如来は限りない大悲をもって迷える者を哀れみたもう
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![]() 法語法話 平成19年 |
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仏心というは、大慈悲これなり |
仏の光にあうと、煩悩の… |
仏たちはみな殊にすぐれた… |
仏の光明は全世界を照らし… |
阿弥陀仏、此を去ること遠からず |
如来の智慧の海は、広く底がない |
仏の光明は遍く世界を照ら… |
仏は濁れる世に… |
信は悟りのもとであり… |
如来は限りない大悲をもって… |
仏は教えを説いて人々を救い… |
もし法を聞けば、つとめて求めよ |
人はともに敬い親しみ… |
出典: 仏説無量寿経
今月の言葉は、浄土真宗の根本の経典である『大無量寿経』がお釈迦さまによって説かれようとするまさにその場面において語られたものです。ある時、お釈迦さまが王舎城の耆闍崛山において、多くの重要な弟子たちや菩薩たちに向かって教えを説こうとされていましたが、そのおすがたが平生とは異なって、あまりにもおごそかで輝いて見えたので、阿難尊者がお釈迦さまにその理由を問うたのです。お釈迦さまはまず阿難がそれに気がついたことを誉めて、次いで人びとのためにほんとうの利益を与える教えを説こうとしているからであるといわれるのです。親鸞聖人はこの場面を『浄土和讃』で次のようにうたっておられます。
如来の光瑞希有にして
阿難はなはだこころよく
如是之義ととへりしに
出世の本意あらはせり
(『浄土真宗聖典(註釈版)』565頁)
お釈迦さまのおすがたがいつもよりもはるかにおごそかで輝いて見えたのは、「出世の本意」をあらわすためだったということが、このご和讃からうかがえます。「出世の本意」とは、ふつうは「出世の本懐」といわれているもので、お釈迦さまがこの世にお出ましになったのは、ひとえにこの教えを説くため、つまりこの『大無量寿経』を説くためであったというわけです。このようにお釈迦さま本来の願いが『大無量寿経』を説くことによって今まさに実現されようとしているゆえに、そのおすがたがいつもよりもはるかにおごそかで輝いて見えたというのでしょう。今月の言葉の中の「限りない大悲」に相当する言葉を『大無量寿経』で探してみますと、「無蓋の大悲」という言葉が用いられています。この「無蓋」とは文字どおり蓋のないという意味で、蓋で覆いつくすことができないほどの大悲だということです。この『大無量寿経』が説かれたのは、ひとえにこの「無蓋の大悲」すなわち限りない大悲によってなのです。
さて、親鸞聖人は『大無量寿経』は「真実の教」であるといわれています。そして、この経典のかなめは本願が説かれていること、またこの経典の本質は阿弥陀さまの名号にあるのだと述べておられますが、それは南無阿弥陀仏の名号ひとつで、煩悩まみれのこの私を救うという阿弥陀さまの本願が説かれているということなのです。親鸞聖人において「真実」とはただひとつ、この私のはからいがまじらないこと、つまり名号のはたらきひとつでお浄土への道が開かれているということでしょう。この真実の教えはひとえに先に述べたお釈迦さまの「無蓋の大悲」のなせるところであります。
徳永道雄(とくなが・みちお) 1941年生まれ。 京都女子大学文学部教授、本願寺派宗学院講師、 浄土真宗教学伝道研究センター顧問、 本願寺派勧学、大阪府正福寺住職。
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