お葬式 2(若林眞人師)
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光照寺住職 若林 眞人 師
目次
弔問の心得
ご近所のお方がお亡くなりになったりすると、お悔やみに行かねばなりませんね。その時、どんな言葉をかけたらいいのか、なかなか経験を重ねても難しいことです。
駆けつけて来られたお方が、話につまると「お別れをさせていただいてもいいですか」などとおっしゃって、「どうぞ、どうぞ」となる。 そうしてご遺体に神妙に近づかれて、そっと白布を上げなさる。
と、ここで、みょうにほめるお方がおられますね。
「まぁ、きれいなお顔で、楽にお亡くなりになったんですね。いいとこ往かれましたよ」と、お顔をほめるつもりだった。
ところが、ご病気によってはそうでないこともある。なにかほめなきゃいけませんから、
「まぁ、あったかいお体ですこと、きっといい所に往かれましたよ」と言おうとしたら、お体はドライアイスで冷たい。
「いやぁ、いつまでも柔らかいお体で、きっといいとこ往かれ‥‥‥」と、さわってみたら死後硬直。
あわてて、 「やさしいお方でしたから、きっといいとこ‥‥‥」
そういう死に姿で良いか悪いかなどと評価をしないほうがいいですね。
姉妹で母親の看病にかかり切り、そうしてお別れをなさったある女性の体験談です。 そのお母さんは病状が重く、苦しみの中に亡くなっていかれたそうです。お母さんの苦しみをどうすることもできなかった姉妹もまた苦しかったことでしょう。
それから、しばらくして、妹さんの嫁ぎ先のお義母さんもお亡くなりになった。姉さんは弔問のお客さんのお接待に行かれます。するとご近所のお方々の言葉が耳に入ってきます。
「楽にお亡くなりになったんでしょ。そらぁいいとこに往かれましたよ」
そのことを振り返って姉さんがおっしゃいました。
「その時ね、妹はつらそうな顔をするのよ。だってね、母はうんと苦しんで死んだでしょ。それだったらいいとこ行ってないみたいじゃない」
「私もね、簡単にそんなこと言ってたけど聞く立場によって辛く感じるのよ」
まさにそうですよね。死に姿をどうこう言うよりも、なくなったお方のお手柄を偲び、お礼を申し、そうしてお別れなさったご家族の思いを聞かせていただく。それが「弔問」ですよ。「弔」は「とむらう・たずねる」の意味。「問」は「とう」こと。
「たくさんの思い出をいただきましたね、お世話になりましたね、ご生涯を共にできましたこと有り難うございました」と、お礼を申す。弔問とはそういうひと時でありたいなと思うのです。
おリンを叩けば責任が
お仏壇にお参りをされる時、あるいはお寺にお参りなさった時に、「カーン・カーン」と「おリン」を叩く人がおられますね。自分が来たことを知らせるつもりでしょうかね。
先日あるご家庭のおばあさんがお亡くなりになった時のこと。 若奥さんはお仏壇のお荘厳をととのえて、私の到着を待っていてくださいました。 その間、ご近所のおばさんが来られて、ご遺体の枕元に坐られると、「おリンが出てないよ」と言われる。若奥さんはおリンはお仏壇に置いておくものとご存じでしたが、そうおっしゃるならと、おばさんの手もとに移されました。 すると、「チーン・チーン」と叩いて合掌されたそうです。
「私が来ましたよ」、眠ってなさるといけないから目を覚まそうとされるんですかね。まるでチャイムみたいなもんですな。
いや、叩いてもいいんですよ、だけど「おリン」を叩いたお方には責任があるんです。「只今からお経を勤めます」という合図ですから、叩いた以上は最後までお勤めをしなければなりません。
北九州のあるご住職のお話。 ある家ではご法事に参って来られた人がみなおリンを叩く、そういう習慣になってしまっている。お経が始まっているのに遅れて来た人まで「チーン・チーン」とやる。 これは困るからおリンの棒をそっと裾に隠した。 「するとね、次に来た人は私の前まで手をのばして股のとこまで探すんですよ」
ご自身がお勤めをなさらない時には、どうかおリンを叩かないでください。それよりもただお念仏をなさって、合掌をなさるのがいいですね。
口に常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたまふ。
身に常に仏を礼敬すれば、仏すなわちこれを見たまふ。
心に常に仏を念ずれば、仏すなわちこれを知りたまふ。‥‥‥ 【善導大師『観経疏・散善義』】
お通夜は普段着
いろいろな行事に出席するとき、何を着ていくのがいいのか、それに迷うことがありますね。たとえば、お通夜の時、どんな服装をされますか。
近頃、お葬式を家ではされずに、会館とか葬儀式場などを利用されることが多くなりました。その影響でしょうか、お通夜に喪服を着用される人が目に付くようになりましたね。つい最近まで、みな普段着ではなかったですか。そのほうがいいんです。
なぜかと申しますと、「通夜」とは「夜を通す」と書きますね。夜を通して何をするのでしょうか。実は、最後のお看取り、看病をさせていただくのです。
関西地方ではお通夜のことを「夜伽」と申します。「伽」とは、「お伽話」の「とぎ」でして、子供に寝物語をしてその相手をすること、つまり語り相手をし、看病をすることなんです。
もうお亡くなりになったに違いないけれど、まだ生きてなさるお姿を装うのです。最後の別れに会えなかった親しき方々が、大急ぎで駆けつけて、ひと夜最後の看病、最後のお看取りをさせてもらうというひと時なんです。だから普段着がいいですね。
昔でしたら、鳥の羽をお湯のみにそっと浸して、おひとりお一人がその荒れた口許を湿しなさったんだと思うんです。まさに息絶えなんとする、そのおそばに侍って、お世話になりましたねぇ、有り難うございましたねぇ、この上はあなたのお手柄を大切にさせていただきます、と、最後の看病、お看取りをさせてもらう、そういう姿なんですね。
じゃあなぜ、お通夜にお勤めをするのかと言いますと、あれはそのご当人のお夕事(毎日夕方のお勤め)なんです。ご本人はお勤めしずらいので、皆が代わりにご一緒させてもろうてるわけでして、死んだ人にお経をあげるんじゃないんです。
このごろ忙しくてお葬式には参れないから代わりにお通夜に行っておく。こういう風潮がありますね。葬儀社によっては、まるでお葬式と同じ感覚で、皆にお焼香をさせたり、ご家族をお礼に立たせたりするところがあります。これは間違いです。
最後のお看取りに駆けつけて来られたお方々が夜を通しての夜伽、まだ生きてなさる姿を装い、語り相手をさせていただく、喪服より普段着がいいですね。香典をことづけるのはちょっと失礼にあたりますよね。お通夜と葬儀式とではお別れの意味が違うのですから。
火が消えて迷うもんですか
人がお亡くなりになると、さっそく迷いの心配をなさるお方がおられますね。たとえば、こんなことがありました。
お通夜の席では先ず参詣の人々にお勤めの次第と時間配分をお伝えする事にしています。そうしてお勤めが終わりますと、振り返って「ご多用の中ようこそお参りになられました。今から十分余りの時間を頂戴し、お通夜に寄せてのご法話をさせていただきます」と申してご法話を始めます。
さてある時のこと、振り返れば、膝を突き合わせるぐらいにびっしりと参詣のお方々が坐っておられました。話し始めて数分たつと、左隅のほうで何かひそひそと話し声がする。「あんた、何とかよ、はよはよ! 早よせな」何か急いでおられる。
すると一人の女性が近寄って来られて「ご院主さん、すいません、もうちょっと前へ」前に出ようと思ってもいっぱいなんです。話の最中ですから、理由を尋ねることができません。「もうちょっと前へ」とまたおっしゃる。ほんのわずか席を進めましたら、にわかに私の背中のほうでごそごそと。何事か? と振り向いたら、お線香に火をつけておられるんです。
ああそうか、先ほどのひそひそ話は「あんた、お線香が消えそうよ、消えたら迷うやないの、早よ行かんと」「今しゃべったはるやないの」「ええやんか、早よはよ!早よせな消えるよ」。どうやら、こんなやりとりがあったんでしょう。
お線香が消えて迷うもんですか。どこからこんな話がでてきたんでしょうかねぇ。ロウソクが消えたら迷うなどと、きっと亡くなったお方を迷いの姿としか思えない人が言い始めたんでしょうね。
もうそんな心配をいっさい持ち込む必要が無いのです。お浄土という世界を知らされた上は迷いの世界は無用です。亡きお方を迷いの身扱いするとは悲しいじゃありませんか。
中陰の間に用いるようにと、渦巻き線香ができましたね。あれは単に長持ちするだけの工夫です。むしろあまり長い時間あの煙を吸い続けると喉に良くないですね。火をつけっぱなしにする必要はないのです。お参りなさるその都度、香りのいいお線香をお供えなさるといいですよ。その香りに包まれてお礼を申す。このこと一つです。もう心配はいりませんね。
「忌」の字の意味は
誰かがお亡くなりになると、その家の入り口に貼り紙をすることがありますね。地方地方で様々な風習があるでしょうが、関西ですと菱形の紙に「忌」という字が書いてある。これを貼るのは当然のように思っておられるでしょうが、どういう意味なのかお考えになったことがありますか。
どうもおおかたの人にとってあの字にはいいイメージが無いようです。辞書を見ると始めに「忌み嫌う・はばかる」などと書いてある。この意味で貼り紙に用いているとすれば、そこには死者を穢れた存在とする見方があるはずです。「この家には死者が出ましたよ、穢れております、どうぞご用心ください」と、近隣に知らせることになります。もし、そういう意味なら悲しいことです。貼らないほうがいいです。
あるお寺の総代さんがお亡くなりになった時のこと。ご親戚に浄土真宗のお寺があり、その若院さんが「これははずしましょう」と「忌」の貼り紙をはずされ、半紙に「還浄」と書かれたそうです。
「還」とは「かえる・もといたところにかえる」という意味で、「浄」とはお浄土のことです。浄土に還る。「この娑婆にお出ましになって、お念仏のご縁をむすんでくださった。そうして今、娑婆の縁尽きてお浄土にお還えりになったのです」と、尊んでそう書かれたのです。なるほど、その人格をお敬いなさる意味づけをなさったのだなあと思いました。
年回のご法事をお勤めされるとき何回忌という言葉を用いますね。ここにも「忌」という字があります。この時には、決して「忌み嫌う・はばかる」の意味はありません。実は「忌」には別の重要な意味があるのです。「つつしむ・うやまう」これが大切なのです。
身近なお方との別れに思いを致し、あらためて「わが身をつつしみ」亡きお方のご生涯を「おうやまい」する。その覚悟を表した文字なのです。
お葬式から始まって、中陰も年回のご法事も、すべてこの「つつしみ・うやまう」の心構えがが中心となるのです。あなたと共にこの人生を過ごすことができましたこと、有り難うございましたねぇと、あらためてわが身をつつしみ、ご生涯をおうやまいさせていただく。忌み嫌うことなどあり得ないのです。
ひとつこれからは「忌」の字のイメージを変えて行こうじゃありませんか。
弔電は誰のため
お葬式には電報が付き物だと思っておられる人がありますね。考えてみれば電報が緊急の連絡手段であった時代は過ぎ、今では携帯電話にファクス、それにインターネットですからね。現在では結婚式や入学式など、儀式の添え物の感があります。
お葬式で電報を読み上げるというのはいつ頃から始まったのでしょうか。遠く離れたお方からの親しみあふれるメッセージと言うより、すっかり政治や企業宣伝の道具になってしまったようです。
実は、私の町内のお寺さん方はみな、電文を式の間に読み上げることは控えてもらおうということになりました。
それからしばらくして、あるお葬式でのこと。お通夜の席で、はじめてお目にかかった葬儀社のお方がこんな話をされました。
「あの、明日のお葬式の打ち合わせを今夜のうちにさせていただいてもいいですか」とおっしゃる。「いいですよ」ということになって、「式次第はどのように」と丁重なおたずねです。
「それじゃお作法通りにお勤めをさせていただきたく思いますので、最初に『帰三宝偈』を勤めます。そして『三奉請』のあと導師焼香をし、着座してすぐに『お正信偈』を始めますのでこの間で電報は読まないでください」と申しますと、
葬儀社の方が「有り難うございます」と、おっしゃるのです。
「えっ? 何が有り難いのですか」
「はい、私はちょっと変わった葬儀屋でございまして、今までたくさんのお<葬式のお世話をし、たくさんの電報を読ませて頂きましたが、今までに目にした電文には、亡くなったご当人宛のものは一通もございませんでした。
喪主さんなり、ご家族なり、ご当家のお方に宛てられたものばかりでございまして、それはそのご当人がお読みなさるべきものではないか。
それを暑いにつけ寒いにつけ、ご会葬にかけつけてくださったお方々をお待たせし、わざわざ時間を割いてまで読み上げるものじゃないと考えております。
そのことを喪主さんには必ず申し上げるんですが、三分の一くらいのお方はその意味をくみ取ってくださいます。もちろん仕事ですから、読めと言われれば読ませていただきますが、今そのことをおっしゃってくださったから、有り難いなと思ったんです」
思いを共にできる葬儀社のお方がおられるのは心丈夫なことです。お葬式は最後のお別れの儀式です。決して宣伝の場では無いはずです。つとめて厳かでありたいですね。
焼香順もいりませんね
この頃、焼香順を読み上げないお葬式が時々あります。お世話をされる方にとって、焼香の順番をどうするかということは結構なんぎなことでしょうね。それが元でトラブルがあったり、苦情を聞かれたりする、そういうことにこだわる人がおられるのでしょう。
ある時、お葬式の最中に「なんでワシを呼ばんのじゃ」とつかみ合いをなさるほどのことがありました。
きっと昔はその順位に重要な意味があったのでしょう。昔は法律に相続権というものがあって、誰が家督相続をするか。相続をしたものはすべての財産を相続する権利があると同時に、一家のつきあいを果たすという責任がありました。焼香順とは、きっとその家督相続権の順位だったと思います。だから誰が先かが問題になったのでしょう。
今はそういう法律はありません。誰が先であろうと、席の近い人からお焼香をされるといいんじゃないですか。読み上げのないお葬式は厳粛でいいです。むしろ親族の方の深いつながりが伝わってくるようです。
代表焼香というのも無くていいですね。会社や組織の宣伝の場のようになるとしたら、なにか違うのではないかという思いがします。
お葬式にも『お正信偈』をお勤めします。「帰命無量寿如来 南無不可思議光 ……」ただし、日常にお勤めする時と節が異なります。ほとんど棒読みなのですが、九句目の一句「五劫思惟之摂受」だけは声が高くなり、導師一人が声を出します。そうして次の「重誓名声聞十方」の所からお焼香をする作法になっているのです。
多くのお葬式ではマイクの声が長々と焼香順を読み上げて、お勤めはそっちのけです。それよりも、ご会葬のお方々が共に『お正信偈』を唱和される、その中にしずしずとお焼香が続けられてゆく。そんなお葬式にならないものでしょうか。
「五劫思惟之摂受」とは、阿弥陀さまの五劫という長いご思案がまとまったという意味です。長いご思案とは、あらゆる衆生を皆救わずにはおかないというご思案です。
お葬式はお別れです。亡きお方に向かって、「あなたは今、阿弥陀さまの五劫という長いご思案に救い取られてお浄土に参って往かれたのですね。私もまた同じ阿弥陀さまのご思案に救い取られてやがてお浄土に参らせていただきます。見送られてゆくあなたも、見送らせていただくこの私も、同じお浄土に参らせていただく。また会える世界をいただきましたね。たくさんの思い出をいただきましたね」と語ってみたいですね。
その思いを姿にあらわしたのがお焼香です。ご会葬のお一人お一人が、亡きお方に向かっての主役です。順位は関係ないのですよ。
塩を撒くとは悲しいですね
お葬式に清め塩が付き物だと思っている人は、まだずいぶん多いんじゃないですか。日本人の意識の中に死を穢れと考える思想がいまだに宿っているんですね。悲しいことです。
恐らく、昔の人は死者を恐れの対象とし、生きている人間世界から遠ざけようとした。それを正当化するために、死者は穢れた存在だという理由付けが生み出されたのではないでしょうか。
最近、私の近くでは清め塩を用いなくなってきました。それは葬儀社の協力もあって、中には「浄土真宗の葬儀ですから」と貼り紙まで用意してくださるところがあります。
なぜ穢れたものとされるのでしょう。命を願ったお方が亡くなったとたんに、汚いもの扱いをされるとしたら悲しいじゃありませんか。
ある時のこと。毎日々々病院に通われて、お父さんの看病に尽くされた娘さんがおられました。そのお父さんがお亡くなりになった当日ばかりは病院に行けなかったそうです。
臨終のお勤めが終わったその時、娘さんが駆けつけて来られました。どうなさったかというと、いきなりその父さんの顔に頬をすりよせなさった。
「父さん、ごめんね! 父さん、ごめんね! 今日は行けんかったんよ」
抱きついてお別れの思いを表現されたのです。いいなあと思いましたよ。汚いもんですか、怖いもんですか。
またある時のこと。お参り先で。
「私ね、この頃よくお葬式に行くんですよ。そうしたらね、清め塩というのが付いているでしょ。どういう意味か知らないけれど、なんでこんなバカなことをしなくっちゃいけないんだろう。亡くなった人はなんにも汚くなんかないのに。そう思ってから使わなくなりました。
学生の頃、クリスチャンの先生だったんですが、この清め塩はね、焼きしめてあるいい塩なんだ。おいしいんだよとおっしゃって、おにぎりにふりかけてパクパク食べてしまわれたんです。」
もし、塩が清めに役立つなら、お葬式の前に自分自身にふりかけておくべきですね。死者を穢れと見るこの煩悩が汚いのですから。
我々はもう亡き人を穢れと見る、そういう必要のない世界に身を置かせてもらったのです。それを大切にしたいですね。
生きてる人間が恐ろしい
亡くなった人を怖いもののように思っている人がおられますね。それは、死んだ人が怖いと言うより、その姿の上に自分自身の死が投影されているからでしょう。
亡くなったお方は恐ろしいですか。
タクシーに乗りますと、結構話し好きな運転手さんがおられまして、ある時のこと、乗車拒否と言うことが話題になりました。
「タクシーにはどんなお客さんが乗られるかわからんから大変ですなぁ」
「うーん、そりゃまあそうですけど、わしら手をあげたお客さんがあったら絶対止めなあきません」
「ほぉー、そうですか」
「そらぁ、そうせんかったら、もし会社に乗車拒否の連絡が入ったらどんな事情であろうと、すぐクビですわ」
「なんと厳しいですなぁ」
「わしはまだ経験はないけど、運転手仲間ではえらい目に遭うてまっせ」
「そら怖いこともありますやろな」と言うような話題になったんです。
すると、運転手さんがバックミラーを見ながら、
「お寺さんはその点よろしいな」
「何がです?」
「お寺さんは死んだ人が相手やもん、怖いことしまへんがな」
なるほど、そうですよ。生きてる人間が恐ろしい。煩悩を抱えたこの身ほど恐ろしいものはありません。何をするやらわからんのですから。それなのに、亡くなった人を恐ろしいものにしているのは何なのでしょう。
亡くなったお方の知らせを受けると、知らず知らずに理由探しを始めます。たとえば、高齢の方が亡くなると「そらもう歳やもの」、病弱なお方ですと「そらあ弱かったからな」、仕事にバリバリ打ち込まれたお方ですと「そらあんな無理を重ねたらしょうがないわ」。
理由探しを始めるのは、亡くなったお方には当然の理由があって、自分には当てはまらないと思いたいからなのです。そうして死を遠ざけておこうとする。この死を振り払おうとする心が、死者を恐ろしいものにしているのです。
この娑婆に生きる限りは、必ず終わってゆかねばなりません。何もかも失ってゆかねばなりません。どれ程に死なぬ努力をしたとしても。そのことを身をもって示してくださったお方こそ、亡き人でありました。
命終わってゆかれたお姿に接する時こそ、わが命の行く末をあらためて思わせていただく、そういうひとときでありたいものですね。
この原稿は、平成9年(1987)4・5月『北御堂テレホン法話』の内容の一部を筆者が加筆訂正したものです。
北御堂テレホン法話より 《 一九九七.四月・五月放送の中から前半 》
平成十年九月 北御堂(津村別院)から『聞法』として出版