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「生き物」すべて 平等である

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成13年

闇をとおして 光はいよいよ光る
大悲を報ずる生き方は…
善人と思っていることが…
「生き物」すべて 平等である
めぐりあいのふしぎに…
如来を信ぜずしては…
人間が人間らしく生きる…
仏様というのは…
悲しみの深さのなかに…
深く生きる人生 それは…
他力は退却ではない進む力を…
仏法に明日ということはない…
生きているということ…

book:ポータル 法語法話2001

BOOK:ポータル 法語法話

武内 紹晃(たけうち しょうこう)
1920年、兵庫県生まれ
「宗報」平成2年5月号「巻頭言」(本願寺出版社)より


縁起的存在

 近年ではややもすると、平等という言葉が、「平等の権利を有する」という意味に結びつけてイメージされがちです。しかし仏教における平等、それは「縁起」という仏教の基本的な考え方によるものです。

 つまり、「これあるがゆえに、かれあり。これなきゆえに、かれなし」といわれるように、「相い依り、相まって成立している」ものの在り方をいいます。自分自身を含めすべての「いのち」は、それぞれ独立して存在しているようですが、互いに関係し合い、あらゆる条件(縁)が結びついてはじめて存在しえています。何か一つのいのち、あるいは何か一つの条件(縁)がなければ、同じような有り様をしてはいないのです。

 私たち人間だけでなく、あらゆる「いきもの」は他のいのちをいただいて、他のいのちの犠牲の上に今あるのです。そしてそれぞれのいのちには必ず死がおとずれます。そのたくさんのいのちの誕生と、死にいたるまでの絡み合いの悠久の昔からの歴史が、今に至って個々に形あるいのちとしてあるのです。そのことをして仏教では、あらゆるいのちは「縁起的存在」であるといいます。

 あらゆるいのち(衆生)は、その存在において平等であり、それぞれが代わることのできないかけがえのない尊いいのちをいただいているのです。ですから、仏教の基本的な考え方からいえば、ことさらに「すべてのいのちは平等である」という必要はないともいえます。しかし実際には、等しく尊いはずのいのちが踏みにじられ、侮られているのが現実です。

すべてのいのちを拝む

 現代社会に生きる私たちの苦悩を堀りさげてみていきますと、市場の価値基準に私たち自身が翻弄され、不安をかきたてられているところがあるように思われます。たとえば、外見がきれいでなければ人に好かれないとか、いい学校に受からなければ人生の敗北者であるとか、健康でなければ、あるいはお金持ちでなければだめだという見方です。このような人生観、価値観がものに対する執着や私物化を生み、同時に人に対する差別意識を生みだしています。

 そうした現実の課題を見ていきますと、それぞれのいのちをそのままに尊いと見ていくことのできない私たちにおいては、個々の事象において「いのちの平等性」であるとか「人権」ということを、意識的にあげて気づいていくことが大切になってくるのです。

 仏教におけるいのちの尊さは、科学の英知によって説明されるものではなく、人間の理解(我執)を超えた大いなる仏のはたらきを感応していくことで味わうことができるのです。そしてそれは、他のすべてのいのちそのままを拝むことであり、念仏として私たちにとどけられている仏さまのはたらきを喜ぶことであります。

逸見 道郎(へんみ みちお) 神奈川・浄土寺住職

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 出典と掲載許可表示(真宗教団連合のHP)から転載しました。