お念仏は大きな海
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お念仏は大きな海
佐々真利子
目次
「問題は今」
(平成六年三月)
昨年二月始め NHKテレビ「こころの時代」にご縁を頂いた時の、金光寿朗先生との対談を記録したものと、この光源寺テレホン法話で私がお話させてもらったものを纏めて「響流十方」と、ご住職様に題名を頂いた小冊子が先日できました。校正には気をつけたつもりですが、不行き届きのところが沢山あり申し訳ない次第でございます。
この様なことがあると、六十年前私のような身障者は女学校へ行けなかった悔しさと、自分の不勉強を言い訳がましくつい「私は小学校しか行っていないから」と言うのです。ところが先日法友から、
「それは言わない方が良い、聞き辛いよ。私も以前の事を正遠先生の前で話してたら、先生がお聞き留め下さって『過去は言わんのや、今の事から問題は提起されているので問題は今だから、今の事から考え、受け取ってゆかなければいけない。』と、お教え下さったことがいろいろの事に遇うたびに私は有り難く思い出させて頂いているのです」 その時の先生とのお話は何度も聞いていたのですが、今度初めて私の心に深く届いて下さいました。有り難くお恥ずかしいことで、電話でしたから赤くなった顔を見られずすみましたが、本当にそうでございました。
問題は今でございました。過去の事も、未来の事も今のこの一事に問題が懸かっていたのです。その事に焦点を当ててお念仏に遇わせて頂くことが大切だったのでございました。そうして又、同じお話を軽く聞かないで、何度も、何度もお聞かせ頂くことの大切さを改めて教えて頂きました。有り難うございました。
真に不行き届きの本でございますが、お読み下さるお方がございましたら謹呈致します。こちら光源寺様にでも、私の方”25の1620” にでもお電話下さいますとお贈り致します。お読み下さって、お気付きことがございましたらお教え下さいますと尚有り難く嬉しゅうございます。どうぞよろしくお願い申しあげます。
南無阿弥陀仏
- なお著者は平成9年お浄土へ往生なさいました。
「問題を頂いて」
(平成六年四月)
先日「”煩悩熾盛”とはどういうことか、この命は仏の命ということだが、こんなに苦しい心の私も仏の命でしょうか」と、問題を頂きました。
”煩悩熾盛”煩悩が盛んで火のように燃えている。というのが字の解釈だと思います。それで、火のように燃えるってどういうことなのかと思って、正遠先生にお尋ねしたことがございました。先生は
「自分で、自分の心の始末がつかない、ということです。お念仏を称えさせてもらいなさい。」と、お教えくださいました。
人様から、そんな事は贅沢な悩みだ。と言われても私にとっては気になって仕方がない、その事が心に引っかかってどうにもならない事があるのです。
何故こんなにも苦悩するのか、考えてみました。 先、先に出てくる事が私の思いや、願いに反した事だったのです。その先、先に出てくる事柄、事実を私の思い通りにしようとして一生懸命なのですが、どうにもならない事実と、私の思いとの板挟みに苦悩していたのです。一切の事実は、私の思いや都合、善し悪し以前に先先と出ていたのです。
生まれたことも、十才となり、二十才となり、結婚したことも、私は身障者で結婚していませんが、自分の意志で結婚した、と言っても、先に相手が居て下さったのでしょう。そして又、年をとり、病気をしたことも、こちらは思いもよらぬ事実が先に出て、どうにも始末がつかないその苦悩を、”煩悩熾盛”と仰せられていたのでございました。
真に、私の力でどうにも変えることのできない、燃え盛る煩悩の火をお念仏さまが、「お前の命でないよ、大法界、他力の活動の世界の命だよ、仏である他力の命を大切にしておくれ」と、仏様のお命の中に帰してくださるお念仏さま、私の口を割ってお出まし下さるお念仏さまはそういうお念仏さまでございます。
それで、先、先に出てきた事実を、何とかして変えようとしても微動だにしない所に、ふっとお念仏さまを憶い出させて頂くと、事実に抵抗していた力を抜いて頂くのか、ほっと、そのまま其処で息をつかせて頂くのでございます。
南無阿弥陀仏
「お念仏さまの中に」
(平成六年五月)
こんなお話を聞きました。 子供が先に死んで、孫の代になったので養老院へ行ってたおばあさんが危篤になったので知らせたら、「息を引き取ってから知らせて下さい。」と孫さんが言われたとか、真に切ないお話であります。でも、死んだら迎えに行きます、ということでしょうから有り難いお話とも思いました。
本当に年を取るほど、自分の身体を自分で持て余すようになればなる程、長生きも大変なことだとつくづく思われました。
生きてる事も辛く、死ぬ事も出来ない、その切なさを思います時、ふっと、お念仏さまがこぼれ出て下さって、正遠先生の
法界の なさしめ給うことなれば 定めのままに 南無阿弥陀仏
というお歌が偲い出されるのでございます。 全く、私個人の勝手都合で生きてるのでも、死ぬのでもなく、ここに私を生かしめて下さってる根源の大きなお他力のお働きがなければ、生きてもいられないし、自殺しようとしても死ねないことを明瞭にお教えて頂、信知させて頂いたのでございます。そこに初めて、ほっと息をつかせて貰ったのでございます。お出まし下さったお念仏さまが唯々もったいのうございます。
その上で何か少しでも出来る事があればさせて貰い、それによって喜びも、生き甲斐も感じさせて頂くのですが、然しそのことは決して私でなければならない事ではなく、かえって迷惑をおかけしてるのではないかと思い至ったら、一切の事は吹き飛び私が生きていること事態に言い様のない恐怖と、虚しさを覚えるのでございます。
そういう私の心の行き詰まりの中にお念仏さまはお出まし下さって、そのまま、大法界の命です。と機法一体の世界へ摂め取って下さるお念仏のご廻向に遇わせて下さり、その一事を念々に深めて下さるお教えをこよなく有り難く思うのでございます。
本当にお念仏さまのお恵みなくては大変でした。お陰様で、今日のひと日をお念仏さまの中に過ごさせて頂いております。
南無阿弥陀仏
「Sさんのお陰で頂いたご縁」
(平成六年七月)
先日あるお方を病院へお訪ね致しました。そのお方は、初めての、お子さまを四ヶ月で死産なさり、そのあとお子様はおできにならないで、定年退職なさったご主人とお二人暮らしだそうです。七年前に乳癌を手術なさって、今少し体調を崩して入院なさってるお方です。それまではよくご法話の会へ行かれたそうで、其処で私の法友Sさんともお知り合いになられたとのことでした。
そのお方がおっしゃるのには、今までご聴聞なさって、「お念仏を唱えておれば、仏智を頂いてどんな事でも引き受けられる身になる」と教えられ、そうなりたい、そうなろうと、一生懸命でしたけれども、思いがけない病気が出て、引き受けるどころでなく、苦悩一杯でそのどうしようもなかった時に私のテレビをご覧になり、それがご縁となって、正遠先生のご著書や、私の本をSさんが持っていってあげられたのを貪るようにお読みになったそうです。
そのようなことから、近く退院出来そうだから是非私に会いに行きたいとおっしゃってる、とお聞きしました。退院なさってもすぐにお越しなさるのはご無理と思いましたので、Sさんのご案内で病院へお目にかかりに行きました。とっても喜んで下さって、「テレビの話で一番嬉しかったのは、悪くても先に出てるでしょう、訳はこちらにはなかったのです。私を此処に押し出して下さってる方に訳はおありになるのでしょう。と言って下さったことです。病気をして、そのお言葉が本当にそうだった、と有り難くすっと頂けました。」 と、お話しして下さいました。私も嬉しくお礼申し上げ、”唯々なむあみだ仏さまでございますね”とご一緒にお念仏を称えさせて頂き再会を念じて帰りました。その後間もなくして退院なさったそうです。
Sさんのお陰様で又新たにお念仏のお方にお会いし、一切お他力の世界であることを深めて頂いた尊いご縁を有り難く、”なむあみだ仏”と合掌させて頂いております。
南無阿弥陀仏
「お他力の中へ死なしめられる」
(平成六年八月)
毎週日曜日のたびにお法友(ともだち)がお越しくださって、気楽に何でも話を出し合い、お念仏のお恵みを深く頂く会を致しています。
先日の会でMさんから次のようなお話が出ました。 「お念仏は、私を死なしめてくださるのです。と聞いているのですが、どう死なしめられるのでしょうか...、私は、何でも私の思い通りにならない事に出会うと、お念仏を称えて”思い通りにならんぞ”と、教えられることが、死なしめられる、ということかと思うのですが、どうも死なしめられたような気がしないのです」と、おっしゃるのです。全く私も同じだったことが偲い出されました。ところが、その思い通りにならないという裏側は、私にはどうすることもできない、私には何の手だてもないと言う証しで、その私の無力で困ってる所にお念仏さまがお出まし下さっていたのです。 お念仏さまは、 「他力やぞ、一切他力やぞ」と、お他力の中へ個人の私を死なしめて下さっていたのでした。だから私はあったまま、なむあみだ仏でございました。それで困る程”なむあみだ仏”思い通りにならない程”なむあみだ仏”と、お念仏さまはお迎えにおいで下さって、お他力のお命の中へ”帰命”させて下さっていたのでございました。 お他力のお命の中から生まれでて、お他力のご用を、私の考えてる善悪浄穢に関係なくお与え下さって、そのご用終わったら何時でも、どの様な姿ででも、お他力の方でお引きとり下さるのだと信知させて頂きました。日々の生活はそのことを、身体に、現実にお教え下さり、周り中の出来事は、私にお念仏を称えさせて下さるご縁となって、一切お他力であることをいよいよ深め、顕らかにして下さって、真に有り難い極みでございます。
そういう大切なことをお教え頂き、そういう尊いお恵みあるお念仏さまに遇わせて下さったのは、石川県の、藤原正遠先生です。九月二日は、四十四年前初めて先生にご縁頂いた記念日です。
「如来大悲の恩徳は.....師主知識の恩徳も.....」
と、心からご讃嘆申させて頂きます。
南無阿弥陀仏
「人世は苦なり」
(平成六年九月)
先日、著名なご講師のご法話を聴聞させて頂きました。そのご法話のなかで、「お釈迦様が”人世は苦なり”とおっしゃったのは、”人世は苦しい事ばっかりだ”とおっしゃったのではありません、”私の思うようにはならない”とおっしゃったのです。」と、お教え下さいまして大変有り難く心に深く頂きました。そして色々と考えさせて頂きました。 一体何故私の思うようにならないのでしょうか、でも思うようになった時もあったようです。それは私の苦悩にならないから問題にならずほぉって置いてよかったのでした、又ほぉって来ました。然し、私の思うようにならないなんてとんでもない理不尽なことで、思うようにならなければならない程、何とかしよう、何とかしなければと、私中心で一生懸命だったことが偲われます。そのような私に、お釈迦様の仰せが聞こえるはずはありませんでした。
その私中心の方向しか知らなかった私は、いよいよ思うようにならないことに頭を突っ込み、にっちもさっちもならない苦悩一杯の時、不思議なご縁で、恩師に遇わしめて頂き、その思うようにならない事を接点にして、お念仏を称えさせて下さったのです。 口を割ってお出まし下さるお念仏さまのご廻向に依って、聞こえるはずのなかったお釈迦様の仰せ、「人世はお前個人のものではない。大法界のお命の活動です。それでお前の思うようにならないのです。大法界は永遠に狂いなく、無量寿・無量光にご活動なさってる、お他力の世界です。」とのお教えがとどいて下さったのでございます。私の思うようにならないことがあればある程、そのお教えが今有り難く信じられ、お念仏させて頂く念々でございます。
恩師に初めてご縁頂きました時、 「分からなかったらお念仏なさい、お念仏さまが一切お他力なることを教えてくださいます」と、おっしゃったことが、真に仰せの通りでございました。この度のご縁につきましても有り難く、憶念させていただきました。
南無阿弥陀仏
「お念仏は大きな海」
(平成六年十月)
罪悪をごま化しなく見つめなければいけない。見つめてゆくことが大切であり、仏法が早く頂けることになるのです”と、云われたのですがどういうことでしょうか....。
ご法話でしたので質問出来なかったのです。無常を見つめよと云われても今死ぬとは思えないし、煩悩罪悪と云われても、 遠方の法友から電話で
「あるご講師が、”自分の無常を見つめ、煩悩そりゃあ煩悩はいっぱいもっています、罪悪も生き物を食べなければ私が生きてゆけないのですから罪悪も一杯でしょうけれども、それは当たり前と云えば当たり前の事で、どうもピンとこないのです。どうしたらいいのでしょうか、どういう事でしょうか」と、尋ねられました。
その先生はどういうことを仰せられてるのか私には分かりませんのでその先生にお尋ねになられることが一番よろしいことでございましょう。然し、私も聞きました以上考えさせてもらいました。
先ず思われましたことは、法友の云われる通り自分の無常、罪悪煩悩を突き詰めて考えられないということです。もし考えておればこんなにのん気にはして居られないのではないでしょうか、これは私が鈍感なのかもしれませんが。
新聞の三面記事は、無常と、罪悪煩悩からの出来事が書かれているのに、あれは人事で、自分の事にはならないのです。それなら何時でも満足し、安心してるかといえばそうではなく、一寸した事でも事が発ると気になって煩悩は燃え上がり、始末がつかなくなるのですが、又時を過ぎれば忘れてしまうこともあるのです。でも心の底から安心してはいないのです。そういうことをご講師は、「ごま化しなく見つめよ」と、教えて下さったのかも知れません。
私の恩師は、「気になることが一寸でもあったらその時すぐ、お念仏なさい、お念仏は大きな海のようなものです。何でも受け入れてくださいます」と教えてくださったことを大切に、ただただお念仏ましましたことを有り難く称えさせて頂きました。
南無阿弥陀仏
「ハワイの旅で」
(平成六年十一月)
ご住職様始め皆様のお陰様で、太平洋戦争全戦没者追悼西本願寺ハワイ別院参拝へ連れて行って頂きました。
別院様は印度風なおみ堂で、荘厳なお内陣でした。ご宮殿の中にはすっくと阿弥陀仏がお立ち下さっていまして思わず合掌、お念仏致しました。ご輪番様を導師に、高らかに響くご住職様のお声、参会者一同お正信偈を誦和して、お焼香をさせて頂きました。 ご輪番様の歓迎のお言葉を頂いて、婦人会の方々の茶菓ご接待を頂きながら、二世の方の真珠湾攻撃の日のご体験を聞き、弾いて下さるウクレレに合わせ、皆さんと「お手てつないで」を合唱、「蛍の光」でお別れしました。
後で聞いたのですが、ハワイには、本派の別院様が二ヶ所、三十四のお寺様、外にお東のお寺様もあるそうです。遠く祖国を離れ、お念仏を称えつつ、異境の地に、しっかりと根をおろしてご活躍なさってることを尊く思いました。
その後、真珠湾攻撃で大きな煙突を海上に突き出して沈没してる戦艦”アリゾナ”の上に設立された記念館にお参りしました。記念館の中には天井までとどく大理石の碑に、戦艦と共に最期を遂げられた千余の方々のお名前が刻まれていまして、切なさに国境はなく、心痛く唯々”なむあみだ仏”でございました。ご住職様が、ご自坊からご奉持なさったご尊像と、別院様でおうけになられたお絵像をご安置して、同じく真珠湾で戦死なさった同朋の方々のみ魂よ、このご本尊様にいだかれ給え、み名称えつつ共に日本へ帰りましょう。と念じつつご一緒に『讃仏偈』を拜誦いたしました。
真珠湾は、太平洋に続きその広大さ、遥かに望む水平線、青々と瑠璃に光る大海は清濁を皆受け入れ澄み切っていました。
名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の萬川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり
ご和讃を有り難くいただきました。 ホノルルの夜は烈しい雨が降ることが多いそうでその通り、朝はからりと晴れて虹が懸かって清しく、偲い出多いハワイの旅でございました。
南無阿弥陀仏
「迷って来たという心が迷い」
(平成六年十二月)
先日或ご法座で次のようなお話が出ました。 「私たちは先祖以来迷い迷って来たので今ご仏縁に遇い、聴聞して迷いの根を切って貰わなければ」と仰言ったのです。
先生はすかさず、 「今日までちっとも迷って来たのではありません。迷ってる、という心が迷いです。
如来様お与えのたった一つの真実の道を歩いて来てる、ということを知らしめて貰うことが教えです。比較できない私だけに与わった最善の道を来た、ということを教えて頂くことが信です。迷うてるという心が迷いです。」と、きちっとお教え頂き本当に有り難く合掌お念仏させて頂きました。
若い頃私も「ずっと以前から迷って此処まで来てるのです。今頭も耳も確かなうちに聴聞を重ねて、その迷いの根を断ち切らねばなりません」と聞いたことを思い出しつつそのお話をお聞きしました。
確かに頭も身体もしっかりしてるうちに心の底から安心出来るみ教えを頂くことが一番大切なことでした。然しそれには、如来様お与えのたった一つの真実の道を歩いて来ている。人と比較出来ない私だけに与わった最善の道を歩いて来ている、今も現に日々念々歩かせて貰っている、ということをどうして信知させて貰うかということが問題でした。
私は私の乏しい常識分別で何とかすれば何とか成るようにばかり思っているので、如来様お与えのたった一つの真実の道を歩いて来ている、ということがどうしても理解出来ませんでした。ただ次々に出て来る事柄を何とかしようと一生懸命でした。然し、何とかしようとすればする程、何ともならない事があることに気がついたのです。その時、 「何ともならない事が一つでもあったら其処でお念仏を称えさせて貰いなさい、お念仏を称えさせて貰うことが宝です。」
と、かねて教えて下さってた先生のお声がとどいたのです。その時から称えさせて頂いたお念仏が、今お与えの日々であったことを信知させて下さいました。
南無阿弥陀仏
「異安心だと云われましても」
(平成七年二月)
先日或お方から、 「あなたの話は逃避になっている。一切が大法界のご活動と、自分の宿業まで大法界に、仏様に押し付けている、それは逃避です。自分の宿業まで仏様のせいにして逃げている、其処には受けて立つということがない。自分で引き受けて立たなければいけない。其の宿業の重さ、辛さに泣くところに大悲のお念仏があるのです。そして一歩一歩立ち上がって浄土への道を歩かせて頂くのです。あなたの話には救いが無い、立ち上がって浄土への道を歩かせて頂く所が無い。又あなたは異安心だと陰で云われていますよ」とご指摘頂きました。私はお教え有り難く、改めて考えてみました。
何時も申しますように私は身障者です。この身体から暫くでも逃避できるなら逃げ出したい一杯で色々やってみましたが立たない足はどうしても立ちませんでした。其処でせめて心だけでもと、好きな手芸や、川柳をしたこともございましたが心の底からの安らぎはありませんでした。それでもまだ夢や希望を持っていました。そのような時カリエスに罹り私の想いも何も彼も吹き飛んでしまったのです。立ち上がる力等微塵もありません。そのどうにもならない時、お念仏を称えることを教えて頂きました。そのお念仏から、 「一切の訳は大法界の方にあるのです。あなたは嫌だろうが、その身体があなたに与えられたたった一つの身体です。そのままが今仏様お与えの場所であり、息をつかせて貰っていることがお与えのご用をさせて頂いている日々です。切なかったら、辛かったら”なむあみだ仏”と称えながらお与えのご用を果たさせて貰いなさい。」と、教えて頂いたのです。息が出てるということは、私がどう思おうとも、お与えのお命だったのです。本当に不思議なことでございます。
お前のは「異安心だ」と云われましても、「救いが無い」と云われましても、”只々なむあみだ仏”私の方には救いが無い程、受けて立てない程”なむあみだ仏”とお念仏の中に過ごさせて頂いて私には勿体ない極みでございます。
南無阿弥陀仏
「先に出てる」
(平成七年三月)
あるお方から、「あなたがおっしゃる”わるうても先に出てるでしょう”と、云われることが理解できません」と、お便り頂きまして大変有り難く、今日までのことを振り返って考えさせて貰いました。
四十五年前、小児マヒの不具な身体の上に脊椎カリエスに罹り、事実が私に都合悪くても、私の分別意識以前に、先々に出て来て始末がつかなくなって困り果てたのです。 勿論私なりに出て来る事柄を努力して私に都合の善い様にして来たと思っていた時代もありました。それで問題なかった時はそれで良かったのです。 でも問題になって来たのは、次々に出て来る事柄が私の思いに反し、又努力しても私の力や分別で何ともならなくなった所に問題となり、苦悩となったのです。 其処は、私という者が全く用をなさない地獄の真っただ中でした。而も、地獄絵の通り青鬼、赤鬼が容赦なく責めたてるように、罪悪に責められ、煩悩は火と燃えるのです。その地獄の底でのた打ち廻っている時初めてお念仏となって、
「悪うても先に出てるでしょう、あなたの都合で活動してる世界ではありません、他力の世界です。訳はあなたに解らなくても脈々と大法界、他力の世界は無量寿・無量光に活動している世界です。解らなくてもそうなのです。お他力です。」
との仰せがとどいて下さったのです。 決して私が解って、解ったのではありません。私の分別意識も、常識も間に合わない、全く地獄のその下でお待ち受け下さって、お念仏となって、一切他力だとお引き取り下さったのです。今振り返るとそういうことでございました。
仏様を上の方に祭り上げて、私を助けて下さい、出て来た現実を、私の分別常識で考えている善いこと、幸せと入れ換えて下さいと、拝んでいた間は遠い仏様でした。私には全く何の解決も出来なくなった所にお念仏さまが口を割ってお出まし下さって、地獄の底までお迎えに来て下さったのです。ただただ”なむあみだ仏”でございます。
南無阿弥陀仏
「感謝」
(平成七年四月)
「生かされて生きて居る、感謝しなければいけない」と、よく云われますが、厄介者で生きていなければならない、いらん者で生きていなければならない、自分で自分を持て余し、死にたくても生きていなければならない時もあるのではないでしょうか。
何か出来る人は生きていることに感謝出来るでしょう、私は厄介者で生きていなければならない者へのお救いが欲しかったのです。
ところがそんなお救いは見当たりませんでした。そういう生きて居ることの苦悩、死にたくても死ねない苦悩の真っ只中に
「どうにもならねば”なむあみだ仏”とお念仏なさい」 と、お念仏称えることを教えて頂きました。しかし、なかなかお念仏は称えられませんでした。でも、よくよくどうにもならず切なかった私の口からお念仏さまがこぼれ出て下さったのです。それからお念仏は称えられるようになったのですが、苦悩を取り除いてもらおうという思いで称えていました。現実はちっとも変わらないのです。
しかし、自分を持て余し、苦悩が深くなる程お念仏は口を割ってお出まし下さるのです、不思議でした。そしてそのお念仏さまが、
「お前個人の命でない、命の根元である大法界の方に訳はあって生かされているのです。個人の勝手都合で生きたり、死んだり出来るのではありません、根元の大法界の方でお引き取り下さらなければ自殺しようとしても死ねないのです。」と、自分を持て余す程、苦悩する程、その仰せが私に明瞭になり信知させて頂いたのです。初めてほっと息をつかせて頂きました。
こぼれ出て下さるお念仏さまが勿体のうございます。今は只、頂いたお命を大切に、何か私に出来る事があればさせて頂きながら、ひと日一日過ごさせて貰っております。 恩師のお歌に
空念仏 まことに結構 いつの日か 空は棄たりて 真は残る
とございます。”なむあみだ仏”お念仏さまがお出まし下さることを只々感謝致しております。
南無阿弥陀仏
「流転の根」
(平成七年五月)
IさんはNHKテレビ「こころの時代」での金光先生と、私の対談記録を何度も読み返して下さってるそうです。
「”あなたは足が立ったら生きられないのだ”と、先生から云われたとありますが、どういうことですか」と、お電話頂きました。
あれは四十年前の話でその時私は、とんでもない、足が立ったらよりよく生きます。と反発しました。すると先生は、
「解らないならお念仏なさい」とおっしゃったのです。 でも私は、何とかして病気を克服しよう、此の嫌な現実を私の願い通り入れ換えようとしていたので先生の仰せは解りませんでした。先生は、私の思い以前に先に出ている現実は動かすことの出来ない真実であり、他力の世界のご活動であることをお教え下さっていたのです。少しでも私の願いが叶ってる時は良かったのですが、思いもしない事に出合い、其の場から逃げたい、何とか今を変えよう、として二重に苦悩していたのです。その手を切って下さるのがお念仏さまだったのです。でも其の時はその様なことは解りませんで、ただ嫌な現実から逃げ出したい、何とか私の願いを叶えようと、私が中心だったのです。それで先生が「足が立ったら生きられないのだ、それが解らないならお念仏なさい、お念仏さまが教えて下さいます。」
と、おっしゃったのだと、今にして思います。 あれから四十年、今も色々の事を入れ換え、私の願い通りにしたいと一生懸命です。ただ異うことは、其の何れの時にも”南無阿弥陀仏”と、お念仏さまの中で、お他力さまが中心になっていてくださることです。それで私の願い通りに成ったと思う時があり、成らない時があり、そのいずれもが、大法界、お他力さまのご活動のままそのままでございます。真に、そのままのお救いでございました。 立たない足が私の願いや、力で立ったら何処迄も私の願いを振り立てて行かなければならなかったでしょう。其処には流転の迷いしか出て来なかったでしょう。その流転の根を切って下さったのが「お念仏なさい」とのみ教えだったのでございました。
南無阿弥陀仏
「ひかり子供会 正力賞受賞」
(平成七年六月)
この度「光源寺ひかり子供会」が正力松太郎賞を受賞されまして、真におめでとうございます。
ご住職様が龍谷大学へ入学なさった時、 「子供を育てる、これがお寺のすべてだよ。少年教化をやらないお寺はお寺でない」と、教えられた恩師、山崎昭見先生のご推薦だったそうで一入のお慶びと心から御祝い申し上げます。
この賞は今は亡き正力松太郎読売新聞社社主の提唱で仏教教団六十四宗派が賛同なさって設立された権威ある賞で、仏教精神に基づく青少年の強化育成活動に業績のあられた個人や、団体に贈られるものだそうです。 「光源寺ひかり子供会」は、お父様、越中聞信前ご住職様が始められ、お兄様越中哲也先生、ご住職様と受け継がれて九十年になるそうです。同朋大学学長池田勇諦先生が「本物は続きます。続けていると本物になります。」とおっしゃいましたがその通りでございますね。
ご住職様も子供会の中で大きくなられ、その頃共に育たれた方々が今は子供会OBとなって光源寺様で何か事があると、万障繰り合わせて集まり、ご住職様を支え嬉々としてお手伝いなさるのです。九十年のうち四十年間護り育てられた「光源寺ひかり子供会」兼ねてご住職様のお言葉の端々に子供会に対するお考えの大きさ、大事になさるお気持ちをお偲びしてはおりましたが、その歴史の重みが改めてずっしりと感じられました。
子供は大きくなり巣立ってゆき、次の子供が入ってきて子供会は常に新しく継けてこられたのだと思いました。
仏さまの眼差しの中で、ふだん着のままで思いっきり遊ぶ子供会、その中で掌を合わせることの大切さ、尊さを教え、実感させて下さってる子供会、今は長崎を離れていられるOBの方が、
「何か事があると、あの子供会で、仏様の前で掌を合わせたことを想い出す」と、云われる大切な子供会、どうぞ今後共にお続け下さることを願い念じまして御祝いの言葉とさせて頂きます。
南無阿弥陀仏
「錯覚」
(平成七年七月)
先日あるお方からお手紙を頂きました。そのお方のお孫様が障害児で養護学校の小学三年生だそうです。
「何とかならないかとあれこれ色々やりましたがなんともなりません、壁にぶつかった感じです。この壁はビクリともしません。今迄は何とか成ってきましたがこればかりはどうにもなりませんでした」と、あるのです。
それを拝見してすぐ想い出しましたことは、 「どうか成るのではありません、どうも成らないからなむあみだ仏です」との恩師のお教えです。
そしてお手紙の中にある、 「今迄は何とか成ってきましたがこればかりは、ビクリともしません」との仰せが私の心に残りました。
「こればかり」だったのでしょうか?。私も私の力で何とかしなければならない、何とかすれば何とか成るはずだ、今迄そうして来た。何とか成ってきた、と思っていました。 ところがそれが大きな錯覚であり、迷いだったのです。
今迄私をたて、私が中心になってきたことも如来様のみ運びであり、お他力の世界でそうする力と、智恵のお与えを頂いてそうして来たのではないでしょうか。背景は一切如来様のお力であり、お智慧であり、ご活動、唯々お他力様だったのでございました。その証拠は、私の今日迄の事を振り返ってみますと、成るだけの事は成っても、成らない事はどんな小さな事でも微動だにしなかったのです。
また、親鸞聖人様は、 「祈らない、祈祷しない」と云われた、とよく聞きますが、今日生活をして生きているということは、私は祈りと願いの日々でございます。其の時、其の時、私の都合で晴れを願い、雨を祈り、あゝしよう、こうしたいと。それが思い通りに成った時、私がして来たかのように錯覚して、次々にまた願いを叶えようとして私を振り立てなお迷ってる私に、親鸞聖人様は、
「祈って成ったのではない、祈っても、祈祷しても成らないことは成らないよ、一切お他力の世界、み運びのままだよ」と、一切大法界のご活動の世界の中の出来事とお教え下さっていたのだと有り難く頂いています。
南無阿弥陀仏
「自由意思と他力」
(平成七年)
「自由意思と、他力」についてどう思いますか。と問題を頂きました。
先日遠方から来てくださった法友のお手紙を引用させて貰って、お返事書きました。
「長崎の宿で、ふっと私の中でお念仏がより近づいたような、私の中の念仏の樹が少し太くなり枝をつけ、新芽をふいたようで、念仏の道がより広がった気分でしたが、その後、あっそうじゃなかった、私の念仏と思っていたけどその下に親様がいてくださったのだと、気付いたら胸がすっとしました。ただ、まだ話を聞いてる時は、とても安らかな気持ちにさせてもらいますが、一歩家から出ると自力いっぱいでやっている私がいます。今はおおいに自力でやらせてもらうしかないと思っています。真似でいいからそこは、”南無阿弥陀仏”で通らせてもらうしかないです」とのお便りです。お返事に
安らかな気持ちの時も、一歩家から出ると自力一杯でやっている私のその下に、何時でも親様がいてくださるのですね。大いに自力一杯でやらせて貰っているまんまがお他力のご活動だったのでございますね。お与えの分別意識を振り立てて、若い元気を振り立てて、お与えのお仕事にご活躍なさってくださいませ。と書きました。
正遠先生が仰せられます。「上に”仏さまの”を付けなさい」と、
”仏さまの自由意思”どんな事の上にもお働きくださっているお他力。自由意思も背景は仏さまのお他力でございますね、私にはそう思えなくてもそうだったのですね。
一寸理屈っぽくなりますが「機法一体」の「機」に機械の「機」が遣ってあるのが不審でした。 ある時、何かの事で辞書を繰っていてフット「機」の字に眼が止まり、その読み方の中に「はずむ」とあったのです。驚きました。機械だけでは何にもならずかえって邪魔ですが、其処に他のお力が加わるとはずみ、お与えのお仕事をさせて頂けるのでございますね。真に有り難いことでございます。
「機法一体」「”仏さまの”を付けなさい」と、お教えくださった通りでございました。「自由意思即他力」「あくび一つ、涙一滴自由に出ないよ」との先生のお声が聞こえます。
南無阿弥陀仏
「生の苦」
(平成七年)
”生老病死”四苦の始めが、生の苦になっているのが疑問でした。 ところが、総ての苦の始まりは、私が生まれた。と思ったことからだと教えて貰いました。私が生まれたから、私が老人になり、私が病気をし、私が死の恐怖におびえていたのです。私の生から、私の老病死、四苦八苦が始まっていたのでございます。
然し、私は現在ここに生まれ、生きているのです。消えて無くならないのですから出てくる老病死を止めることが出来ないで困っていたのです。その困り果て、苦悩している私に、「どうにもならねば”なむあみだ仏”と、お念仏なさい」と、恩師はお念仏称えることをお勧めくださったのです。でも私はお念仏が出ませんでした。すると今度は「お念仏する稽古をしよう」と五十遍お念仏を称えさせてくださったのです。それがどういう事になるのか、私には分かりませんでしたが困る事があると、何時の間にか”なむあみだ仏”とお念仏さまが私の口を割ってお出ましくださったのです。
其の時、其の時、出てるままが真実であり、個人で動かし換える事の出来ない、仏の命であり、仏の活動であると、一切他力の世界へ転じ、摂め取ってくださったのでございます。私物するものは全く無かったのです。
”なむあみだ仏”お念仏さまが「一切個人の自由の世界でない、他力なり」と、転じてくださるのです。私が生きているままお他力のお命であり、お他力のご活動だったのでございました。私が生まれて、私が生まれていなかったのでございました。
無生の生、無老の老、無病の病、無死の死、機法一体と仰せられているはずでございました。一切は仏さまのご活動だったのでございました。私するものは、毛筋一本、心の動き一つもなかったのでございました。 無量寿・無量光の中の一念一息、ただただ”なむあみだ仏”有り難うございました。
南無阿弥陀仏
「お救い」
(平成七年)
たのめとは 助かる縁のなき身ぞと 教えて救う弥陀のよび声 というお歌がございます。私は、「助かる縁のなき身」ということと、「救う」の内容が解りませんでした。私が考えていたものと違っていたのです。 救いとは、常識的に上へ、上へとあがってゆく救い、救い上げて貰うものと思っていました。ところが、仏法のお救いは、お念仏の世界のお救いは、仏さまのお手の中から迷い出て、大分高上がりして困っているので、一段一段おろして、仏さまのお手の中まで帰してくださるお救いだったのです。
私はそのようなことは解らず、今のこの場が嫌いで、この場を私は好きな気にいるようにしよう、私の力で出来ないなら、神・仏様にお願いして私の都合のよい場と入れ換えて貰おう、この場から救い上げて貰おう、そうすると楽になるかのように思っていました。それがお救いだと思っていたのです。
ところが、上がると又落ちる、一つ解決ついても又他の苦悩が出て全く始末がつかないのです。それを「助かる縁のなき身」と仰せられていたのでございました。
散る桜 残る桜も 散る桜
自分だけでは散りたくない、恐い、としがみ着いてるその地獄の下から、「残る桜も散る桜やぞ、助かる縁は無いよ、個人の自由は無いよ、”なむあみだ仏”と親の名をよびなさい」と、親様は地獄の下にお待ちくださって喚んでいられたのでございました。勿体ないことでございます。
それを上に向かって索していたのでおよび声に遭えなかったのでございます。
”なむあみだ仏”お念仏称えさせて貰ったことが、私の助かる縁がなかったことを教えて頂いた証拠であり、阿弥陀仏のおよび声がとどいてくださったことだったのです。個人の救い、私の勝手気ままに救われる所が全く無くなったら、一切大法界、お他力のお働きが脈々と、無量寿・無量光に止まることなくご活動くださっていたのでございました。正遠先生は、
咲いて散り 咲いて散りつつ無量寿の ここはまことに寂光土かな
と、ご讃嘆なさっていられます。
南無阿弥陀仏
「真実になればいいんだろう」
(平成七年)
もう三十年も前のことですが、正遠先生をお迎えして、長崎正遠会のご法話を頂いた後何人かでお喋りしていました。その時私が云ったことは忘れたのですが、先生がお立ちになりながら、「真実になればいいんだろう」と、おっしゃったのです。その時私は、そんな簡単におっしゃっても真実になれるものではない、と大いに心の中で反発しました。それだけにその仰せが心に深く焼き付いたのです。そうして事あるごとに「真実になればいいんだろう」と、いうお言葉が憶い出されるのです。それはどういう時かと云えば、”真実と嘘””善と悪”というように、事柄を二つ持っている時です。
あの人の云う事は、成す事は間違い、私が本当。又、あちらが本当で、私が異うのではないか。とか、何でも二つにしている所に迷いがあったことに気付かせて貰ったのです。それは、私の分別意識の世界でした。幾ら先方が善くても、悪くても、事実は微動だにしないのです。
又、私も自分に不満があっても、お与えはこれだけで、善くても、悪くても、これが唯一のお与えの身体であり、お与えの場だったのです。入れ換えられなかったのです。真実だったのです。私はその”真実”が解らなかったので、何とかすれば、何とかなるのではないか、何とかしなければならない、私の都合の善いように成されなければと、力んで苦悩していたのです。
然し、ご法語に、『無始以来、無終まで』と、仰せられている通り、大法界、お他力のご活動は私が生まれる以前から、”無量寿・無量光”にご活動してくださっていたのです。私の分別意識、自力の世界を越えて、唯ただ真実が脈々と活動していたのでございました。その大法界の中に居て、それを知らず、外に真実の世界、お浄土を索し求めている私に、「お念仏を称えなさい、お念仏は大悲ですから、出なければ口を割ってお出ましくださって一切真実なることをお教えくださいます」と、先生にお教え頂きました。
今私は色々の事に行き暮れると、”南無阿彌陀佛”と、真実のお他力の世界へ帰して頂いて、「真実になればいいんだろう」とのお言葉を憶い出しては、「はい、そうでございます」と、お念仏称えさせて頂いています。
南無阿弥陀仏