念仏ひとり遊び
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念仏ひとり遊び 佐々 真利子さん
ここに掲載の法話は長崎県の佐々真利子さんが光源寺テレホン法話で話された内容を自費出版下さったものを許可を得て掲載しているものです。(協力及びtext入力:Tom.Miwa) なお佐々さんは往生の素懐を遂げ西方仏国の住人でまします。
目次
- 1 テレホン法話「響流十方」に寄せて
- 2 テストパターンにて
- 3 その(二)
- 4 「運命の運」
- 5 「一切の物の背景」
- 6 「二人の外人さん」
- 7 「今年中に死ぬ」
- 8 「お与えのお命の中で」
- 9 「親不孝になるから」
- 10 「差別即平等」
- 11 「定めのままに」
- 12 「念仏ひとり遊び」
- 13 「勇んでご用を勤めさせて頂きます」
- 14 「生まれて来てよかった」
- 15 前記「生まれて来てよかった」の始めの原稿
- 16 「浄土真宗のお救い」
- 17 「テレホン法話一周年に寄せて」
- 18 「苦悩の根本」
- 19 「日曜礼拝十四年に寄せて」
- 20 「Mさんのおばあ様を偲んで」
- 21 第二十四回 九州地区仏教婦人大会
- 22 「仏婦大会に参加させて頂いて」
テレホン法話「響流十方」に寄せて
佐々さんとはもう四十年近くもご交誼をいただいています。二才の時小児マヒになられ、青春の頃脊椎カリエスになられ、十年近くも寝た切りのご生活だったのです。その間何度も、自死しようと思われたと申されています。
しかし、お念仏の御摂取に遇われて、この私の命は、みほとけ様の「おいのち」と云われる身になられたのです。
テレホン法話が第一回から一冊のご本になって出版されます由、心からお喜びいたします。
一冊の本になると、改めて佐々さんのお喜びが聴聞できてこの上の喜びはありません。
今からもご不自由のお体に、又お心の上にも幾多の障害や、苦悩が重なって来ることと思いますが、「罪障功徳の体となる」との仰せの如く、いよいよ広大無辺の本願念仏の大慈大悲の中にご生活遊ばすことと存じます。
今からもテレホン法話を続けて御放送下さい。たのしみにしてお待ちいたします。
一言お喜びの言葉といたします。 合掌
昭和六十三年八月十三日
藤原正遠
テストパターンにて
昭和六十一年 六月二十五日
その(一)
お電話有り難うございました。私は光源寺様門徒の佐々真利子でございます。
私達の苦悩は私を主体として出発してる所から始まっているのではありますまいか。然し一切は善うても悪うても、先に先にお出ましになっているではありませんか、そのことに気付かされた時、南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせて頂きます。
お念仏が「出発は法からなんだよ、一切は仏のお命から出ている仏の活動なんだよ」と、主体を仏の世界へ帰して下さるのがお念仏さまだったのです。
そこから一切のものを見せて貰いますと、大法が主体となって善悪浄穢をつつんだまま脈々と活動していたことを教えて下さいます。
真に一切このまま不可思議な大法界だったのですねえ。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
その(二)
南無阿弥陀仏ということは「お母さん」ということだと私は教えて頂きました。
私達は知らなくても一切の根元である阿弥陀仏のお命から、み仏のお命のあらわれ、仏の子として茲にあらしめられていたのです。
私が主体でなくみ仏さまが主体であり私の親さまなにです。それで寂しい時、悲しい時、誰にも云えないような苦しみがある時、私はそっと「お母さん、南無阿弥陀仏」と、親さまのみ名を称えてほっと息をつかせて貰っています。あなたさまもそっと南無阿弥陀仏と、み親のみ名をお称えになってごらんなさいませんか。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「運命の運」
(7月14日)
お電話ありがとうございました。私は光源寺様門徒の佐々真利子でございます。
このテレホン法話でお話しするようにとの仰せを頂きました。とてもそんなお話し出来るようなものではございませんが折角下さるご縁ですのでお聞き苦しいこともあるかと思いますが、先生方や先輩の皆様方からお教えいただきましたことや、日頃私が感じましたことなどお話しさせていただきます。お聞き下さいましてお気付きのことがございましたらお教え下さいますよう始めにお願い申しあげておきます。
先月石川県小松市のお念仏の会へお招き頂き行って詣りました。三十人ほどの方々とお念仏のお恵みをお聞かせ頂き、話し合って楽しゅうございました。
その会の会長さんは昨年の秋、ロンドンまで行かれて書道展をなさり即席揮亳もなさって、ダイアナ妃から握手を求められ感激しました。とおっしゃってた程の書道の先生でもあられるお念仏のお方なのです。
その先生からお教え頂いたのですが、或人から「運命の運」とたのまれて、「私は運なんて書けん」とおっしゃったそうです。そうしたらその方が
「良い運が来るようにというのではないのです。運命の運は、一切み仏さまのお命のおはこび、ということだと私は頂いています。そのみ仏さまのお命の中に私もはこばれていたのだという、”おはこびの運”という字を書いて頂きたいのです。と、おっしゃったので大変の愕き有り難く書かせて頂きました」と、清しくお話しして下さいました。
私の恩師のお歌に
知らずともこのわがいのち弥陀仏のおんいのちぞと聞けば安けし
とありますが、そのお歌と共に「運命」というお言葉が私は大変好きになりました。 お電話お聞き下さいまして有り難うございました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「一切の物の背景」
(7月28日)
お電話有り難うございました。佐々真利子でございます。(この行は以下省略)
このお電話をお聞き下さって居られるお方の中にはご病気の方、お年寄りで外出がお出来になれないお方もいらっしゃるのではないかと思います。
実は私も二つの時小児マヒになり今六十一才で人様のお世話になる身です。逃げようにも逃げることの出来ない苦悩一杯、障り一杯の私に、発電所があって電灯がつき炬燵の熱となり扇風機の風となるように、一切の物の背景に不可思議な法の世界、仏様の世界があり、そこから一切の物が個人的な私の考えや都合に関係なく、善うても悪うても、先に先にお出ましになって活動している仏さまの世界であることを押し頂きました。仏さまの世界から一切は出発していたのですねえ。
処が私は私を中心にして苦悩しそこからのがれることが出来ず苦しんでいたのです。そんな私に、「阿弥陀仏はその苦悩の下で待っていてくださるから、”南無阿弥陀仏”とみ親のみ名を称えて法の世界は帰して頂きなさい、”南無阿弥陀仏”と、仏さまに抱いて頂きなさい。」とお教え頂きました。
始めはなかなかお念仏が出ませんでしたがどうにもならぬ苦悩に、南無阿弥陀仏、とお念仏さまが口を割ってお出まし下さり三十年になりました。
一切は仏様のご活動だったのでございますね。花が咲いて散り、咲いて散りするように、善うても悪うても、訳は仏さまの方におありになるのでございましょう。脈々と仏様が休みなく活動していられることを教えて頂いた、唯、”南無阿弥陀仏”とお念仏させて頂いております。皆様ご法体お大事に。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「二人の外人さん」
(九月八日)
このテレホン法話で「法話」というお言葉が私には気になります。気になるだけ私に気負いがあるのかも知れません。おこがましいことでございますが、又とないご縁を大切に勉強させて頂き、み教え給りたいと思いますのでよろしくお願い申しあげます。
先日若い外人さんが二人みえまして、キリスト教のお話を聞いてくれとおっしゃるのです。その時私は、 「宗教は心の苦悩をほどいて下さるお恵みではないでしょうか。食べ物が空腹を満たしてくださるお恵みのように。だからパンがお好きな人はパンで満腹なさればよく、お鮨がお好きな方はお鮨を召し上がればよく、お茶漬けしか食べられない者は人様から粗末な食事と云われても、お茶漬け様で満腹させて貰って有り難いのではありますまいか。
そのように私はお念仏のみ教えで心の苦悩をほどいて頂きました。有り難いことに、満腹すると腹の減ったことは云わなくてよくなりまして、おいしかったとよろこんでおります。
そして又腹が減るように苦悩が出ると、なんまんだ仏 なんまんだ仏と、お念仏のお恵みを頂いています」といってお断りいたしました。
そのあと何かのことから私の恩師に今の話を致しましたところ、
「先ず先方様のお教えをお聞きしなさい。その上で私はこうですと、こちらをお話しさせて貰いなさい。こちらは何時も教えを頂く身です」と、お教え頂きまして改めて私の不遜なことを気付かせて頂きました。真にお恥ずかしいことばかりでございます。
何処のお国のお方でしたか、あのお二人の外人さんに陰ながら感謝いたしました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「今年中に死ぬ」
(十月二十日)
秋も深くなりしみじみと色々なことが想われます。
大学入試をひかえたお子様達は最後の追い込みにはいられることでしょう。この頃になると或る方のことを私は想い出します。
もうかれこれ十年ぐらい前の話ですが、その方の息子さんが希望校の入試を失敗し、次の年も一度挑戦なさったのですが再び失敗、すべり止めに受けて大学に入っていたのに希望大学に行きたく入学手続き書類を破ってしまったのです。それでとうとう又浪人。始めは一生懸命勉強しておられましたが、二年目ではほとんどのお友達は大学に入ってしまいますからねえ。
やっと受験勉強から開放され夏休みを満喫してる友達を見て、あせりと疲れからか寝ころがっては見るでもないテレビをつけて大きな体をごろごろしてるもので、お母さんがたまりかねて何かおっしゃると反発する、親子供にやり場のない険悪な日を過ごしておられました。
そんな折りそのお母さんが、このテレホン法話でもご法話下さる藤原正遠先生の昼食のお給仕をしながらそのことを話されたのです。
そしたら正遠先生が「その息子さんに何か小言を云いたくなったらこの子は今年中に死ぬ、と思いなさい」とおっしゃったのです。
びっくりなさいました、そして「はーあ、あの子は今年中に死ぬのですか。はい、わかりました」それから先生のお食事がすまれて帰ろうとなさったそのお母さんに「今年中に死ぬのは貴女の方かも知れませんね」と、それ以来そのお母さんは事あるごとに「今年中に死ぬ」とおっしゃった先生のお教えを想い出させて貰っています。とお話して下さいました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「お与えのお命の中で」
(十一月十七日)
先日次のようなお手紙を頂きました。
「近頃は頭もすっきりせず、手もふるえ字も思うようにかけません。時には寝た切りの人を見てあの人よりはまだましだと思ってお念仏はするのですが」と、
この方は法友のご紹介で時々お手紙下さるのですがお会いしたことはありません。お年のようで入院していらっしゃるそうです。私は次のようなお返事を出しました。
「南無阿弥陀仏、お具合おわるいご様子お案じ申し上げています。くれぐれもお大事になさって下さいませ。私も二才の時の小児マヒで六十二才の今日まで、足萎え手萎えの不自由さは身にしみています。この悔しさ不自由さは何を持ってきても満たされない悔しさ不自由さではないでしょうか、恐らく貴女様もそうだと思います。
時には寝た切りの人を見て、あの人よりましだと持ち換えてみても、心の底からすっきりしないのではないですか。又あの人より、この人よりといって居られる間は、まだ障りが軽いのではないでしょうか。でもそれぞれ苦悩一杯、人とは較べられないと思います。
お念仏のお恵みを私にお教え下さった恩師 藤原正遠先生のご文に
『満八十一才で前方には火葬場が待ってくれているだけで、人生の希望は絶無です。
だから阿弥陀さまの仰せのままに、南無阿弥陀仏のふところに抱かれ、南無阿弥陀仏です』と、お書き下さっていました。私も齢こそ六十二ですがいくら悔しくても立てない足、不自由な身体です。だから私も阿弥陀さまの仰せのままに、南無阿弥陀仏と今日のお与えのお命の中で泣いたり笑ったり悔しがったり、ご縁のままに阿弥陀さまに甘えております。そして又明日もお命があれば、南無阿弥陀仏とお念仏のお恵みを頂いてゆきたいと思っています」とお返事書きました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「親不孝になるから」
(十月十五日)
私の兄に男二人、女二人の子供がございます。その末娘は未熟児ではなかったのですが小柄で、幼稚園にはいりました時は、身長一メートル体重十キロだったのです。元気はいいのですが小さいので、姉も心配し本人も中学生になっても小学生と間違われるので気にしていました。お買いものについて行ってお店の人から「小学何年生、可愛いかね、まけとってやるけん」と云われると後で怒って「お母さん、あのお店ではもう買いなさんな」なんてよく云ったものです。
あれは確か姪が中学一年の時だったと思います、私の恩師 藤原正遠先生が、長崎正遠会へご法話にご光来下さったお帰りをお見送りに連れて行ったのです。
その駅まで行くハイヤーの中で先生が「何年生」とお訊ねになりました。
「はい、中一です」その時私が、「小さいので本人も、姉も気にしております」と申しました。
すると正遠先生が「お母さんに云いなさい、お母さんより大きくなったら親不孝になるからちいさいのです」姪はにこっとしました。
ところが先生は更にお言葉をつがれて
「もしこれから先お母さんより大きくなったら、お母さんが心配するので大きくなりました。お母さん有り難うと云いなさい」とそうお教え下さったのです。
それ以来、正遠先生といえばその時のことを姪は思い出しているようです。
今は母親より大きくなり中学校の先生をしておりまして、二才になる女の子の親になりました。その子も親に似て小柄です。姪は「学校に行くようになったら正遠先生からお教え頂いたことを話してやろう」と、いそいそと云っております。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「差別即平等」
(一月二十六日)
ことしもご縁頂きました、お喋りさせて頂きます。
今度頂いたお年賀状の中に「新年の言葉」として「大寝殿の正面に立つ壮麗な門は勅使門またの名を菊のご門といって勅使が立つ時以外は絶対に開かれることがないのだ........一切平等を教えの基本にすると聞かされている仏教のその本山にもこのようにして身分の差別が厳しく行われているのだ。それでいて賽銭箱はおかね小母(おば)やんの賽銭を素知らぬふりで呑み込むのだー」と、或る作家の方の文を引用したものがありました。それを拝見しまして次のような話を思い出しました。
顔が足の裏に言ったそうです。「お前は汚いなあー 何時も体の一番下で汚い所ばかり踏んで歩いて」と、云われるまでもなく足の裏は何時も顔を羨ましく思っていたのです。そらそうですよ、顔は朝に晩に鏡に映して貰いお化粧までして貰えるのですもの、顔からけなされた足の裏は、顔より上の頭のてっ辺にあがったんですって、そうしたら顔が困るどころか立ち上がることもできなくなったのです。
足の裏はいい気になって居たのですがだんだんお日様の光がまぶしいやら熱いやら、とうとうたまらなくなって元の足の裏に帰ったそうです。
そうして、「一切は大本の仏様の方に訳はおありになって『差別即平等』それぞれ大切なお与えの場で、大切なお与えのお仕事をさせて貰っているのだぞ、それが切なく悲しいことであればあるほど仏様はご苦労やなあ切なかったら、南無阿弥陀仏 と親である私の名をよんでくれ。とおっしゃっているのだよ。」と聞くともなく聞いていたご法話を足の裏は思い出してほっと息をつかせて貰った、というお話です。
ここ光源寺様ご住職のおじい様、楠活雷先生が「平等々々と云うけれど、仏教はべた平等ではないんだぞ、それぞれの所で、”各々安立”させて貰う教えなんだぞ」と、よくおっしゃっていたそうです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「定めのままに」
(没とした原稿)
この前差別と平等の問題を頂きまして顔と足の裏のお話を致しました処、色々とお教え頂き有り難うございました。その中で在る方のお便りに、「世の中には差別されて苦しんでる人が何千万人とおる、部落差別、民族差別、障害者差別、女性差別、そういう差別がそのまま平等なのだとは云えない。」と、まことに仰せの通りです。そういうお気持ちで色々運動して下さってるお方を尊敬致します。
又、「佐々は差別の悲しみを知らんからだ」との仰せもありました。実は私も重度の身障者で差別をうけ、悔しがったり泣いたりしました。「不可抗的なこともそうだから、人為的なことは尚のこと」というのもありました。人為的.....何かすっきり致しません。然し勿体ない差別も頂いています。
ここ光源寺様に参りますとご住職様が階段を背負って下さいます。外でもそうです。又色々の所に車椅子用の設備が出来ています。それは前に申しました様な方々のお働きのお陰様と感謝致します。又私で出来ますことがあればお申しつけ下さいという気持ちは一杯です。
ところが人様から受ける差別どころか私は自分を呪い嫌ったのです。運動選手程でなくて良い只歩くだけの足が欲しい、何故私は足が立たないのか理不尽だ、差別だ、ともがきくるしんだのです。然し幾らもがいても、親を怨み人様を羨んでも、自分自身諦めても、諦め切れなくても、与わった現実、善うても悪うても先先に出てる現実は動かないのです。そのどうにもならんところに「お念仏しなさい」との、み教えがとどいて下さったのです。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」お念仏がお出まし下さって三十年になります。一切は仏わざ、大法界のご活動だったと解りました。訳は大本の仏様の方におありになるのでしょう、一切万物すべて狂いなく脈々と永遠に活動してある仏様の自由の世界に、南無阿弥陀仏と抱いて頂いて勿体なく思っています。 恩師 藤原正遠先生のお歌です。
法界のなさしめ給うことなれば 定めのままに南無阿弥陀仏
「念仏ひとり遊び」
(二月二十三日)
私事で恐縮でございますが三月十三日は十八年前八十三才で亡くなった母の祥月命日でございます。私は六人兄弟の末っ子です。二つの時小児マヒになりまして、体中ぐにゃぐにゃになった私を「どの程度まで治るか医学では何とも云えない」と、六十年前に診断された時の母の愕きはどんなだったでしょう。それからの母は命がけで神仏に祈願し、少しでも良いと聞けばどんなことでもしてくれた様です。
どうにか這いずり廻りながら自分のことだけは曲がりなりにも出来るようになったのですが、母は自分が死んだ後が心配になったのです。兄達の厄介になるんだがその家庭まで乱させてはならん。それには僻まんように育てなければと思ったそうです。私が物心ついた時母が云うんです。「お前は不具者なんだ片輪者なんだ、だから何かと人様のお世話になるのだから感謝の気持ちを忘れてはならん。又片輪者は人様には物珍しいのだから後指をさされるかもしれん、お前も物珍しいものは見たかろう、それと同じことだから気にせんでいいんだよ」と聞かされました。
それでいて人様が振り向かれると母は悲しい顔をするのです。私は何かとっても親不孝してる様でその方が辛うございました。今そんなことを娘に云わなければならなかった母の悲しさを心に痛く感じます。
又自分が死んだら話し相手がなくなるのではないかと心配した母は、一切の親様である阿弥陀仏と何でもお話しできるようになるようにと、お手次であるここ光源寺様や方々のご法座に連れて行ってくれたのです。それが 恩師 藤原正遠先生に三十七年もご慈育頂き、今に何かとお教え賜るご縁となったのです。
正遠先生のお歌に
念仏とひとり遊びのできること これを大悲とわたくしは云う
とございますがお陰様でこのお歌を有り難く頂けることを嬉しく思います。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「勇んでご用を勤めさせて頂きます」
(三月九日)
今度の十五日にこちら光源寺様日曜礼拝でご法話下さる 石川県の藤原正遠先生のご自坊 浄秀寺様で毎年『仏法聴聞会』がございます。
以前は『夏期仏教講習会』として8月の始めに開かれておりました。近在はもとより全国から泊まりがけで二百人以上のお参りがございます。その人達全部に三度三度お斎が出るのです。一度では座れませんので二度か三度に分けて頂きます。その時食前の言葉、食後の言葉を拝誦いたします。
その食後の言葉に「お与えの尊い食物を頂いて心身に力が満ちてまいりました。このご恩に勇んでご用を勤めさして頂きます。」とあるのです。近年は少し異いますが、或る年おばあちゃまについて来ておられた小学生の坊やが、参会しておられた仏教大学の学生さんと仲良しになり、お斎の時もそのお兄ちゃん二人の間に座ってたんです。処が、食後の言葉が終わると「お兄ちゃん、僕は何のご用をすればいいの」と、聞いたのです。二人の大学生さんは困って顔を見合っておられましたが、その坊やがご飯をこぼしていたのを見つけて
「ご飯をこぼしてるじゃないか、それを拾うのがご用を勤めることや」と、云われたのです。
その坊やは「ああ、そうか」と、云うなりご飯を拾ってぱくっと口へほうりこむや、満足そうににこっと笑って表へ遊びに行ってしまったのです。
側に居て私は大変愕きました。そして今度は私が問題になったのです。何故なら私は不自由な体で自分が頂いたお茶碗一つ下げられないのです。それなのに「勇んでご用を勤めさせていただきます」何と気やすく云うたことだろう、私にはどんなご用ができるだろうか。正遠先生に今までのことをお話ししてお尋ねいたしました。先生は即座に「息をつかせて貰うことがご用を勤めさせて頂くことです。その上は、気のすむこと、人の喜ぶことをするのが、楽な道なのです。」と、お教えくださいました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「生まれて来てよかった」
(四月二十七日)
4月はお釈迦様のお誕生の月でございます。お釈迦様は大法の世界にお生まれになって、「天にも地にも 私はかけがえのない尊いお命を頂いているものだ」と、仰せられたと聞きます。
然し私は不具者です。そんなかけがえの無い尊い命だ、なんてとても思えません。それどころか私は何の為に生まれて来たのか、世の為人の為どころか自分自身を持てあます身です。私の人生は何なのか、生まれて来て良かったと思う日が一日でもあるだろうか、人生の意義って何だろうか、と思い悩んだことがございます。そしてその答えは仏法様にあると聞きまして聴聞いたしました。
幸いに遇い難い師、藤原正遠先生にご縁を頂きました。正遠先生から『訳が解ってお念仏するのではない、苦しく悲しく、自分で自分が始末つかなかったら、身も心も生んで下さった親を「お母さん」と呼ぶように万物の親でまします阿弥陀仏が「我が名を称えてくれ」と喚んでいらっしゃるから「南無阿弥陀仏」とお念仏なさい、訳は仏様の方におありになるのです』とお教え頂きました。私はなかなかそれが信じられず、お念仏が称えられませんでした。何か「これだ」というような人生の意義があるのではないかと心密かに思っていました。
処が仰せの通り訳は仏様の方におありになったのでしょう、私の思い以前に、先先に善い事も悪い事も出てくるのです。
「運命」と、いうことは尊い仏さまのお命のお運び、ということだそうでございます。私が知る知らんにかかわらず、一切は仏さまのお運びだったのです。人生の意義は私の方には無く、訳は解らなくても仏さまの方に何か訳がおありになるのでしょう。私のような者もお運びのお命の中に、仏さまのお与えのご用がすむまで一息一息をつかせて貰っていることをお教え頂きました。
真にお釈迦さまから代々伝統してお育て下さった先生方の、あさからざるみ教えのお陰さま、生まれてきて良かった、生きていて良かったと、有り難く唯々勿体ない極みでございます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
前記「生まれて来てよかった」の始めの原稿
前記「生まれて来てよかった」の始めの原稿、従ってこの原稿は(没とした原稿)
散り急いだ桜の花のあとに、草木の新芽がすがしく伸びてゆく命を目に見せ心に感じさせて下さるこの頃でございます。皆様も希望に燃えてご活躍のことと思います。
然し私は不具者ですので万物が生き生きとなればなる程、一体私は何の為に生まれて来たのか、世の為人の為どころか、自分自身を持て身体で、私の人生は何なのか、生まれて来て良かったと思う日が一日でもあるだろうか、人生の意義って何だろうか、と思い悩んだことがございます。そしてその答えは仏法様にあるようにおもいまして聴聞致しました。幸いの遇い難い師 藤原正遠先生にご縁を頂きました。 先生から『訳が解ってお念仏するのではない、苦しく悲しく、自分で自分が始末つかなかったら、身も心も生んで下さった親を「お母さん」と呼ぶように、万物の親でまします阿弥陀仏が「我が名を称えてくれ」と喚んでいらっしゃるから「南無阿弥陀仏」とお念仏なさい、訳は仏様の方におありになるのです』と、お教え頂きました。私はなかなかそれが信じられず、お念仏が称えられませんでした。何か「これだ」というような人生の意義があるのではないか、と心密かに思っていました。
処が仰せの通り、訳は仏様の方におありになったのでしょう。私の思い以前に先に先に善い事も悪い事も出てくるのです。
正遠先生のお歌に
来し方も亦行く方も今日の日も我は知らねどみ運びのまま
とございますが、一切はみ運びだったのです。人生の意義なんて私の方には無く、訳は解らなくても仏様の方に何か訳がおありになるのでしょう。私のような者にもみ運びのお命の中に仏様のお与えのご用がすむまで、一息一息をつかせて貰ってることをお教え頂き、生まれて来てよかった、生きていて良かった、と有り難く嬉しく思っています。皆様にはご迷惑おかけしますが、どうぞよろしくお願い申しあげます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「浄土真宗のお救い」
(六月二十二日)
先日私の留守中にお電話があり「お宅は何でも相談所ですか、何でも悩みを聞いて貰えるのですか」とおっしゃるのだそうです。そのお電話を兄が受けまして「家はそんな所ではありません、間違いではありませんか」
「いいえ二五の一六二〇でしょう、光源寺様のご紹介でお電話したのですから、実は私の里は浄土真宗で主人は禅宗です。禅宗は武士の宗教で高尚なものだ、浄土真宗は百姓の宗教で卑しいというです。又夜お電話します。」とおっしゃって切れたそうです。私は帰りましてすぐ光源寺様へお電話しました。
その方は何時もこのテレホンをお聞き下さってるそうで、お話を聞いて欲しいとお寺へお電話があったそうです。丁度その時ご住職様は、退っ引きならぬご用がおありで、お名前もお電話もお尋ねする間もなく私をご紹介下さったとのことでした。
そのあとその方のお電話を待ちましたがとうとう掛かって参りません。でも禅宗は武士の宗教で高尚、浄土真宗は卑しい宗教と、問題を私に残して下さっていたのです。
浄土真宗は卑しい者もお救い下さる宗教だとの仰せ、真に有り難いことだとわたしは頂きます。最低の者まで洩らさずお救い下さるということは、私がどうなりましょうと必ず救われるということではないでしょうか。
『歎異抄』第十二章に
「われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じ候えば、さらに上根の人のためにはいやしくとも、われらがたみには最上の法にてまします。たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざればつとめがたし。われも人も生死をはなれんことこそ、諸仏のご本意にておわしませば、御さまたげあるべからず」というご文を改めて有り難く頂きました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「テレホン法話一周年に寄せて」
(七月十三日)
一年前テレホン法話をここ光源寺のご住職様が長崎市内で始めて開局された七月です。毎週大体二百名様がお聞き下さり、先週までで約一万一千回のお電話を頂いたそうです。皆様、本当に有り難うございました。
ご住職様から私もお話するようにと仰せ頂きました時は大変に驚きました。
どなた様がお聞き下さってるか、こちらには分かりませんだけにおこがましい極みでございます。でも折角下さる法縁を大切に有り難く頂きました。
今度で十二回お喋りさせて頂くのでございますが、三分間でのお話の内容、又きちっと入れねばならない録音の難しさ、何度やり直しても下手な朗読になり、お聞き苦しいことばかりでしょう。改めてお礼とお詫び申し上げます。お陰様で得難い勉強をさせて頂きます。
何度でも一つのことが続くのは、楽しみになると続くようでございます。
楽しみといいますと「楽しみ」と、「楽(らく)」という字は同じなんですねえ。私は自分では気付かなかったのですが色々の場合、その時その時いつも一番楽な道、四分六分で六分の方を取って来ていることを教えて頂きました。
何か事があり「くっ」としても、押さえて方が楽だったので外に出さなかったのです。然しぽんぽんと遣り返して後で苦々しい思いをすることがございます。すると、「遣り返した方が、我慢するより六分だったのだろう、なんまんだ仏」と、お念仏様がささやいて下さって又楽な道、楽しい道を歩いていたことを教えて下さいました。
皆様にもお願いでございます。お聞き下さいまして何かお感じのこと、お気付きのことがございましたらお葉書でも、お電話ででもお教え頂けますれば有り難く存じます。電話は 二五の一六二〇でございます。今後共に宜しくお願い申し上げます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「苦悩の根本」
(八月十七日」
お恥ずかしいことでございますが、私は色々の事が気になり苦悩します。それでその苦悩の本を考えてみますと、あの人がああしたから、あれをこうしてくれたら良いのに、と自分以外のことを原因だとしているのです。
処がよく考えてみますと、私を出発とし、中心としてる所から苦悩が始まっているのです。私に都合がわるかったのです。それで先方を私の都合のよいようにしようとするのですがびくとも動きません。先方を責めると、反発され嫌われます。こちらの苦悩は深まるばかりで、持って行く所がありません。
そんな私の口から「なんまんだ仏」とお念仏さまが流れ出て下さって「お前は自分を中心にして苦悩してるが、お前自身で生きてるのでないのだよ、毛筋一本もお前の自由にはならないのだ、一つでも自分の思い通りにならない事があればそれが証拠なの。そうすると、思い通りになってもそれも大法界のご活動なんだ。解るかね、解らんでもそうなんだよ」というお声が聞こえて参りました。
浅原才市様のお歌に、「私は善いことがあれば迷う、善いことがなくて仕合せなんまんだ仏」と、ございます。
真にお念仏は私個人の根を切って下さって、大法界へ帰し摂取してそこから一切のものを見せて下さるのです。そうすると一切のものが矛盾なく、狂いなく活動していたことが教えられ安心させて下さるのです。
相変わらず事に触れ、折に触れて泣いたり、笑ったり苦悩したりです。それがそのまんま大法界のご活動だったのです。でも苦悩は苦悩ですので大法界から大悲のみ親は「なんまんだ仏」と、お念仏となって抱いて下さるのです。
今日も心痛いことがあってお念仏様が流れ出てくださいました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「日曜礼拝十四年に寄せて」
(八月二十四日)
8月末でもう十四年にもなりますか、光源寺様で日曜礼拝を始められましてから.....あの頃法務をなさるお方は、ご住職さまと役僧さんとお二人でした。
市の周辺へと段々遠方へ広がっていった住宅地へ移られるご門徒が多くなり、その月忌詣りや日曜に集中する年回法事などで、お手がたりなくてやむを得ず日曜に月忌が当たられた仏様のお供をしてお寺へ参って貰い、ご住職と一緒に皆でお勤めをしてひと言でもご法話を聴聞する集いを日曜の朝一時間しよう、とご住職の発案に「キリスト教でもないのに、日曜毎にお参りがあるものか」との声の中にもかかわらず始められました日曜礼拝。
それが今ではご門徒の方より外のお寺様の方が多いのではないかと思われる程、毎週少なくて百人、多い時は百五十人もの方々が、中にはお年寄りご夫婦で労り合いながら、或いはお子様もお連れになった若いご家族が、いそいそと集い会い、勤行にご法話にとお念仏のお恵みを、ご法縁を楽しみに頂く会となり、又ご縁深まる程に通信教育で僧籍を取得なさったお方、後に続いて勉学中のお方も数人いらっしゃるそうです。
この十四年間、今では無くてはならないご法座日曜礼拝へお参りなさっていて故人となられた方々は、ご門徒でなくても法名軸にお書きになって余間へお掛け下さってあります。
そのお一人お一人が「あなたの往生の問題は決定しましたか、色々の罪障の問題、心の苦悩はどうほどけましたか、その一点に焦点を当てて聴聞してください。お念仏なさってください。この日曜礼拝は大切なご法縁の場ですよ」と、喚びかけてくださっているようです。
ご住職様、本当に尊い得難いご法縁の集いをお続け下さって有り難うございます。
九月から又心新にお参りさせて頂きます。皆様もどうぞご参会下さいませ。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「Mさんのおばあ様を偲んで」
(九月二十一日)
もう三年ぐらい前になりましょうか、Mさんがお訪ね下さったのは、初対面のご挨拶のあと「私は小さいときから祖母に連れられてお寺へお詣りしていました。何処へ行っても南無阿弥陀仏のおいわれを聞けと云われます。お念仏の内容はどういうものですか。又祖母は庭からお花を切って来ても仏様へお上げするのだけは決して下には置かず、一輪の花でも大切にお供えしていました。仏様ってそんなに大切にしなければならないのですか。又苦労や苦悩しなければ仏様には遇えんと云っていましたが、苦労や苦悩しなければ仏様には遇えないのですか。」とおっしゃるのです。私は次のようにお話させて貰いました。 恩師 藤原正遠先生のお歌に
〇疑って念仏すれど往生す 南無阿弥陀仏に み薬ぞある
とございます。私はお念仏の内容は知りませんがお歌の通り、「南無阿弥陀仏の中にお恵みが入っているから、自分で自分に困り果てたらお念仏なさい必ずお恵みに遇えます」とお教え頂きまして、困ってはなんまんだ仏、苦悩してはなんまんだ仏と、お念仏に、ほっと息をつかせて貰っています。
病気がなければお薬はいらないのと同じように、苦労や苦悩がなければ仏様には遇えんとおっしゃったのではないでしょうか。又病気もひどくなる程、お薬の内容は知らんでも仰せのままに呑むのでしょう。お念仏は心の病気のお薬だと私は思います。
おばあ様も苦悩の所にお念仏のお薬をお呑みになり、仏様のお恵みにお遇いになったお喜びをそうおっしゃったのではないでしょうか。又そのお喜びが深いだけに、仏様を大切にお花のお供え一つにもお心をこめてなさったのではないでしょうか。と申し上げ、大先輩のおばあ様をお偲び致しました。
それ以来Mさんは得難いご法友となって頂いています。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第二十四回 九州地区仏教婦人大会
テーマ「いのち」パネラーとして提出原稿
「おいのちさま」 (十月七日)
南無阿弥陀仏
皆様お初にお目にかかります。私は長崎教区長崎組光源寺婦人会の佐々真利子と申します。ご覧の通り足萎え手萎えの不具者でございます。今日のご講師、藤井先生から小児マヒのお話がございましたがこれはその小児マヒに二才の時に罹りました後遺症でございます。
ご法縁は仏様のご加護はもとよりのこと、母が自分が亡くなった後私が一人ぼっちになっても仏様とお話しして過ごせるようにと、よくお参りに連れて行って貰っていました。
処が昭和二十四年から脊椎カリエスで十年間病臥すする身となったのでございます。あの戦後の物資不足、食糧難時代その上に長崎は原爆で大学病院が全滅しましたから医療の面でもなかなか大変な時でございました。その時私は二十四才でございましたが人生に夢も希望も持てませんでした。
この会のご案内に『「いのち」地球よりも重きもの、かけがえのない尊きもの.....と人は言う』と書いてございます。その通りでございましょう。人様はそうおっしゃっても、又他のお命はそうでありましょうとも、この自分で自分を持て余す身、この命がどうして尊いと云えるだろうか、とんでもない、この不具な身体の上に治る見込みの無い脊椎カリエス、一体何の為に生きているのか、人生の意義が分からぬし、何年人様に迷惑をかけて生きねばならぬかと思うと命あることが呪わしく、気も狂う程でございました。自殺しようにも動けない、それかといって舌噛み切って死ぬ勇気もない、その苦悩のどん底の時不思議なご縁で、その頃東本願寺様の教化部長をなさっておられた石川県の浄秀寺様、前ご住職、藤原正遠先生がご光来下さったのです。
そうしてむさくるしい病人の私に、お顔をお寄せになって
「私たちの方に訳があり意義があって生まれて来たのではありません。仏様の方に何か訳がおありになってお命を頂いているのです。病気の時は寝ていることが仏様のお与えのお仕事をしているのです。仏様がお与え下さったたった一つの尊いお命です。大切にしなければいけません。それが解らなければお念仏なさい。お念仏様が教えて下さいます。お念仏が出なければにじり出しなさい。」と、お教え下さったのです。
しかし、身体じゅう病気に冒されながらもお恥ずかしいことに強情な私は、お念仏は出ませんでした。でも心身共にどうにもこうにもならなくなった時、お念仏様は私の口を割ってお出ましになり、そっと抱きしめて下さっていたのです。これは後になって気付かせて貰ったことでございます。
藤原正遠先生には以来三十七年間ご慈育頂いております。又光源寺のご住職様始め沢山の先輩、ご法友のお育てを頂いております。有り難いことでございます。 毎月三回は必ずお集まりを致しまして、お念仏のお恵みの広大さをお教え頂く会を私の家で致しています。 真に唯々「なむあみだ仏」お念仏に抱いて頂いてみましたら、私の眼には理不尽なことも大宇宙のご活動、仏様の大法界は個人的な体験や考えでは及ばぬ、善うても悪うても、先先にお出まし下さって、善悪浄穢を包んだまま一切が寸分の狂いもなく脈々と活動している、み仏様のお命であったことをお教え頂いて、その尊厳さに合掌 お念仏させて頂いております。ご静聴有り難うございました。
南無阿弥陀仏 昭和六十二年八月二十五日稿
「仏婦大会に参加させて頂いて」
(十月十九日)
十月七日八日と二日に分けて九州地区仏教婦人大会が、前お裏方名誉総裁様をお迎えして「いのち」というテーマで開催されました。その会に九州各教区から八人がパネラーとして出席、長崎教区から私がご縁を頂き、それぞれ五分間ぐらいお話をしてその後、本来は会場の方からご質問を頂くのだそうですが、二千五百名の参加者の上に、時間的にも制限があるからと、司会の先生が前もって全パネラーの原稿をお読み下さっていてのご質問でした。
私へのお尋ねは、私だけが題を「おいのちさま」と書いたそうで、何故「いのち」とせず「おいのちさま」としたか、何時からそういう気持ちになったか、又母が仏様とお話出来る身にさせておこうとお参りに連れて行ったということだが、とのご質問でございました。私は一寸おどろきました。何時からってそんなことは解りませんもの。それどころか私は命あることを呪ったのです。
お話の中でも申しましたが、治る見込みのない病気でどうにも自分が、自分で始末つかないことになればなる程、私はあがき悶えたのです。そのあがきの苦悩の中に、兼ねてお教え頂いていたお念仏が「なむあみだ仏」とお出まし下さって、私の自由になる世界でない、仏様のお命の中に生かしめられ、死なしめられていることをお教え頂きましたら「おいのちさま」と申さずにはおられないのでございます。
又母がお参りに連れて行ったのは、他の兄姉が結婚すれば不具者の私は孤独のなるのではないかと案じてのことだった様です。然しそのことがお念仏様のお慈悲に遇わせて頂くご縁の始めでございましたことを本当に有り難く思います。とお返事致しました。ご住職様の仰せで参りまして得難いご縁を頂きました。又同行して下さった方々始め、皆様のお陰さま厚くお礼申し上げます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏