仏の光明は全世界を照らし、さまたげるものは何一つない
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![]() 法語法話 平成19年 |
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仏心というは、大慈悲これなり |
仏の光にあうと、煩悩の… |
仏たちはみな殊にすぐれた… |
仏の光明は全世界を照らし… |
阿弥陀仏、此を去ること遠からず |
如来の智慧の海は、広く底がない |
仏の光明は遍く世界を照ら… |
仏は濁れる世に… |
信は悟りのもとであり… |
如来は限りない大悲をもって… |
仏は教えを説いて人々を救い… |
もし法を聞けば、つとめて求めよ |
人はともに敬い親しみ… |
出典: 仏説阿弥陀経
現在ではもう存在しませんが、かつて私が学生であったころ、大阪環状線の森ノ宮という駅のすぐそばに日生森ノ宮球場という野球場がありました。ここは大阪のあるプロ野球の球団の本拠地で、よく試合が行われていました。夏には当然ナイター試合があり、まだ黄昏どきから球場のあの大きな照明装置が点灯されます。黄昏どきですから太陽はすでに西の空に沈んでそのすがたを消し、空に残るのは余光だけです。ところが、ナイター用のあの強烈な照明もその余光の中ではまことに弱々しい光にしかならないのです。太陽の余光も消えて事実上の夜になれば、その照明は煌々と輝くのですが、たとえ余光にすぎなくても、それが残っている間はまるで電池の切れる寸前の懐中電灯程度にしか感じられなかったものでした。けれども、その頃はそれについて深く考えることはありませんでした。
仏教を学び始めてから、仏さまの徳が光であらわされることを知るにつけ、あの球場の照明が思い出されたものです。例えば、いつもお勤めする
「讃仏偈」の、
日月・摩尼 珠光 焔耀
皆悉隠蔽 猶若聚墨
(『浄土真宗聖典(註釈版)』11頁)
は、仏さまの光明に較べると、太陽や月や宝石から出る光でさえ、まるで墨のようなものだ、という意味です。その余光をもってさえも野球場のあの強烈な照明をくらませてしまうほどの太陽の光も、仏さまの光とはとうてい較べものにならないということでしょう。
今月の言葉は『阿弥陀経』のご文にもとづいたもので、阿弥陀さまの光明はなにものにも妨げられることなく、いたるところに届くということですが、それはとりもなおさずこの私にも届いているということです。『大無量寿経』に阿弥陀さまの徳を十二の光であらわし、親鸞聖人がそれを「正信偈」に讃歎しておられますが、十二の光の中でもとりわけて中心にすえられたのは、このなにものにも妨げられることがない光、つまり無碍光なのです。この無碍光こそは阿弥陀さまのはたらきの本質であると申せましょう。
それでは、なにものにもさえぎられることがないとはどういうことでしょうか。それは外的な障害物に妨げられないという意味を超えて、なによりもこの私の煩悩に妨げられることがないという意味でなければなりません。それは煩悩を捨てない限りこの私には光は届かないというようなことではなく、そのままの私に阿弥陀さまのお慈悲の光が届いているということなのです。親鸞聖人は阿弥陀さまのお名号の中で「帰命尽十方無碍光如来」をもっとも好まれたようですが、礼拝のたびに、お仏壇の右のお脇掛にこのお名号が用いられていることの意味をお考えになってください。
徳永道雄(とくなが・みちお) 1941年生まれ。 京都女子大学文学部教授、本願寺派宗学院講師、 浄土真宗教学伝道研究センター顧問、 本願寺派勧学、大阪府正福寺住職。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。