載った短歌です。 子供の訴えを聞きとどけてやれぬ母は悲しい。声をもって話をしてやれぬ母はつらい。子供がふびんでなりません。善処(ありったけ)の方便(てだて)もつきる思いから母は涙します。それでも慈愛は止みません。ありったけのやさしさを満面に集めてほほえみ続けます。

木村無相氏の念仏詩があります。

念仏は うちあけ話 如来さんの うちあけ話 どうぞ 助けさせておくれよと 如来さんの うちあけ話

そうです。命は一人。一人きり。孤独の命の裡に分け入って、添うて離れずいて下さる。ナンマンダ仏の親さま。今ご一緒していてくださいます。



やがて死ぬ 娘にてあれど

やがて死ぬ 娘にてあれど 生業の 靴つくりやり 枕べにおく

朝日新聞歌壇のこの歌の作者は、クツを造る職人。一足のクツを造り急ぎます。娘が病気、それも命止められぬと医者に告げられています。助けてやれぬ不憫な娘。やがて間もなく死ぬ娘の枕べに、造り急いで仕上げた靴を置きました。

今日が日まで、なんぼせがまれても商売物の仕事を言訳に、子供の望むクツなど造ってやりはしなかった。しかし今仕事やもうけを言うてはおれぬと造り上げました。

”この靴はいて遊園地いこな。デパートにいこ。レストランいこ。そうかおばあちゃんとこいきたいか。うんいこうな”と、語りかけ語りかけする有様に親の思いが傾けられます。

やがて死ぬ 娘にてあれど 生業の 靴つくりやり 枕べにおく

娘は死ぬ。やがて死ぬ。靴を作りはしたけれど、靴をはかせて連れ歩くことはもう出来ない。そのことを承知している父親なれば、悔恨の思いが胸をしめつけてやみません。”ごめんなあ、はよ造ってやりゃよかった。ごめんな”。我子の命を止め得ぬ無力が、親として悲しい。娘の願いを聞き入れて果たしておかなかった親だから、我身をせめる思いに嘆きが深いのです。

今、阿弥陀さまを聞くに至りました。阿弥陀さまは大慈悲満足せられた如来(おや)さま。智慧と慈悲とを併せ円満充足せられた親さまです。慈悲と智慧とをナンマンダ仏に成しあげられました。流転生死の命、私の命に充満して離れたまわぬ如来さまです。浄土往生の志、畢竟成仏の願いまで、満足せしめられる阿弥陀さま。まさしく満足大悲の親さまにいだかれているのです。



皺ふかき この手を夫に

皺ふかき この手を夫(つま)に さし出すは わが逝くときか 夫(つま)ゆくときか

これは老夫婦の歌です。ツマと詠みますのは、夫という字をそう読みます。 何事につけても節度を守る時代の生い立ち。取り分け女性の立居振舞いは、控目であることを美徳と躾られ、身にしみ入ったたしなみとなっています。

夫婦が手を取り合うなど全く考えられもしないこと、日常あり得ることではありません。

それでも苦労の多かった生涯を気持ちの上では、文字通り手を取り合うて艱難を凌いで参りました。頑張ってやってきました。それがふと手を見て思う。もうツヤを失うて久しいこと。皺ぶかい手を見て思います。歳を取ったもの。主人も歳を取りました。出来ることなら、この手この体がかなう間に、私が主人を看取り介抱をしてお浄土へ見送って、その後から私は参らせてもらう。そんな思案も胸の中をめぐります。

さてどちらが先かはともかく、今生の別れを告げ合うその折りは、きっと二人で手を差しのべ取り合いましょう。私はそうします。上手に愛情を現す主人ではありませんでした。あるいは手を延べて握りしめてくれるのは、主人の方かも知れません。なんだかそんなような気もします。


皺ふかき この手を夫に さし出すは わが逝くときか 夫ゆくときか

生涯二人して頑張って来ましたね。力合わせてようやって来たと思います。もう頑張らなくともいいのですね。お浄土に参らせて戴きますもの。如来さまが存分周到(じゅうにぶん)に私共二人の事ご承知でお浄土ご用意下さいました。ナマンダブ、有難うございました。ナマンダブ、有難うございました。



張りつめし 心も緩び

張りつめし 心も緩び いささかの 言の葉に又 涙流れて

皇后陛下の歌です。昭和三十六年七月二十三日、照宮・東久爾成子さんが四人の子達を残して亡くなられなした。

息引取られる前の日、朝九時から天皇・皇后両陛下とも病室につめられ身じろぎもされず看りをされました。侍従官が控えの間でのご休息をと度々申上げても十七時間もの間、まんじりともされず臨終に添い続けられる両殿下だったと聞きます。

血を分けた親子、情ある夫婦の間にあって、胸の思いは騒ぎ心は湧き立ちめぐります。天皇・皇后さまといえども、例外ではありません。恩愛の情まぬがるることない、煩悩の身の事実であります。まさしく煩悩具足の凡夫と如来の仰せを承りますこと、上下貴賎の別はなく、日常茶飯、凡夫境界の実際です。

阿弥陀さまは、まるで煩悩の貯蔵庫のような私を的に、ナンマンダ仏をお仕上げです。お助けの企ての最初から、煩悩具足を見込んでかかられました。

秘かにもらす私のタメ息すら、ナンマンダ仏に組込まれます。カケラ程の心痛とて、もらさず取込まれました。妙好人才市が歌います。   愚痴も仏になるそうな 共につろうて念仏申す

と、共につろうてとは、つれだってということ。 愚痴をやめてではない、湧き出る愚痴を緒口(いとぐち)に、お称名申す。こぼれ出るタメ息と共に、ナンマンダ仏。愚痴心痛が私の日常茶飯。そこを阿弥陀さまが見抜かれて、煩悩たちこめる心痛ため息を現場にお働き下さいます。心痛と共にナンマンダ仏。タメ息と共にナンマンダ仏とお称名申します。



お説教に出向いたお寺で

お説教に出向いたお寺で、昨年十一月十三日の出来事を尋ねてみました。数十人の参詣の人、皆記憶がありません。この日南米コロンビア火山爆発、二万三千人の命が一瞬に失われました。然しそれが半年後の今、私共の頭にもう思い浮かびません。

他人事では私の心は動きません。他人事では私の思いは騒ぎもせず胸に湧く何物もないのです。

更にそのお説教の折り、ご主人に先立たれたという婦人にその折りのことをうかごうてみました。尋ねる私の言葉が終わるや否や、堰を切ったように話されます。山仕事から昼ごはんに戻る、自宅近くの道端に倒れられて、それが最後とか。奥さん自身は風邪で寝ていて山にはご主人独りで上がられました。

亡くなられたのは今を去る十九年前、昭和四十二年五月二十八日の十一時過ぎだったなど、実にその話は詳細をきわめそして尽きることがありません。私の心は他人事で動きませんが、血を分けた親や子供につけ、又情ある夫婦の間にはめぐりめぐって湧きくる思い、或いはたぎりたつ胸の覚えが刻まれて、何十年たっても今生の別れの記憶が失せません。

煩悩からむこと丈、たっぷり貯めこんでいる私、ナンマンダ仏と親さまが来ていて下さいます。如来さま悲願のご本意には、この私を救いにかかられる初めから、煩悩湧きたつ有様、見込んでかかられました。煩悩貯めこむ身のまま、やがてきっと終わるべき命を取りこんで離さじとかかられました。

本願功徳一切が、ナンマンダ仏に持ちこまれました。煩悩具足の私を的に来て、今もう既に、離れず一緒に居て下さいます。どうぞ、助けさせておくれよ、と名告り現れたまいます。



老い父の 味噌汁の好み

老い父の 味噌汁の好み 問う汝(なれ)よ わが妻となり 目覚めし明けに

母親を失って十年、父親と二人して豆腐屋を営む松下竜一氏が結婚しました。連れ添うは高校を卒業したばかりの、いわゆる幼な妻。

挙式後、初めて朝を迎えて幼い主婦の仕事始めは、先ずわが夫となった人のお父さんの味噌汁の好みを聞く事で始められます。

老い父の 味噌汁の好み 問う汝(なれ)よ わが妻となり 目覚めし明けに

これから大人になる本当に若い妻のけなげな覚悟のほどが察せられます。それは正しく愛ある覚悟、慈愛の決意です。

女手のない所帯に入り主婦となる。そこに女の言い分けを持ち込むのでもなく女の気持ちを主張するものでもありません。

先ず自分が接していく人の好みを尋ね聞く事から始められました。聞き取り承認し受容(うけい)れきってこばむことがない。これは慈悲・慈愛の姿を物語るものと申せましょう。

阿弥陀さまのお慈悲は、仏説無量寿経に説かれて完璧です。お慈悲のお仕上げについて、意(こころ)に先だちて承問す、と説かれます。生れ出て必ず死にゆく命に立対(たちむか)い、その立場事情の全てを察し、身の煩い心の悩みの一切を汲みとり尽くして、余すところない弥陀の大悲を先意承問と示されます。

そこに愚かさの非難はありません。侮り・蔑み・全くありません。生き方あさましく、罪は極まりなく深かろうとも、裁かず責めず阿弥陀さまは、汝罪深しとは一言一句告げられません。この世に命ある間、煩悩暮し、とめどない身を抱えとられます。やがてきっと終り、輪転きわまりない命を悲しみ抱いてくださる阿弥陀さま。ナンマンダ仏と来てくださいました。



東京上野動物園で日本猿の赤ん坊が

東京上野動物園で日本猿の赤ん坊が生まれました。初めての出産をした若い母猿に乳が出ません。乳首を喰わえて赤子は死にます。息絶えた子猿を抱いて五日間、腐ってくずれゆくまで離さなかった母猿の話を聞きました。

二百種類を越えるあらゆる猿の中、寒冷地の北限は本州の北の端、下北半島に住む三群の日本猿で、世界に知られています。海峡を距ててそこはもう北海道、十二月から四月まで半年雪の山です。

暖かい土地の日本猿は八月まで子供を産みますが、下北の雪山の猿は四月に赤子をもうけて、この後もう子供を産みません。

雪の山に木の皮を噛って、命をつなぐのが精一ぱい。こんな食べ物では乳を呑む子猿がいても親猿の乳は出ません。子猿は育ちません。

日本猿の歴史は数万年。本州の最果て下北の猿も、おそらく昔七~八月まで赤子を産んだに違いない。食べ物乏しい雪山に、出もせぬ乳首をくわえて死んでいった無量無数の子猿達。その息絶えた子猿を抱いて、離し切れずして悲しみ啼いた無数無量の母猿達があったに違いありません。

この悲しみの極まりから、下北の山の猿は十二月には生理がとまり身ごもらぬ体になります。死ぬ子を見るに忍びぬ親の体がかわったのでした。慈悲ある側が変わるのです。正しく慈愛のかぎり慈悲の至極と申せましょう。

私の命は死ぬ命、伴う者も代理もなくて、やがてきっと命終ります。この終る命の私に、ナンマンダ仏と親さまが来てくださいました。やがて終りお浄土に参るその時まで、ずうっと一緒に居て下さいます。体力・気力・身構え・気構え、なぁんにもいらぬナンマンダ仏。声に姿を改められた阿弥陀さま、親さまです。



東京上野動物園

東京上野動物園で、子供を産んだオランウータンが、赤ん坊に乳を呑ませませんでした。子供が啼きます。そうしますと母親は本当に可愛ゆうてならない様子で、赤ん坊の体中をなめまわし体をゆすってあやします。しかしめんどう見ても乳を呑ませないのです。抱きあげて自分の顔のそばに引きよせますから、赤子は胸の乳が吸えません。

本能なんでしょうね、お乳を呑もうと赤ん坊は、母親の顔のあたりのそこら中、やたら吸いついて乳を欲しがります。

二日、三日と過ぎます。赤ん坊が弱ります。そこでやむを得ません、四日目に母親を麻酔入りの飲み物で眠らせました。

赤子を乳首に寄せてやりますと、息もつかぬ勢いで乳を吸います。一回二回三回と呑みこみました。遂に一四二回も赤ん坊はお乳を呑みこみました。まるで手品を見るように赤ん坊のお腹がふくらみます。

やがて麻酔がさめました。しかし又も母親が赤子を顔元近く抱き上げます。再び赤子は乳が飲めなくなりました。

実はこの母親、生まれた時その親のお乳が出ませんでした。それで人工哺育で育てられたのです。胸に抱かれてお乳を飲んだ経験がないのです。悲しいことに親の乳首を知らないまま育って子供を産んだのです。

私はお念仏申します。父が母がお念仏申しました。お祖父さんお祖母さん、いや遥かな昔遠い遠い親たちから、お念仏お称名の声が伝わり流れて私に到りました。

智慧と慈悲との親さまが、ナンマンダ仏と私に到り届いて下さいました。彼岸の浄土に往きつく命とまでなられたお念仏。ナンマンダ仏の親さまです。



南アメリカ大陸の国

南アメリカ大陸の国、エクアドルの沖千キロのガラパゴス諸島は赤道直下。イグアナ・象亀など古生代からの生物が住み世界に知られます。ここは又カツオ鳥・軍艦鳥などの海鳥が数十万羽の規模で大繁殖します。

そのシーズンは足の踏み場もないほどの、無量・無数の海鳥の巣の卵がかえり、ヒナが生まれ親鳥は海から餌の小魚を運びます。無数の巣がありヒナがいるのに、親鳥は間違えずに自分の巣、つまり我が子の所に戻ってくる。間違えることなどありません。

親鳥は遠くから目で探し乍、巣に帰るのではなくて、親鳥とヒナの間は鳴き声で通信が交わされ、その存在が告げ合われているのです。

親のフイッシュコール、つまり親の呼声を聞くと、餌が貰えるものとヒナは体全体を口にして鳴き立てます。あたり一面、親鳥ヒナ達の鳴き声が湧き立つ中から、親鳥は我が子ヒナの鳴き声を正確に聞き分け聞き取って戻ります。岩陰や或いは夕暮れどきで、眼に探せなくても我が子の声を親鳥は誤たず捕らえます。

親鳥は卵からかえったヒナの声を、一回か二回で覚えるという。いやそれより前に、親鳥に抱いて暖められ卵の殻の中で育てられる中から、ヒナは親鳥の声の特徴の幾つかを聞かされ告げ続けられて、親の声をヒナは命全体で覚えとります。だから卵からかえったその時すでに、ヒナには親の呼声を体に持って生まれてくるといわれます。

わが如来さま親さまは、声となり名告りとなって、私に既に来ておいでになるナンマンダ仏。無常の命の私を、抱えこみ煩悩具足のこの身を取りこんでかかられる親さま。

今私の命に満ちて離れず、私がこの世滞在の間中、ナンマンダ仏とご一緒の如来さま。この上は、自らに言い聞かせてお称名申すばかりです。



鳥の生態観察

鳥の生態観察の為、庭に置かれた餌を見つけてムク鳥の群が来ました。まるでラッシュ時間の電車に乗る群衆のように、ムク鳥の群が餌の山に殺到いたします。

ところが中の一羽が、足に怪我をしていて駆けつけられず取り残されました。その時いち早く餌のそばに駆けつけていた椋鳥(むくどり)の群は、足の悪い仲間が餌の処に到着して食べ始めるまで待ちました。

その食べ始めるのをキッカケにして、ムク鳥の群も押し合いへい合い食べ始めました。この話を伝えるモーリスバートンの本に、今一つこんな話があります。

二羽のカモメが餌を与えられています。一羽のカモメには足が片方ありません。餌をもらっているこの二羽の所に、十数羽の他のカモメが飛んできましたら、一本足のカモメが餌を食べている間中、もう一羽のカモメは自分の餌を食べもしないで群のカモメを見張っていて、餌場に寄せつけないように致します。動物学では、こんなふるまいを動物の利他行動と呼ぶそうです。

阿弥陀さまの衆生の命、安からしめんと大誓願の心を聞きます。たとえ世の役にも立たぬ無能の者と見放される程の身も、弥陀の手の裡にあって取残されません。又世間の非難を一身に浴びる極悪非道の者こそ、見捨てられぬと取り掛かられたのが弥陀の大悲誓願です。まさに無能・無力・弱者の命の底に降り立って下さいました。

ナンマンダ仏、独りにしてはおかないよ、と来て下さいました。ナンマンダ仏、孤独の命を含みこんでご一緒です。心弱り体衰えたその時も、この命に満ちて離れず居て下さる、利他真実の親さまです。



集団で暮らす動物社会

集団で暮らす動物社会では、恵まれない体のメンバーとりわけ赤ん坊や幼い子供に対して、徹底した保護行動といわれるふるまいのあることが観察されています。

例えば猿の群は絶大な権力で群を掌握する、所謂(いわゆる)ボスを頂点に上から下に向って雄猿の序列があります。下の位の雄は意味もなく上位の雄猿には近付けません。

地位を脅かすと常に警戒されていて接近すると忽ち猛烈な攻撃を受けてしりぞけられます。

ところがボスや上位の雄猿に近付いて親密にふるまいたいその時は、下の位の雄猿がそこらに居る子猿を一頭拾いあげます。子猿を胸の正面に抱えて接近すると、ボスも上位の雄猿たちもまず攻撃することはありません。

雌の猿も独りの時には、雄猿のひどい攻撃を受けることがしばしばあります。しかし赤ん坊を抱いたり子猿を連れている場合には、まずどんな雄猿の攻撃も受けません。

そこには弱味を持つ立場が見守られ、脆く危うい命の保護行動が、徹底して行われています。いわば慈悲の精神に高まり及ぶ、その原(もと)の形がうかがえる話と申せます。

今、弥陀の名号、南無阿弥陀仏のおいわれを承ります。身の煩い絶えず、心の悩み湧いて離れぬ凡夫人、やがて果てる命を抱えこんで名号は仕上げられました。

親さま、南無阿弥陀仏のお仕上げには、弱き心、脆き命を見込んで、取り込み抱かれました。まさに弱者へ弱者へと深まりきった、お慈悲の極まるところから、南無阿弥陀仏が成りました。名告りの親さま、声の如来さまが、今私の命に漲り満ちていて下さいます。



誰でも誕生日

誰でも誕生日があります。明治・大正あるいは昭和に産声をあげて、一人一人誕生日がある。しかしこの命、生死の命です。死ぬことを切り離せぬ命、かならず死なねばならぬ命です。代わる者あることなしと、無量寿経に説かれます。

有ることなし、とは今はないが昔はあったとか、今はないが将来その内にありますといったものではないのです。またここにはないが他所にはあるとか、私にはないが他人さまにはあると、いうものでもありません。畢竟無といいまして、死ぬ命、代理は全く有りません。金輪際ないことのなのです。

しかもいつが始まりとも知れず、三界・六道の境界に生れてはやがて死に、生れてはやがて死にと、とめどなく流転往来やまぬ我が命です。

かくて今、切り離せぬまま今生にあるというに過ぎません。その私が親鸞さまに導かれ、阿弥陀さま、如来さまを知りました。寿命無量の親さま、ナンマンダ仏の親さまは、無常流転はこの度かぎり、生死の命はとどめきったと、私に来て離れずに居てくださいます。

私はこの世の息きれ命果てるを区切りとして、阿弥陀さまのお浄土に参ります。覚りの仏さまになるのです。

ここを島根県江津市(ごうつし)の嘉戸大恵先生は、言葉をつらねて喜ばれました。

”今日は私の誕生日。ナムアミダ仏の誕生日。育て出されし誕生日。 お慈悲の響く誕生日。迷い離れし誕生日。今日は私の誕生日。 今日も来る日も誕生日。ナムアミダ仏の誕生日”。

まことに胸はずむお領解、こぼれ出た喜びと頂きます。



新聞歌壇

新聞歌壇で見た歌ですが、

行き場なき 老いともしりぬ いそいそと 尋ねしものを 子の家に来て

子供が都会に家を建てた。来いという。嬉しいことに一緒に住もうとまでいう。それはともかく行ってみた。しかし勝手が違う、万事まちがい。

ガス器具・電子器具ばかりの家の内。説明を聞いてみても要領をえません。使えません。食事が違う。孫の好みで肉を使い脂を使う料理は、作りもならぬし毎日食べることとなると、とうてい一緒に居れるものではありません。

庭という程のものもない家に、草むしりもできず、繕いものの用事もない。電車・バスの様子がわからず、一人で乗り降りかなわぬ身では、買物一つしてやれませぬ。せめて掃除ぐらいと立上がると、お婆ちゃんは何にもせんでいいからと、手出しも壗なりません。

行き場なき 老いともしりぬ いそいそと 尋ねしものを 子の家に来て

連れ添う人を亡(うしの)うた老女の歌でしょうか。胸にしんしんと沁み入りこみあげる孤独の思い、一人なんだなあ、そんな心持ちが伝わります。

お経は阿弥陀さまのお慈悲のご用意の程が告げられます。或いは長者・居士となり、或いは豪姓・尊貴となりまして・・・遂に、行き場もない老女の思い、孤独の心に分け入り給うのです。お慈悲の用意の最初から、孤独の思いを見込んでかかられ、独りぼっちの心を取り入れ抱え込んで、名号の功徳が仕上がりました。

ナンマンダ仏と、この命に来て”独りじゃないんだよ”と、御一緒していて下さる阿弥陀さま、親さまです。

ここを吉野秀雄氏が、 ”既有其中矣とふ(すでにそのなかにあり)言の葉を 吾はつぶやく 朝・夕べに” と、弥陀大悲の中にあって、お念仏申す心を歌われます。



もし死ねば あなたは泣くかと

もし死ねば あなたは泣くかと 妻言ひぬ 亡き母も言へり 父は泣きたり

もし私が死んだら、あなたは泣くかと妻は問う。問われて思い出すことがある。母がふと父に問うた。”私がもし先に死んだら、あなたは泣きますか”と。今わが妻も、まるで同じように、もし私が死んだら泣くかと言う。女は男につれ添う妻の座にあって、みな一様にこんなふうに思うものでしょうか。

どうも男が泣きそうに見えぬのかも知れません。日本の亭主たちは、総じて女房に対して無愛想というか、そっけない。

その日常のそぶりから察するに、私が先に死んだとしても、果して泣いてくれるかどうか。どうも泣いてくれそうにないようにも思えてくる。そう思えるまま、ついふと聞いてみるのは、妻という女の心持ちなのか。

思い出す光景がある。母は父より先に往った。その時父は泣いた。声をしぼって泣き、涙を押しぬぐう肩がゆれる。慟哭の心があらわれる父の姿。蘇ってくる光景を思い浮かべ乍、俺も亦、泣くに違いないと思う。然しそりゃあ泣くさとは男は言わぬ。だから母の死に目に、激しく泣いた父親の様子を、妻に語り聞かせ察するにまかせる。こんな意味の朝日新聞歌壇の歌です。

さてこの歌は”もし死ねば”と歌い起こされている。だがしかし、人の命、生まれて死ぬに”もし”はない。お経に、

”必ずまさに死すべし 自らこれに当面し 代理するものなく 連れ添う者もなく 全く単独・個別の死が厳としてある”

と、説かれています。

この命を見込んで、阿弥陀さまが来てくださる。ナンマンダ仏とご一緒して下さる。憂い悲しみの命を取込んで、お慈悲の親が同居して下さいます。



六・四・三・一

六・四・三・一、これは鳥取県の港町・賀露に、今も魚の行商をする山田輝子さんが、ご主人に死に別れた折り、手許に残された四人の子供達の年令です。六つ四つ三つそして一つ。それからの日々、港の町から村々をめぐって行商四十年、休みとてない年月が過ぎます。

おしん終り 客の出づるを 待ち待ちて 魚つむ車に すべなくおりぬ

一昨年はテレビドラマ、おしんに湧きました。魚売りの朝は早い。八時にはすでに山の村に行っています。おしん放送の間、車に寄りつく人はない。見終わって出てくる客を車で待ちます。所在もなく待ってます。

業終えて 部屋にくつろぎ 見るおしん わが生きざまの 沓き日の顕つ

山田さんも、おしんを見る。行商を終えて昼からの再放送を見ます。するとおしんの魚行商の様子に、自分の商いの姿が重なります。若い折からの、子を引き連れて、辛苦艱難の痛切な思いが胸に湧き立ち、涙はとどめもありません。

彼岸会の 席にかしこみ 掌につきし うろこひそかに はがしつつおり

今日は彼岸のご法要。山田さんもお寺のご縁に会いました。魚売り終えて急いでごはんをかきこんで、お聴聞の座に連なりました。

なんまんだぶ、ナマンダ仏、お説教を聞き乍ら、ふと掌についた魚のウロコが眼につきます。かきはがし乍らも、なまんだぶつ。

幼子四人伴うて、食べさせてやらねば、着させてやらねばと、懸命に生きしのいでの四十年。今も行商に出るとは言え、既に老境、子供四人夫々(それぞれ)所帯をもち離れ住みます。山田さんは独りの住居。ここにナンマンダ仏の親さまがご一緒してくださいます。お浄土までご一緒してくださいます。



私共が普段話す言葉

私共が普段話す言葉は、時と所、立場や事情によって使い分けられます。つくろい事も、飾りごとも、当然のこととしています。

ところで今、我が国の文部大臣の発言が、韓国・中国をおこらせていると・・・新聞で見ます。これは大臣のふだんの物の言いぶりが、現れたとみられます。そこには身についたおもむきがうかがえます。

さて、お医者さんにかかって薬を出してもらう窓口では、大てい”お大事に”と言うて下さる。”どうぞお大事に”結構な言葉です。ところが、ある医院の看護婦さん、亡くなられた患者さんの”死亡診断書”を渡しながら言いました。”どうぞお大事に”と。

ここは”大変残念でございました”とか、”ご愁傷さまです”とか、言うべきところです。ところが治療中の患者さんに、薬を渡す折の習慣で”どうぞお大事に”と、ついうっかり申したことでした。

俵山・西念寺の和上、深川倫雄先生には、毎月お三部経のご講義を承ります。ある時和上”クセになる程のお称名を”と仰言いました。”仏恩報謝の営みは工夫をこらし努力もする。そしてそれがクセになる程の営みをします。お念仏をクセになる程に身につく御礼報謝をいたしまして”と、聞かせて下さいました。

阿弥陀さまのお慈悲を蒙って、今、現にお助けにあずかる身になりました。六道の生死のまよいも、今生が最後にして貰いました。輪転往来の境界も、この生涯を限りに止めて下さいました。ナンマンダ仏の親さまが、離れずご一緒して下さる、今や大安堵の我が命。報謝せずんばあるべからず。たとえ骨は砕かずとも、クセになる程にお称名申させて頂きます。



今、総理大臣が

今、総理大臣がアメリカの教育の水準・知的水準が低いと発言したこと、問題になっています。その事をアメリカの議会に対して陳謝し、一応国家の間柄の問題としては、鎮静したとされます。

しかしアメリカの社会一般・民間の生活レベルでは、まだまだ波紋が拡がって日本人個人に対しての嫌がらせや攻撃すら続いていると聞きます。

日本の高校生が大学受験に向かって猛烈な勉強をしていることは、誰でも承知している。いわば日本の社会現象とでもいった風潮です。

ところが大学に合格・入学した学生達が一様に勉強しなくなるということも、日本の今日の社会現象なのであると、しばしば識者の指摘するところです。勿論よく勉強する大学生もいましょうけれど、大むね入学した途端、学生は勉強意欲を失うようであります。

目標をもった上の努力は、目標を達成したところで努力の意欲がしぼみます。大学合格という目的が果たされて努力が要らなくなって、勉強意欲を失うのでしょう。

今、私は阿弥陀さまのご本願のいわれをききます。そこには恩を知るほどのものであれよとの、阿弥陀さまのご期待があって、お称名・お念仏がすすめられています。

ご恩を知るものの努力・報恩謝徳のうえから励むいとなみは、衰えることがありません。やむことがありません。今、現に私は六道輪転を永く断って、やがての往生成仏が確定しました。喜ばしくも正定聚の位に押上げられました。

”如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし”

と、わが胸に言い含めます。



近頃、こんな妙好人の話

近頃、こんな妙好人の話を聞きました。手次ぎのお寺にお座が立ち、お説教があります。ところが事情があって、どうしてもお寺に参れません。そこで自分の家からお寺まで歩いて参る道のりの足数だけ、わが家の庭石を跳んで歩いて、お念仏申したという。仏恩報謝の姿です。

下関市・新地の妙蓮寺さまでは、六時にお朝事が始まり、参詣の門信徒とご一緒に、お勤めが行われています。最後は毎朝、ご院家さんが数十分のご法話をなさいまして終ります。明治から百年の歳月を越えて、連綿と続くお寺に於ける朝毎(あさごと)のご報謝の営みです。

この妙蓮寺のお朝事にかかさず参詣し続けるお同行に話を聞きました。お朝事が始まる六時に間に合うように参るのに、市内バスはまだ動きません。そこで歩きます。家を出てお寺まで四十分。

”丁度運動になってよろしゅうございます。お育てをいただいた上、お陰を蒙っております。ご恩の裡のことでございます”と、朝毎の参詣が、まるまるご恩報謝の営みであることが語られます。身の内に満ちる阿弥陀さまのお慈悲のほどが喜ばれてあります。

名号・お呼声は、わが往生治定の正定業(おちから)と、あらゆる仏さまがたが、こぞって証を立てて下さると、阿弥陀経に説かれます。されば劫を連ね、劫を累(かさ)ねても、身を粉にし骨を砕いても、仏恩の深い由来(いわれ)を報謝すべしと、善導大師が仰せられます。ここを親鸞聖人、和らげられて。

”如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし”

と、詠われました。正しく恩を知るという事が、極上最善の心だと、如来さまのお育て、ご期待があると知らるるところです。



ご法事に参りまして

ご法事に参りまして”ご院家さん、おいくつになられますか”と、ご門徒の方が私の歳を尋ねられる。昭和七年生まれで、今年は五十五才ですがと答えます。

大体、数え年を申します。満年令は、産声挙げた日から、一年経過して一才と言います。この満年令には、母親の胎内十ケ月が含まれてません。

数え年は、胎内十ケ月を命の誕生と尊重するから、生まれたら一つと申します。ともあれ、この年令なるもの、五十五才と言いましょうと、八十才といいましょうと、自分の所持品、持ちものではないのです。

じぶんの持物なら向こう五十年間、これを使用できます。しかし年令は所有物でありません。実は失うた時間の長さ、これが自分の歳というもの。過ぎ去って元に戻しようもない、時の長さを言うにすぎません。

人間 怱怱として 衆務を営み 年命の日夜に 去ることを覚えず

これは善導大師さまの歌の一節です。 人間は忙しく仕事に追われて、日毎夜毎に命の去りゆくことをしらぬ、と歌われ、お法りに身をひたすよう奨められます。

さて、有難いことに、この一年阿弥陀さまのお法りが聞こえ続けておりました。尊いことに、さまざま、如来さまのお慈悲のほどを、耳許に告げていただく一年でした。今、もう歳末になりました。一年の命を得て残すものとて無くとも、この命、如来さまとご一緒してもろうていました。身に保つもの乏しゅうてもナンマンダ仏、光寿無量の阿弥陀(おや)さまは、離れはなさいませんでした。

慌ただしい年末をご恩報謝の工夫をします。忙しいからこそ、まずは胸に言い含めてナンマンダ仏、我と我身を促します。



吉野秀雄

吉野秀雄という歌を詠む人がありました。感ずる所を大胆率直に歌い人間の本性を捉えた歌が数々ございます。

吉野氏は結核・糖尿病・心臓喘息と生涯患われました。奥さんは四人の子を残して胃癌のため亡くなられます。その後、漸く大学を卒業して職場も定まった長男が、精神の異常を来して入院されます。その当時の歌です。

死を厭い 生をも恐れ 人間の ゆれ定まらぬ こころ知るのみ

患いの体でも父と頼られては、生きていてやらねばとの思いがつのる。かというて、あしたの希みすらつなぎかねる有様に、胸ひしがるる悲しみ心も体も、今は限り。ギリギリの命の際と歌われました。その吉野氏がお念仏のいわれに親しみお法の心に順(したが)い乍ら、こう歌われます。

出づる息の 入るをも待たぬ 命ゆえ かくあるままに すがらしめたまふ

また、ただ念仏申すのみであります、とも語られています。

阿弥陀さまは極限にある命を見込んで来てくださいます。生き耐え難い思いの中に来て、独りにはしておかないよと、取り込んでくださいます。しぼり出される苦痛に分け入ってくださいます。この命、離してならぬ、お浄土までずうっと一緒していようと来てくださいました。

気がまえも身がまえも、ままならぬ思いの中に満ち満ちて、ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、独りきりにはしておかないよ、と来てくださってるのです。大善大功徳の如来さまが、同居していてくださいます。