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阿弥陀仏、此を去ること遠からず

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成19年

仏心というは、大慈悲これなり
仏の光にあうと、煩悩の…
仏たちはみな殊にすぐれた…
仏の光明は全世界を照らし…
阿弥陀仏、此を去ること遠からず
如来の智慧の海は、広く底がない
仏の光明は遍く世界を照ら…
仏は濁れる世に…
信は悟りのもとであり…
如来は限りない大悲をもって…
仏は教えを説いて人々を救い…
もし法を聞けば、つとめて求めよ
人はともに敬い親しみ…

book:ポータル 法語法話2007

出典: 観経


 日々の授業の中で、学生の一言に思わずはっとさせられることがあります。親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生涯を一通り学んで感想を書いてもらった時のこと。一人の学生が、こう感想を書き残していきました。「悩むことはすばらしい」と。

 なぜ「悩むことがすばらしい」のでしょうか。私たちは、できることなら生きる上で苦しみ悩みたくはありません。しかし、その学生は親鸞聖人の生涯から「悩むことの意味」を学んで「すばらしい」と表現したのでした。

 親鸞聖人の生涯と言えば、それは苦悩に満ちた一生であったと言っても過言ではありません。しかしその苦悩の中で、生きる意味を問い続け、確かなよりどころを得たのが親鸞聖人です。苦悩の現実から眼をそらさずに生きたことによって、親鸞聖人はかけがえのない教えに出遇(あ)っていくのです。

 「阿弥陀仏(あみだぶつ)、此(ここ)を去ること遠からず」。これは『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の中で、釈尊(しゃくそん)がマガダ国の王妃である韋提希(いだいけ)に対して語った言葉です。韋提希は、息子である阿闍世王子(あじゃせおうじ)によって王宮深くに幽閉(ゆうへい)されてしまいます。そして深い悲しみに沈む中から釈尊に救いを求めます。「憂い悩みのない世界に私は生まれていきたい」と。そんな韋提希に対して釈尊は、一言も語らず、ただ様々な諸仏の世界を見せるだけでした。物質で満たされた世界、一人静かに暮らせる世界、思い通りになる世界、…そこには様々な世界が現れました。しかし韋提希はそれらの世界を選ばず、ただひとつ「阿弥陀仏の世界」を求めます。この求めに対して微笑し、ようやく釈尊が口を開いて出た言葉が、「阿弥陀仏、此を去ること遠からず」でした。

 これは一体何を意味しているのでしょうか。

 阿弥陀仏とは、別名「無量光仏(むりょうこうぶつ)」「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)」ともよばれるように、「はかりしれない光」と「はかりしれない命」という意味を持った仏です。韋提希が阿弥陀仏の世界を求めたということは、自分の思いはからいを超えた無限の世界に眼を開かれたということです。それは視点を変えれば、韋提希に、はからって生きてきた自分自身の生き方そのものを問い直す眼まな差ざしが、芽生えたことを意味していると言えるでしょう。苦悩の原因を外に求め、自分の姿から目をそらしていた韋提希に、苦悩を生み出してきた自分自身を見つめる眼が生じたのです。釈尊は、その韋提希自身の目覚めを黙して待っていたのでした。そして韋提希自身が、仏の智慧(ちえ)によって、救われるべき自己に目覚めたからこそ、微笑みをもって「今のあなたと阿弥陀仏は遠くない」と語りかけるのでした。

 私たちは生きていく中で、様々な出来事に遭遇(そうぐう)し、悩みが絶えることはありません。しかし、人生に悩むことは、その一方でかけがえのない教えに出遇う契機(けいき)ともなりうるのです。経典(きょうてん)に記された韋提希の姿、苦難に満ちた親鸞の生涯は、まさにそのことを教えてくれています。学生が発した一言は、その大切な事実を私に教えてくれるものでした。

山田 恵文(やまだ・けいぶん) 1970年生まれ。京都市在住。 三重教区安正寺衆徒。大谷大学短期大学部助手。

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。