闇をとおして 光はいよいよ光る
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![]() 法語法話 平成13年 |
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闇をとおして 光はいよいよ光る |
大悲を報ずる生き方は… |
善人と思っていることが… |
「生き物」すべて 平等である |
めぐりあいのふしぎに… |
如来を信ぜずしては… |
人間が人間らしく生きる… |
仏様というのは… |
悲しみの深さのなかに… |
深く生きる人生 それは… |
他力は退却ではない進む力を… |
仏法に明日ということはない… |
生きているということ… |
梅原 真隆(うめはら しんりゅう)
1885年、富山県生まれ
「真宗生活」親鸞に出遇った人々(3)(同朋舎)より
闇と光
「闇と光」について興味深い話を読んだことがあります。それはその本の著者が子どものころ、『少年倶楽部』か何かで読んだものらしいのですが、こういう話です。
何人かの人が漁船で海に釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。あわてて帰りかけたが、潮の流れが変わったのか、方角がわからなくなり、そのうち月も出ないため暗闇になってしまった。必死になって松明をかかげて方角を知ろうとするが、見当がつかない。そのうちに、一同のなかの知恵のある者が、灯を消せという。不思議に思いつつも気迫に押されて消してしまうと、あたりは真の闇である。しかし目がだんだんなれてくると、全くの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の街明かりがぼーっと見えてきた。そこで帰るべき方角がわかり、無事に帰ってきた、という話です。
この話を読んで、方角を知るために一般には自分の行く手を照らす灯を消してしまったのが、非常に印象的だったというのです。
私も実に示唆の深い話だと思いました。といいますのは、私のお寺にはさまざまな悩みを抱えた方が相談にいらっしゃいますが、必ずそれぞれにそれなりの灯をもってみえるからです。そしてほとんどの方が、「私もできるだけのことはしているんです」とおっしゃいながらも、どうしていいかわからず、おろおろしながらお寺にみえます。
阿弥陀さまの光
そんな方々に対し、ずばり明快な答えを出して差しあげることは、いくら期待されてもできません。というのは、具体的な悩みがあってきたはずのその人自身、何が本当の問題であるのか、何が不安なのか気づかないでいる場合がほとんどだからです。僧侶である私が「これが原因でしょう」と指摘するのではなく、本人が自分に向かい合い、絡み合った紐をほどくように、じっくりと問題に気づいていただくことが大切です。そのためには、目先の灯は消してもらったほうがよいのです。
しかし、ただでさえ不安にかられてきた人に、頼りにしているわずかな灯さえ消しましょうといえば、もっと不安になってしまうでしょう。その人が依りどころにしている灯は、学歴だったり、地位や財産、名誉や健康だったりします。それをいきなり「そんなものは当てになりませんよ」といっても、なかなか消せるものではありません。しかし、私はそうした不安を抱えた方々とともに悩みながら、励まし合いながら、「仏法」という灯、阿弥陀さまの光を依りどころにしていきましょう、と伝えていきたいと思っています。
目先の灯は、やがて油がつきれば消えてしまうでしょう。しかし仏智の灯は、消えることのない確かなものです。その確かな光に遇って、それぞれが自ら目先の灯が必要ないと気づいていくことが大切だと思います。
逸見 道郎(へんみ みちお) 神奈川・浄土寺住職
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。
出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。 |