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仏の光明は遍く世界を照らし、念仏の人を救い捨てることがない

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法語法話 平成19年

仏心というは、大慈悲これなり
仏の光にあうと、煩悩の…
仏たちはみな殊にすぐれた…
仏の光明は全世界を照らし…
阿弥陀仏、此を去ること遠からず
如来の智慧の海は、広く底がない
仏の光明は遍く世界を照ら…
仏は濁れる世に…
信は悟りのもとであり…
如来は限りない大悲をもって…
仏は教えを説いて人々を救い…
もし法を聞けば、つとめて求めよ
人はともに敬い親しみ…

book:ポータル 法語法話2007

出典: 観経


 那覇拘置所(なはこうちしょ)に収監されているシュウさん(通称名)から初めて便りが届いたのはもう十年も前のことでしょうか。当時私は獄中の人たちと獄外の人をつなぐ小さな同人誌を作っていました。表紙を入れて十六ページ。三カ月に一度の発行で、部数はわずか百部。すべてが手作りでまるで小学校の学級新聞のような雑誌でしたが、情報や通信が大きく制限されている獄中の人達には評判が良く、口コミで読者の数は増えていました。シュウさんとの交流は大阪拘置所に収監中の読者の紹介で始まりました。

 「ハイサイ! くみえさん、読者の皆さん、お元気ですか」いつもこの書き出しで始まるシュウさんからの手紙。沖縄の陽気な風がさっと吹きわたるような朗(ほが)らかな文章が綴られていて、手紙が届く度に私の心も浮き立つようでした。そのまま雑誌の巻頭の挨拶文にかえて、獄中の読者への元気づけに使わせてもらったことも何度かあります。

 家の事情で学校へはほとんど行けず、やんちゃばかりしていたこと。いつの頃からか親分と呼ばれる人の元で世話になっていたこと。結婚して堅気(かたぎ)になり、奥さんと子どものために一生懸命働いたこと。平凡な生活に慣れたある日、親分が窮地(きゅうち)に立たされたと聞いて慌てて駆けつけ、そのまま事件に巻き込まれたこと。決して平坦(へいたん)ではない自分史を闊達(かったつ)に書き送ってくれたシュウさんでしたが、事件に関してはきっぱりと無実を主張していました。親分が弁護士をつけてくれたので必ず疑いは晴れると、私のほうが不安になるほど「無罪」を信じきっていましたが、判決は「無期懲役」でした。シュウさんの落胆ぶりが想像もつかぬまま安易な励ましの手紙を送ったような気がします。

 しばらくたって長い手紙が届きました。刑が確定し、親族でない私との交流が断たれる直前の手紙だったと思います。そこには子どもの頃から苦労を共にした兄さんが亡くなったと書かれてありました。兄さんもまた服役を経験しているので、獄につながれたシュウさんの身の上をずいぶん案じていたそうです。その兄さんをはじめ奥さんや身内の方々への詫び状でもあるような手紙でしたが、最後のほうだったでしょうか、思い余った様子でシュウさんのペンが走りました。

 「私の事件を担当した検察官と、弁護を引き受けてくれた弁護士と、被告人になっている私は偶然にも同じ年の生まれです。この世に同じ頃、同じ赤ん坊として誕生した三人のなかで、なぜ私がこの被告の役を担わなければならなかったのでしょうか」。

 それは身を切るような問いかけでした。冤罪(えんざい)をはらせぬ憤(いきどお)りと絶望からの叫び声でもありました。返す言葉が見つからぬまま、私は意味もなく自分の生い立ちを書き連ねて返事にかえたのですが、あれからずっと私はシュウさんの問いの前で立ちすくんでいます。

  一一のはなのなかよりは
  三十六百千億の
  光明てらしてほがらかに
  いたらぬところはさらになし
     (『浄土和讃』・『真宗聖典』482頁)

 あふれる光に照らされて誰もが等しく輝いて在るのだと、深く感受するとき、シュウさんの問いはより鮮明さをまして私を揺さぶってくるのです。

田中 具美枝(たなか・くみえ) 1952年生まれ。愛媛県在住。 四国教区福圓寺坊守。

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。