教行証文類のこころ/第二日目-1
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- 教行証文類のこころ
往相の回向について真実の教行信証あり、と。称名・・。(讃題)
おはようございます。(おはようございます)
昨日からこのご法縁を頂きまして、『教行証文類』のご法義について少しお話をさして頂こうということです。
まず、一番最初のところに浄土真宗の法義の綱格を述べて、浄土真宗には往相回向/還相回向といわれる二種の回向があって、その往相の回向に教・行・信・証という法義が展開していく、そういう教えであるということを仰っているわけですね。
その往相廻向/還相廻向ということは、昨日申しましたように本願力回向の二つのすがた(相)でございまして、浄土文類聚鈔には「本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相」(478)と、こういうふうに仰っておりますから、そうしますと『教行証文類』では浄土真宗から二種の回向を展開されておりますが、浄土文類聚鈔は本願力から二種の回向を出していらっしゃる。
したがって浄土真宗という宗名(しゅうみょう)と、本願力回向という法義の名前と、法義を表わす場合と宗義を表わすとの違いはありますけれども、内容は一つだということでございます。
そこで浄土真宗という教えは、これは昨日申しましたように、浄土真宗というのは教団の名前じゃなくて、教義の名前、法義の名前でございます。浄土真宗といわれる教えは本願力回向という法義を軸として、展開していく教法であると、そういうふうにいわれてるわけですね。そこで、その本願力回向ということを、昨日は昼からのご法座のところで、本願力回向ということについて少しお話をいたしました。
この本願力回向という言葉でございますけれども、これは言葉としてはですね、「浄土論」、あるいは「論註」の中に言われている言葉なんです。また往相廻向/還相廻向という言葉も「論註」の中に出てくる言葉なんです。言葉はそこから採っていらっしゃるんですけども、その内容は違っているわけですね。
ですから『教行証文類』を拝読する時にはそのあたりのところをよく気を付けて拝読する必要があるわけでございます。
まず、本願力回向という言葉でございますけれども、これは五功徳門を明かす中の、第五園林遊戯地門(42)の釈の中に(153)、出てくる言葉でございます。けれども、この本願力回向によって園林遊戯地門といわれる功徳が成就すると、こういう事が言われているんですが、この場合の本願力とは阿弥陀さまの本願力ではございません。これは願生行者の本願力なんですね。[1]
「浄土論」というものを見ますとご存じのように、五念門行によって浄土願生の菩薩道というものが組織されているわけでございます。この五念門ですね、礼拝、讃歎、作願、観察、回向という五念門。五念門というのは念仏ですね、五つの念仏門ということです。念というのは念仏のことですね。
念仏行を中心にしてそれを五種類に分類したものなんです。この五念門行というのは浄土論によって初めて組織された行業体系なんですね。ちょっと他にはないんです。
天親菩薩が浄土願生の菩薩道としてね、いわゆる大乗の菩薩道というものを浄土願生の菩薩道として新しく組織されたもので、おそらくその背後には天親菩薩の学系であった瑜伽行派の行業体系というものが背後にあります。その瑜伽行派の行業体系を背景にしながら新しい菩薩道の体系を建てていった。浄土の菩薩道というものの体系を建てていった、これが五念門行といわれるものなんですね。
礼拝というのは身業でございます。身体で礼拝するんですから身業ですね。讃歎というのは口で仏徳を讃歎する事ですから口業でございます。それから作願・観察は意業でございますが、そのなかの作願、これが一応、意業といわれております。身業・口業・意業でございますね。それから観察というのは智慧をもって浄土を観察する、浄土の徳を観察するわけですね、そして浄土を知る。
浄土を観察するっていうのはね、観経のように浄土をイメージとして思い浮かべる事じゃないんですね。そういうことじゃなしに、いわゆる心象としてね、観経で説かれたような浄土の荘厳相というものを描き出していく、心で描き出していく一種の心象風景として描き出していく、そんなんじゃなくてね。浄土の一つひとつの荘厳をですね、正確に、確実に理解していくことです。
そして浄土を正確に理解をする、ということによって何が真実であるかということが解るようになります。真実とは何か、そして真実なる生き方とはどのようなものであるか。
そういうことが正確に解るようになる。これが観察なんです。したがってそこで智慧が生まれるんですね。浄土を観察するといっても具体的にはどうするのかといいますと、経典に説かれている浄土の教説ですね。あの浄土の教説というものを正確に理解していくことです。まず正確に理解することですね。
ご存じのように浄土の荘厳というのは全部象徴表現で示されていきます。これは形にない世界を形で現わすわけです。言葉を超えた世界を言葉で表します。言葉を超えた世界を表す言葉、それは普通の言葉ではありません。形を超えた世界を現わすかたちというものはこれは普通の形じゃありません。
こういう言葉を超えた世界を領解するための言葉、こういう言葉は一種の象徴表現でございます。普通の言葉とは質が違います。こんな事を話し出すとまた長くなるんですけども、仏陀の悟りの境地というものは、いわゆる生死を超え、自他を超え、愛憎を超え、是非を超えた、そういう、何ですね、生と死とか、あるいは善と悪とか、あるいは自と他とか、そういう分別、いわゆる分けて知る、もっと言替えればいわゆる概念的思考ですね。概念的思考というものを完全に超越した領域を無分別智。分別を離れた無分別、そういう知り方ですので、そういう智慧を無分別智と言います。
その無分別智というのはしたがって言葉で表現する事は出来ません。言葉というのは概念ですから。概念というのは具体的にあるものを抽象化するわけですね。人なら人という特徴をですね。猿でもない猫でもない植物でもないというようにその特徴を、個々の存在にある特徴を抽出してきまして、その特徴によって一つの名前を付けます。人と人間とか、あるいは男とか女とかいうように名前を付けていきます。
実際には人などというのは何処にもおりません。いるのは私という個人しかいないわけですけども、個体しかないわけですけども、それをひとからげにして理解していく為に、それぞれの特徴を抽出してきまして、そして共通の特徴を持っておるものに一つの名前を付けます。
その名前を付けまして、これは人、これは猿、これは犬、あるいは猫、というふうに名前を付けますと、これは非常にものを考えていくときに実に便利なんですね。
そういうことが出来るようになったのが人間、そういうことをやる奴が、いや奴じゃない、やるお方を人間とこう呼ぶわけなんです。とにかく実にうまく考えたものでございます。
そういう概念的思考というものをやるようになりますね。そしてその概念を使って判断をいたします。何かそこにありますけどそれが何であるか判らない。これはとにかく植物だ、というわけで植物の中へ入れてしまいます。その植物の中でこれ何だろうかな。これはバラ科に共通した特徴を持っている。するとこれはバラ科に入る。しかもこれはバラ科の中のバラである。そのバラ科の中で赤いバラもあれば白いバラもあるし黄色いバラもある。大輪のバラもあれば小さいバラもありますけども、とにかくバラ科のなかのバラという中に分類しますね。それでこれはバラであると判断しますと、これで分かった。分かったというのは分類完了ですね。
つまり我々の持っている既成の知識の体系の中にきちんと納めることが出来るわけですね。こういうふうにして物事をどんどん理解していく、また新しいものが出てきますと、それを既成の知識の体系の中で位置づけることによって、そのものをまた理解していく。
このように知識をどんどんと増やしていくわけですが、全部概念的思考によって行なっていくわけですね。私たちはそういうようにものを考えていくようになっております。
ところがですね、これは概念的思考というのは具体的なものを抽象したわけですからね、具体的なものは表わせません。本当は具体的なものっていうのは、なかなか表せないわけなんですね。もののあるがままのありようというものは、とても言葉では表現し尽くす事が出来ません。ことに生と死、生死という問題、あるいは私たちは自とか他というように、言葉を作りまして、生と死、あるいは自と他とかいう言葉を使って判断をしていきますね。自と他というんだけどその他の中に二種類ありましてね。自というのは自分、この自というのはそれを言うている人のことを自というんですね。(銘記しておくこと)
つまり私なら私を自というんです。そして私でないものを他と言います。その私でないものを他と言うんですが、その他の中に二種類ありまして、私の話し相手になっている人とここにはいない人とがあります。
私の話し相手になっている人は他なんですけど、その他をあなた方とこう言う。あなたもしくはあなた方と言います。あるいは汝、汝等とこう言います。それから此処にいない人のことは、彼もしくは彼らといいます。そこで我と汝と彼、わたしとあなた方と彼らと分類いたします。で、分類いたしまして此処にいない人は全部十把ひとからげにして彼らとこう言ってしまいます。
ここにいらっしゃる方々は、あなた方と言って一つに包んでしまいます。本当は失礼な話なんですね。あなた方という人は一人もいないんで、一人ひとり「私」という方ばっかりがいらっしゃるわけなんですね、
私があなた方と言った時にはね、もうこれは実はこれは私が再構成した領域なんです。まことに申し訳ございません。あなた方一人ひとりの特徴は全部捨象してしまいます。全部捨象してしまいまして、あなた方という実に一般的な言葉で表しているわけです。
みんな一人ひとりが違った人生を持ち、それぞれが違った環境の中で、その人しか生きられない生き方で、一瞬一瞬を生きていらっしゃるあなた方ですが、そんなものは全部捨象してしまいまして、私の前にいらっしゃる方々をみんなあなた方とこう申します。
私の前にいる方々をあなた方と言いますが、実はこれは私が再構成したものです。前にいる方は大きく見えます。ず~っと後ろにいらっしゃる方は小さく見えます。そちらの方が小さいんじゃないんですよ、私から遠く離れているから小さく見えるだけなんですね。
あの電車の線路見ていたら分かりますな。あれは向こうへ行くほど線路が狭くなっているでしょ。あれほんまに狭もなってたら電車みんなひっくり返りまっせ。だけど電車もまあ小そうなります、だからまあ機嫌よういっております(笑)。
しかし、あれは小さくなっているんではないんですね。私の視野が広がったから、私の視野の広がりに反比例して、小さくなっているだけなんです。ということは、広い視野の中へ入れていくためには小さくならにゃ入らんでしょ。それで私はあなた方を小さくして私の視野の中へ入れてしまっておりますんで、まことの申し訳ないんですけども、あなた方がどんなお方であるかほんまは知らない。私に見えているだけのあなた方を知っているだけなんです。
つまりあなた方は私の表象として存在しているだけであって、あなた方のほんとのすがたを私は知らない。おそらくあなた方も私を知らないだろうと思います。
とにかく、私を中心にして、あなた方/彼らと分類しましたね。
しかしそれを分類したのは誰かと言いますと、私なんですね。私を中心にして分類するわけなんです。それで私を自己、私とこう言うんです。そうじゃない方を他者とこういうわけなんですが、道元禅師などは他人、他者などと言うことはまことに申し訳ないことだというわけで、私からいったら他なんだが、一人ひとり私という方ばかりなんだから他己と言うべきだ。自己に対して他己と言うべきなんだ、とあの人はいいますけれども、そういやそうだろな。しかし申し訳ないんですがあなた方とこう申しておきます。
で、私は。今私と言いましたがこの私というものは今此処に居るのを私とこう言うんですが、ここというのは私が、今居るところ、を此処というんですね。私が居るところを此処と言うんです。私の居ないところはそこなんです。だからここと言ったときには此処なんですね。此処ちゅたら此処ですよ、前おったところはあそこ。つまり此処というのは私の居る所、任意の一点、何処でもいいんです、私のいるところが此処なんです。
ここを中心にして私は自分の世界を描き出します。近い方遠い方、左の方右の方というように描き出していきます。つまり私が描き出す世界ですね。座標軸の原点は、私、此処でございます。時間から言いましても私のいる時を、今と言います。私のいなくなった時を過去と言い、未だいない時を未来と言います。
ですから時間というものは、いつでも私の居るところを中心として、時間軸と空間軸いずれも私を中心として座標軸を創っていってそこから位置づけていきますね。
それを単純じゃなくて、これを非常に複雑に位置づけていきます。そのときに具体的には私を中心にして、私に都合のいい人と、私に都合の悪い人と、こう分けます。もっと言替えますと私の役に立つ人と、私の役に立たない人とに分けます。で、役に立つ人は大事な人、役に立たない人の中には二種類ありまして、邪魔になる奴と、どうでもいい人がありまして、その邪魔になるのはなるべくはよ死んで欲しい人(笑)。それからどうでもいい人はどうでもいいんですから、生きようと死のうと知った事じゃないという事。
そこで、いい人と、悪い人と、どうでもいい人と、こう分けまして、愛する人、憎む人、そしてどうでもいい人と、愛と憎しみ、そして冷淡というものをそこで描き出していきます。敵と味方、そしてその他大勢とこういうふうに分類していきます。そして私の世界を私は構築しているわけなんですね。
これを迷いといいますねん。
そうしますとここに私たちは自己を中心として描き出す世界というものが出てきますね。これを仏教では
あの、生と死というのもそうですね。生と死というものを私たちは定立しています。よお判らんままで定立しています。生が何であるか、そんなもん誰も知っていない。生きているってどういうこっちゃ説明してみろと言われても、そんなん説明できる訳がないですね。
これ、生きているという現象、生きているという現象だけでも正確に説明できたらノーベル賞10ほど取れるでしょうよ(笑)。ですからそんなん解りゃあしませんよね。
ま、しかし一応、生まれて、生きて、そして死ぬと、我々は一応考えて生きているわけです。そういうふうに考えているわけですね。だいたいそうです。これは昨日お昼にもお話ししたんですけども、生と死というのは、私達の存在理解の枠組みなんですね。自己あるいは他者の存在を理解するときに、生きている人か、死んでいる人か、生きてるか死んでるか、いつ生まれたか、いつ死んだか、これでそれぞれの存在を理解していく存在理解の枠組みになっているんですね。
ですからこれ、私達はそう考えてんだけど、ほんと言うたら、生が何であるか死が何であるか解りません。第一生まれてきたっていっても、生まれてきた経験を持っているって人はあまりいないんだろうね。あのなぁ生まれてきたとき産湯、あのお湯ちょっと熱すぎたでぇなんて、そんな事を覚えている人はありませんしね。あの時の盥(たらい)大きかったなぁ、なんてそんなこと覚えている人は誰もあらへん(笑)。
それと自分が生まれてきたという意識はまずないですね。もちろん記憶にもありません。そういうことでしょうね。
死ぬということもそうでしょうね。死ぬということは何であるか私達は絶対解らない。少なくともあの死を内面的に理解することは出来ませんね。いやみんな死んでるじゃないですか、とこう言うけど、あれは死の影を見ているだけで、死そのものを知っていない。
人の死というのは死の影ですよ。たとえばね一回もお砂糖を嘗めた事のない人に対して、お砂糖の説明できますか。砂糖って甘いんですよ。甘いってどういうことですか。甘いと言ったって砂糖嘗めたことのない人に対して、甘いってこれ絶対説明出来ないと思いますよ。
塩は辛いんですよったってね。辛いと言っても、どんな辛さであるか、唐辛子の辛さもあれば塩の辛さもある、ソースの辛さもあればカレーの辛さもあるし、色んな辛さがあるんでね、辛さったって。あの塩の辛さってそんなもん説明できるわけないでしょう。
そうするとあの塩というものを内面的に理解しようと思ったら嘗めてみるしかない。砂糖の甘さを経験しようと思ったら嘗めてみるしかないですね。それでしか内面的にその事柄を経験するということは体験するしかないでしょうね。
ところが死ぬということは、その体験する主体が無くなったことが死なんですね。体験できないじゃないですか。経験できないじゃないですか。経験できないことに対して述語することはできない筈なんですね。
ですから死ぬという動詞を、私以外を主語にした場合はソクラテスは死んだ、誰それは今死んでいる、クリントンはそのうちに死ぬであろう(笑)ということは言えますね。
私以外の人を主語とした場合には、過去形も現在形も未来形も取れますよ。ところが私を主語とした場合は死という動詞は、過去形と現在形をとることは出来ませんわな。
私は昨日死にました、嘘つけお前生きてるやないかということになりますな。私は今死んでいますねん、死んでる者がもの言うか、ということになりますから、そうしますと、私を主語としたときに死という動詞は、未来形でしか語ることは出来ないでしょう。ということは死というものを、我々は経験内容として捉えることは絶対出来ないということです。したがって内面的に死を理解することは出来ないということですね。そうすると死というものは理解できない。理解出来ないことを解ったつもりで言葉で言うているわけです。話がえらいややこしいことを言いますけども(笑)。
そういうことですから、生きてるってどんな事ですかぁと言ったら、これ言葉として成立するときに、生きてるってどういう事ですかちゅうたら、定義のしようがないから、まだ死んでないことですと言って反対の概念、つまり生の反対概念として、死を定立しますから、その反対概念取ってきて、生きているということはまだ死んでないことですと、こう言うんですね。ほいじゃまだ死んでないこっちゃという死ぬって何ですかと言うと、もう生きてないこっちゃ、と反対概念持ってきて説明する訳です。
ところが生きているということの意味も解らんし、死ぬことの意味も解らんとって、解らん言葉で解らん言葉を定義して解るわけがないでしょうが。
ところがその解らん言葉で解らん言葉に定義して解ったつもり、それで生きているわけですね。これが、私達の実にあやふやな、ものの考え方というのはそういう事でしょうね。その解らんままの言葉を反対概念として使っている。生きているという事は死んでないという事だと、死ぬということはもう生きてない事だ、とこう反対にしますから、これはあらゆる事柄に対して、生と死は反対になりますね。
そうすると生きている事がいいことだと言う者にとっては、死はいけないことだとこういうわけですね。生きている事に価値があるという者にとっては死ぬという事は価値のない事だということになります。生きている事がうれしい人にとっては、死ぬことは惨めだという事になります。
それで終いかちゅうと、これ反対にするのもおります。生きていることが辛くて辛くてしょうがない者は、はよ死にたいと思うようになります。死を期待するようになります。自殺願望というものですね。そうすると生を肯定して死を否定するか、逆に生を否定して死を肯定するか、どちらかに揺れながら生きているということですね。ようするにこれは歪(いびつ)な、ものの考え方ですね。(有愛・非有愛)
これは、その元として生と死を反対概念として定立した、そこから間違いが出てきているんでしょうね。
私という存在を、そして全てのものを、その存在理解をするときに、その存在理解に錯ちがあれば、その存在理解は根底から間違ってしまうんだということでしょう。
そこでお釈迦さまは、生と死を一望の下に見通すような精神の領域を開いて、そして生きることも死ぬことも同じような意味、同じように尊いこととして意味付けができるような、そういう精神の領域はないもんだろうかとお考えになったんですね。
これは普通の人間には考えられないことです。その生と死を一望の下に見通すような精神の領域を開いて、生きることも素晴らしいことだ、死ぬことも素晴らしいことだと、こういう境地を開こうとされた、それがお釈迦さまなんでしょうね。
自と他と私達は二つに分けるけれども、実は自と他というものは一つであるような所に、本当の有り様というものがあるんだ、という、そういうようなことを見極めていったお方が仏陀なんでしょうね。
実は私達は自と他と分けました。私を私を定立するとは、私は私でないものではないと。だから私は私であると、いうふうに考えていきますね。私は私でないものではない、だから私は私であると自覚しますね。自覚するとはそういうふうに自覚します。
つまり私が私としての自覚を持つためには、私以外のものを否定的に媒介しないと私というものは成立しません。しかし私を成立する、私を成立させる、私の成立基盤を否定しなければ私は成立しないとなると、私が私であるということは、私は私の成立基盤を切り捨てているということですね。立たないのは当たり前じゃないですか。
私は私であるというこの自覚というのは、すごく孤独な自覚であるんでしょうね。そういう形でアイデンティティというものを確立していこうとするんですけれども、そのアイデンティティの確立の仕方に間違いがあるんじゃないんでしょうかね。
お釈迦さまは、そういう自と他というものをね、互いに否定しあう関係としてではなく、他において自を見、自において他を見る。一切衆生の上に自己を見、自己の中に一切衆生を見る。自と他とが一つに溶け合っていくような精神の領域、そういうものを開いたのがお釈迦さまなんですね。そして生と死を一望の下に見通して、私が考えているような生も、私が考えているような死も実在しない、と言い切っていった。そして、生きることも素晴らしいことだし、死ぬことだって私の考えるようなものじゃなくて、死ぬことだって素晴らしいことなんだと、こう言えるような精神の領域を開いた。それがお釈迦さまでしょうね。
ここでは生と死というのは生は不死、生は不生であり死は不死である。
不死とか不生というのは、死にも生きもしないという事じゃないんですよ。お前が考えているような生も、お前が考えているような死もない、ということを不生不死というわけです。
そうした領域がさとりの境地なんですね。これを生死を解脱するとか、自他一如といわれるような境地なんです。そこでは愛と憎しみといものは完全に克服されていきます。
そういう領域がいわゆる怨親平等といわれるような悟りの境地なんですね。そういう覚りの境地というものはね、二元的対立的な概念で表現すること出来ません。絶対に表現すること出来ない。
しかし、表現すること出来ないからといって黙っているわけにはいかない。
それを多くの人達にお伝えしなければならない、そして自分と同じような悟りの境地に至ってもらいたい、ということでお釈迦さまは説法をされるわけです。
ですからお釈迦さまの説法はそういう分別を超えた、無分別智の領域を、それを大悲をもって人々に伝えていこうとした所から仏陀の教えというものは始まる。これは後に少し教えの方に入っていきますからどうせもう一遍言うことですから、ここで言うてしまいます。
この無分別智の境地を、それを万人に開示していく為に、いかに説けばいいか、どのように表わせばいいか、それは言葉を超えた世界を言葉で表現するんですから、その言葉は、先程いいました、もう普通の言葉じゃなくて象徴表現でしかない。
その象徴表現、的確な象徴表現をどのように行なうか、それが力の見せ所なんです。これがお釈迦さまの一番大きなお仕事だったんですよ。仏陀が我々にとって大きな意味を持つ方になるのは、実はこの無分別値の領域を、それを実に見事な言葉、言葉である以上はそれは分別の世界ですが、この分別の言葉をもって無分別の世界を顕わす為の、こういう言葉をお釈迦さまはお使いになるわけですね。それは極めて象徴的な表現をとります。
そういうことを行なう智慧を後得智、無分別後得智といいます。これは天親菩薩のお兄さんの無着菩薩が著わされた摂大乗論、その摂大乗論に天親菩薩が註釈された摂大乗論釈というのがございます。
この摂大乗論、及び摂大乗論釈にですね、悟りの智慧を加行無分智、根本無分別智、無分別後得智という形で仏陀の智慧の領域というものを説明していらっしゃいますね。
その根本無分別智というのが生死を超え、自他を超えた、言葉を超越した、しかし、いのちそのものに直参した、もののあるがままの有り様というものを、言葉を媒介せずに体得した、そういう境地を無分別智と言います。
言葉を媒介にして捉えるんじゃなくて言葉を使わずに、したがって普通の知識を介さずに、いのちと直結するような、そういう知り方を無分別智。
ここでは知るものと知られるものとを分けない。知るものが知られるものであり、知られるものが、知るものであるような知りかたです。
普通知るちゅうたら、知るものと知られるものがあって、知るものが知られるものを知るとこう言うんですが、知るものと知られるものが一つであるような知り方ですね。
えらいややこしいんですが、私が花を見るんじゃなくてね、花が花を見るごとく、いやむしろ天地が花を見るごとく、花を知ることです。
私が知るんじゃない。私が花を知るんじゃなくて、花が自らを自覚するがごとく花を知るんです。
私達、花を見るときそうですね。きれいな花やな、えらいきれいな花やな、とこう言いますね。一本なんぼするやろ。この頃えらい高いから、この花一本五百円くらいするんとちゃうか。あれ花見てるんじゃなくて値段見てますねんで。あんなん花見たっていえません。私はバラも好きだけど、私はダリヤの方が好きだとこう言ったら、あれは自分の好みを見てるんであって、花を見てるんと違いますねん。
私達は、花が、その一輪の花が、後にも先にも、唯一度っきりこの地上に現れて、しかし無限の歴史を背景にしながら、この一輪の花がここに顕われて、この一点に宇宙の生命力が凝集しているような、そんな花になって、花が見えたら、花を見た、無分別智をもって花を見たということになりますねん。見る者なくして見る、花が自ら、自己を自覚するがごとく見る・・・。
あ、いや知りまへんねんで私は、断っておきますが。私が知っていたらこんなとこにおれへん、もうお浄土へいってますねん(笑)。
しかし、お釈迦さまはそう仰っている。そういう世界が無分別智の領域。それを言葉で表現して私達に伝えて下さった、それが無分別後得智。
この無分別智から無分別後得智が出てくる、そこに動くものが大悲ですね。一切衆生と連帯し、一切衆生の苦しみを、自らの痛みと感ずるが故に、彼らの苦しみを彼らの苦しみじゃなくて、自らの痛みとしてそれを癒やそうとするはたらきが、それがこの無分別後得智のはたらきを生み出していきます。で、これが教説なんですね。ここから教説が出てきます。
浄土の世界というのは・・・。ま、ここで話が元の話へ返ります、五念門の話へ、元へかえりますわ。お浄土観察というのは、この作願・観察というのは、智慧をもって浄土を観察することですね。智慧をもって浄土を観察するということは、つまり浄土にふさわしい知り方をすることです。浄土にふさわしい知り方・・・、これはま少し問題ですが、また後で言いますが。
浄土を正確に捉える。つまり浄土を捉えるということは浄土を説かれたお言葉です。あの浄土を説かれた教説を通して、その浄土が私達に何を伝えようとしているか。あの浄土の教説が、そこで真実とはこういうあり方をしているんだぞ。真実というはこのような生き方をするようなものなんだよ、ということを浄土は私達に教えてくれる。
それを正確に知ることによって、自分のものの見方考え方の過ちがわかる。何だおれの考え方真反対の考え方しとったな、真実に背いた生き方してたな、といことがわかりますと、真実の方向を目指すように、方向転換がそこに生まれてきます。これが智慧が生まれるということですね。
智慧が生まれるというのはね、自らの虚偽を知ることです。知識が生まれると賢うなったと思うんです。智慧が生まれると自己の愚かさが判るんです。
しかし、自己の愚かさが判るということは真実への指向性が生まれれくることですね。
それが智慧なんです。
そこで観察によって智慧が生ずる、これを智業といわれる。そして真実を知るが故に真実に背く自他に対して、自らを正すと同時に人々の過ちに対して、正しい方向に向かって下さるようにはたらきかけていく、そういうはたらきかけが生まれてくる。これを回向と呼びます、これを方便智業と言われた。
つまり五念門というのは、礼拝・讃歎・作願・観察・回向。これは身業・口業・意業・智業・方便智業と言われているんですね。
この中でどれが中心にあるかと言いますと、作願(止 奢摩他 シャマタ)、そして観察(観 毘婆舎那 ヴィバシュヤナー)、この止観というものを中心に致します。
止/作願というのは浄土に心を集中することです。浄土を願生する人は浄土へ心を集中する。そして浄土に心を集中することによって浄土の教説というものを正確に見ていく。
あの、お浄土というのは何遍も言いますけれども、あの教説を離れていくら考えてみたってただの虚構にしか過ぎないんですよ。あのお釈迦さまがお説き下さった、あの浄土の教説というものが浄土を開くんです。それ以外にね、お浄土ってどこにあるやろときょろきょろしてみたかって見えてくるのはただの自分の心の影にすぎません。
私達の心の影を破って真実を知らせる、あの言葉以外に私達は真実を知ることは出来ないんですから、そこで、これからだんだんと大無量寿経のお話に入っていきますけども、そういうことですね。御開山のお浄土の味わい方というのは正確に知っておかなけりゃならん。
実はその浄土三部経の中に説かれた浄土の教説、それをですね、天親菩薩が実に見事にまとめてみせる。これがあの浄土論の三種荘厳二十九種という分類の仕方でですね、浄土は涅槃の境界であり、如来の大悲の境界である。その涅槃を覚る智慧と大悲の活動、これが浄土を支える二本の柱なんだ。そしてその智慧と慈悲を中心にして展開するのが浄土の領域なんだ。これが真実の領域であり真実の生き方なんだということをね、天親菩薩は実に見事に説かれいくんですよ。それを、礼拝・讃歎・作願・観察・回向と実践の上でそれを確認していくのが、この五念門行という行業なんですね。
去年、一昨年でしたか、ニューヨークへ参りまして、向こうの仏教界。あっちはね真宗のお寺はニューヨークに一ヶ寺しかないんですよね。
やってくる方はテーラヴァーダのお坊さんであったり、中国系の方であったり、日本ですと禅宗の方であったり、またチベット仏教の方であったり、そんな方ばかりなんでございましてね。
丁度そんなことがあって、浄土教の菩薩道についてちょっと話してくれと言われまして、この五念門の話をしたんですが、こんな話、私初めて聞きましたちゅうてはりましたが、わしも初めてしたわいちゅうて笑うていたんだけれども(笑)。とにかくそんなことを言うたこともあるんですけど。もう一度浄土教の五念門行というものをもう一遍、一番天親菩薩の所へ返して、もう一遍読み直してみる必要はありますね。何の話になったんや、こらえらいことになるがな。
さ、そこで、止観によって智慧が生まれる、柔軟心(にゅうなんしん)が生まれる。「奢摩他と毘婆舎那を広略に修行して柔軟心を成就」(39)する、とこう仰っております。柔軟心とは柔らかいこころ、あれはいいですね。柔軟心とはあらゆる事態に柔軟に対応出来るような、そういう弾力性のあるこころが、智慧が完成すると言うことですね。剛直な心じゃなくてね、がちがちの心じゃなくてね。実に柔軟にあらゆる事態に対応できる。
つまりね、一つの事柄をただ一面からだけ見るんじゃなくて、多方面から見て、そして様々な状況に応じて、一番適切な行動が取れるような、そういう実践的な智慧、これがね般若波羅蜜(智慧波羅蜜)と言われる、あの空という考え方なんです。
柔軟心というのは、この空を覚る智慧なんです。空というのは何もないという事じゃなくてね、固定的な観念を破って、そして、もののあるがままの有り様を、確実に捉えながら、柔軟に対応していく。時間というのは今しかないし、時というのは此処しかないし、私というものは今、此処に存在しているものでしかない、としますと、私を既成の観念でもって捉えたんでは、私というものは、ほんとのすがたは捉えられない。
ただ今の事態で、ただ今の自己を的確に捉えて、そしてそん中に様々な意味と方向をそこで捉えていくことが出来るような多面的な、柔軟な対応が出来る、そういう智慧をね、それを般若波羅蜜、つまり一切は空であると悟る智慧なんです。
空であるというのはね、すごく柔軟な生き方のことです。
とにかくここで柔軟心を成就する、柔軟心を成就したものは方便智業を、つまり人々を救済しようという、そういう回向心が発ってくる。これを回向門という。
回向というのは自らが完成した、智慧の徳を以て人々を導くことです。だから回向というのは教育のことですよ。此の功徳を以て、平等に一切に施し(299)、とこういいますね。
この功徳というのは、教えを聞いて獲得した功徳です。教えを聞いて獲得したその教えの智慧を、それを人々に言葉を通し、行動を通して人々に伝達していくことを、回向と言うんです。
回向するというの事はね、ただお経読んでれば回向になるんじゃないんです。
正確に理解し、正確に確認して、その確認した真理を人々にお伝えしていくことを回向と言うんですね。そして、もろともに浄土を目指して生きていこうとする、これを回向門とよぶ訳なんです。(普共諸衆生 往生安楽国)
真実を知った、その智慧は自己の虚構を知り、人々の虚偽を知る。それ故に自己を正し、また人々の有り様を正し、そして正しい浄土の方向へ向かっていこうとする、そういうはたらきを回向門と言います。この回向の中に二種類がある、と、曇鸞大師が仰ったわけです。
その二種類とは何かといいますと、往相の回向と還相の回向なんだと曇鸞大師は仰った。
そこで、往相回向と還相回向というのはどういうことを現わすかということ、そして先ほど言った本願力回向というその本願力とは一体何を現わすかということですね。
浄土論や論註ではどう意味を表わしているかということをね、それだけをまず知っておかないと、御開山がどう転換していくかということが解りませんのでね。ちょっとここまで長話になりました。これは余談になったようだけれども、これから真実の教、経典とはどういうものなのかと言うときに、これが一番中心になるので前もってお話しをしておきました。
ちょっとここで休憩を致しまして、今度は本願力回向というこということで話を展開することに致します。
では休息をさせていただきます。なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)
脚注
- ↑ 『浄土論』では、
出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し、神通をもつて教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑなり。これを出第五門と名づく。p.42
『論註』では、本願力の回向を解釈して
「本願力」といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現ずることを示す。みな本願力をもつて起せり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。p.153
と、あって、両方とも浄土への願生者の持っていた本願(プールヴァ・プラニダーナ(pūrva-praņidhāna 前からの願いという意)としてみている。