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深く生きる人生 それは 目覚めて生きる人生

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Dharma wheel

法語法話 平成13年

闇をとおして 光はいよいよ光る
大悲を報ずる生き方は…
善人と思っていることが…
「生き物」すべて 平等である
めぐりあいのふしぎに…
如来を信ぜずしては…
人間が人間らしく生きる…
仏様というのは…
悲しみの深さのなかに…
深く生きる人生 それは…
他力は退却ではない進む力を…
仏法に明日ということはない…
生きているということ…

book:ポータル 法語法話2001

BOOK:ポータル 法語法話

松扉哲雄(しょうひてつお)
1919年、石川県生まれ
「自信に目覚めん-『愚禿悲歎述懐』和讃に聞く-」(樹心社)より


 ブッダ(仏陀)というインドの言葉を中国の仏典翻訳僧(三蔵法師といいます)は、「覚者」と訳しました。「目覚めたる人」という意味をそこに顕したのです。仏陀釈尊はそのとおり、菩提樹のもとで「因縁の法」を悟られた、目覚められたのです。

 ですから、仏教と名のる以上、「目覚める」ことがなければ、仏教の名に値しないのです。真宗も「本願念仏の仏道」と掲げる以上、目覚めることが求められます。

 ここで疑問が起こります。「真宗では、私は末法を生きる凡夫と教えられる。道理が見えず、修行をして悟ることもできず、毎日の生活をただ暗雲に歩んでいるのが凡夫である。その凡夫の私が目覚めることなどあるのだろうか」という問いです。

 私は、石川県加賀地方の山里の寺の住職です。白山麓の村々では、今でも「お講」「報恩講お座」等の法座が多く持たれています。縁をいただき、二十年ほど法話をさせていただいていますが、逆に私が多くの先達の方々から学ばせていただいたのです。

 「何回聞いても、はつごと、はつごと」とある老婆は深くうなずいていました。また、「煩悩はダメなものでない。〝煩悩様〟やぞ」と、ある老人は教えて下さいました。これらは、長い間の仏法聴聞による、目覚めの言葉です。しかも「私は凡夫です」という目覚めの表現です。

 常に今の私に出遇い続けていく聞法の姿勢が、「はつごと(初事)」という言葉です。私の一生は、私に出遇い続けていく歩みです。

 ある縁によって、今まで私が気づきもしなかったものが、そこに顕れている私の姿を見い出した。新しい私の発見の言葉、思いもよらない私がそこに見い出されたことを「煩悩様」と言って表現されているのです。

 一方で、「凡夫」という言葉は、耳に慣れすぎたのか、「そんなこと言われても凡夫だから…」というように、言い訳にして使っています。なぜそうなっているのでしょうか。

 私は「凡夫」という言葉をしていますが、私の「凡夫」という生き方、「凡夫」という者の考え方を、一つ一つ確かめるという作業が欠けてしまっているのです。

 人はいつのころからか、自分や周りの人びとを「自分はこんな者だ」「あの人はあんな人だ」と決めています。おそらく枠に入れたほうが、他の人と関係を持つうえで楽なのでしょう。しかし、人間はそんな単純なものではありませんから、当然、枠からはみ出ることが起こってきます。そのとき、私は「あんな人とは思わなかった」と愚痴を言います。人間を枠に入れていた自分の愚かさに気づかないのです。枠から出たことが、新しい自分の発見であり、人を枠に入れていた自分の目覚めであるのに気づかない。

 「念仏」は、その頑迷さを破る仏のはたらきです。私が「凡夫」と目覚ましめられ、私の「凡夫」を確かめ続けていく。この歩みが、私の「念仏の仏道」です。それ故、私の周りの山里の人びととの出遇いが、いよいよ大切なご縁として、私が田舎の住職として一生歩んでいける広大な場を与えてくださっているのです。

平崎 実(ひらさき みのる) 石川・浄養寺

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。