操作

教行証文類のこころ/第一日目-1

提供: Book

2001年8月1~3日にわたって、真宗出雲路派夏安居での梯實圓和上の講義、『教行証文類のこころ』をテープから起こしたもの。なお午前中はご講義で、午後は本堂でのご法話でしたが講義だけを収録しています。途中テープ切れや板書を略したりして正確に和上の真意を伝えていない恐れがあることに注意してください。文責は入力者にあります。


Dharma wheel

教行証文類のこころ

第一日目-1
第一日目-2
第一日目-3
第二日目-1
第二日目-2
第二日目-3
第三日目-1
第三日目-2
ウィキポータル 梯實圓
教行証文類のこころ
  • 2001年 真宗出雲路派夏安居講録  梯實圓和上


 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり、と。


ただいまご紹介頂きました、梯でございます。
浄土真宗の一番の根本のお聖教でございます、『教行証文類』のお心についてお話をさせて頂きたいと思います。
ご存じのように親鸞聖人は、ずいぶん沢山のお聖教をお書きになるのでございますけれども、やはり一番、主著、といわれるものが、この『教行証文類』でございます。
正確には『顕浄土真実教行証文類』と、こう書かれておりますが、のちに教行信証文類と言う名前でよばれることもあり、また、教行信証とよばれる場合もございます。
けれども、親鸞聖人が、ご自身で表わされているのは、『顕浄土真実教行証文類』、でございまして、また直弟子の方々がよばれるときには、教行証あるいは教行証文類というようなよび方がされております。それで、いちおうこの度は、『教行証文類』という、こういうよび名でよばせて頂こうと思います。
勿論、教行信証といっても、教行信証文類といっても、決して間違いではございませんけれども、親鸞聖人のよび名、あるいはその直弟子の方々のよび名に従って、『教行証文類』とよばせて頂きたいと思います。
この『教行証文類』でございますが、いつ頃これを親鸞聖人が著されたのか、よく分かりません。
よく分かりませんというと何ですが、現在、公式には、『教行証文類』を書かれたのは元仁(げんにん)元年(1224年)といわれております。親鸞聖人のお年で五十二歳、といわれているのでございます。
それは『教行証文類』の中にですね。親鸞聖人自身が化身土文類の所で、お釈迦さまがお亡くなりあそばしてから今日まで、何年経っているかという年代測定をなさっているのでございますが。これは今の時が末法であるということを、証明するための年代測定をなさっているのですが、その基準年になっているのが元仁元年でございます。
つまり、お釈迦さまは中国の年代に合わせると、周の第五の穆王(ぼくおう)の五十三年にお亡くなりになって、それからずっと数えてみると、我が元仁元年に至るまで二千一百八十三年と書いてあります。これは正確には十年計算違いがあるわけですが、とにかくそこにお釈迦さまが亡くなられてから今日まで、何年経っているか、というその仏滅後の年代を著す時の基準年として元仁元年という年が挙げられています。
そういうことから、この元仁元年というのが親鸞聖人が『教行証文類』を著された年である、と、こういうふうに、いわれてきたのでございます。
どこかで決めなければならないとすれば、これで決めるしかないだろうと思います。そういうことで、今日(こんにち)この『教行証文類』が著された年を、浄土真宗の立教開宗の年と、こういうふうに見ますので、立教開宗以来何年経っているか、ということを測定するのには、この元仁元年を基準として測定していくわけでございます。
しかし、実際問題としてですね。元仁元年、丁度その、ここの部分を書かれておった時が、つまり化身土文類の化巻(本)の終わり頃でございますけど、そのあたりが書かれておられたときが元仁元年であったから、元仁元年といわれたんだと、そういうふうに機械的に考えるには少し無理があろうと思うのでございます。
といいますのは、この元仁元年といいますのはですね。ほんの僅かな期間でしかないんです。
貞応三年という年でございますが、この年が、貞応三年の十一月の終わり頃に改元になって、そして元仁元年になっている訳でございます。
したがって元仁元年は一月そこそこしかないわけですね。従ってその元仁元年にですね。丁度書いていらっしゃったその時が元仁元年だったというとですね。おそらく京都で改元になったと、今年は貞応三年から元仁と改元になった、ということが、京都で決定いたしましてそして幕府へ通達されまして、そして幕府のほうからですね。こういうふうになったと地方へ伝わっていくのは、今日みたいに情報が即時に伝わるような時代なら別ですけれども、その当時はそんなわけにはいきませんので。
おそらく親鸞聖人が五十二歳、関東の稲田の草庵にいらしゃったといわれております。たしかにそうだろうと思いますが、常陸の笠間の郡(こおり)の稲田のあたりへその情報が達するのは、おそらくその年の暮れ、終わり頃だったはずでございます。
それを親鸞聖人がお聞きになって、そして今日(きょう)、今は元仁元年だ、そりゃぁあまりに時間的にちょっと無理がありすぎますね。
おそらくこれは、元仁元年というのは、親鸞聖人は改元になりますと改元になった年の名前で、その年をよんでいかれるわけですね。たとえば有名な念仏停止(ちょうじ)の法難が起こったといわれる、親鸞聖人の三十五歳の年でございますけれども、承元の法難とよんでおりますが、承元(じょうげん)元年でございますけれども、あれは承元元年ですけれども、念仏停止の院宣が下りましたのは建永(けんえい)二年でございます。まだ建永二年なんです。つまり承元にはなっていない、改元にはなっていない。建永二年の一月の下旬に、念仏停止の院宣が下りまして、そして二月上旬に一斉検挙があって、親鸞聖人たちが有罪判決を受けて、それぞれ処分をされますのは二月の終わりから三月の初めでございます。
この時期はまだ建永でございまして、承元じゃないんですね。けれどもこの年に承元になりますので、承元に改元になりますので、親鸞聖人は「承元元年の仲春上旬の候に奏達す」(後序)、と書いてありますが、あれは正確にいいますと、建永二年なんですね。ですから浄土宗の方ではあれは建永の法難、とよんでおります。ただ、真宗では親鸞聖人に従って、親鸞聖人は改元になりましたらその改元になった名前でその年をおよびになるという、そういうことから、承元というふうによんでおる訳でございます。
その『教行証文類』が元仁元年に完成したのではないということが、どうして証明できるかといわれますと、現在の遺っています親鸞聖人の御真筆本ですね。直筆本の『教行証文類』が一部だけ遺っております。
これが今、東本願寺に伝承されておりますので、東本願寺本とよんでおります。これが親鸞聖人の直筆で書かれたものです。なんで直筆というねんとこういわれますとね。同じ筆跡で、添削が沢山されておることですね。あの書物にね、添削をすることが出来る人は著者以外にはありません。
従って親鸞聖人の筆跡というのは、あれが一番根本になるわけですね。その筆跡を見ますとですね。ずいぶんいろんな筆跡が出ております。いろんな筆跡というのは、色んな年代の筆跡が出ております。
六十代の筆跡、そして七十代以後の筆跡、八十代以後の筆跡もございます。一番何ですね、ベースになっているのは六十代の初め頃の筆跡でございます。今日では東本願寺本の研究によりまして、大体、親鸞聖人が、いま言いました東本願寺本はまず原本があった。もう一つ前の原本があった、それを清書しておられる。親鸞聖人が清書したというのは何故分かるかと言いますと、何ですかその、写し間違いがあるんです。あきらかなケアレスミスでございます。
そのケアレスミスがございますので、これは写し間違いだと言うことが分ります。原本がありましてそれを清書した。その清書したのが、今の東本願寺本の元になっておりまして、それに添削を加えた。さらにその清書された年代がだいたい六十二~三歳頃の筆跡と考えられます。六十二~三歳頃の親鸞聖人の他の筆写本と合わせますと筆跡が非常によく似ておりますので、だいたいこの時期の筆跡だ、という事が分かります。
それを六十二~三歳頃にいわゆる原『教行証文類』、元の『教行証文類』をそれを清書した。そしてその清書したものに添削を加えた。さらに大改訂を行なっていらっしゃる。その大改訂を行なったのが七十代以降の筆跡でございます。
史実から見ますとですね、親鸞聖人は七十五歳の時にお弟子の、沙弥尊蓮という方にこの『教行証文類』を伝授されているわけでございます。沙弥尊蓮がそれを写したという記録が残っているのでございます。(大谷大学蔵室町時代写本・寛永版・恵空写教行信証奥書)この沙弥尊蓮というのは親鸞聖人の従兄弟でございます。親鸞聖人の叔父さんにあたります日野宗業(むねなり)、従三位まで上りまして、文章博士として有名な方ですね。
平家物語にも登場してくる方でございますが、この宗業公のお子さまで親鸞聖人とは従兄弟にあたる方ですね。この尊蓮という方、親鸞聖人の洛中でのお弟子でございます。京都へお帰りになってからのお弟子でございますが、その沙弥尊蓮にそれを伝授をされておる。ということは大体親鸞聖人は、これでいちおう完成した、という自信があったから伝写することを許されたわけでございまして、そうしますと、まずその時点、つまり七十五歳ぐらいで大改訂が終了した、と、みていいでしょう。
そしてその後もさらに添削はされている。ことに八十歳以降でなければ分からない事柄をそこに書き入れていらっしゃるのは明らかに出てきます。
例えば天皇の諡号(おくりな)というものが、何年にこの天皇にはどういう諡号がされたかというということを合わせてみますと、これは親鸞聖人が八十以降でなければ分からない事柄でございます。そういうものが直筆で欄外に出ておるということになりますと八十以後にもなお手を入れていらしゃった、という事が分かるわけでございますね。
そういう意味にみまして元仁元年というのは全く無意味な年ではなくて、実はこれは先ほど言いました、貞応三年でございますけども、この貞応三年といいますのは、これは第二回目の念仏停止の勅命が下った年なんです。
法然聖人が亡くなって丁度十三回忌、あの前の第一回の大弾圧によって致命的な、致命的なというとおかしいですが、随分激しい弾圧を受けたわけですね。あの承元の法難の時には。死刑がですね。四人が死刑になって八人が遠流の刑罰に処せられる。その中で一人だけは、何ですね。歎異抄は二人と書いてありますが、本当は一人だけですね。一人だけが慈円僧正ですね、慈円の庇護を、慈円によって身柄預かりというかたちで流罪にはならなかった。けれども後七人はそれぞれ流罪になっておりますが。
あの死刑というのは、ご承知のように、平安時代三百五十年間、死刑はなかったんです。日本の国には死刑はなかったんですね。律令の条文にはありましたが実際に死刑というものはなかった。これが保元(ほうげん)の乱の時にはじめて死刑が復活するんですね。あれ死刑復活させたのが、あの隆寛律師のお爺さまにあたります、藤原信西入道(藤原通憲)でありますね。
彼は自ら死刑復活しまして、その次の平治の乱の時には彼自身が死刑になるわけでございますね。ずいぶん皮肉な話でございます。
とにかく保元平治の乱まで死刑はなかった。まして僧侶がですね、死刑になるということは考えられなかったですね。それがあの承元の法難では、四人まで死刑になって、これはものすごい弾圧なんです、これは。我々想像以上の弾圧を受けているわけですね。
そういうことで壊滅的な打撃を受けておったのですけども、法然聖人が亡くなって十三回忌を迎えたこの元仁元年、つまり貞応三年の時期になりますとずいぶん復活してきまして、京都の街では再び専修念仏が盛んになってきた。殊にこの十三回忌を期して念仏者が澎湃(ほうはい)と京都の街に起こってきた。
それを恐れた叡山からですね。再び念仏停止を要請する「延暦寺奏状」というのが、この年の五月に朝廷に出されます。で、それを受けまして、朝廷はその年の八月に念仏停止が宣下される訳です。再び専修念仏は弾圧を受けていくわけですね。
そしてやがて、三年のちの嘉禄三年には有名な嘉禄の法難というのが起こりまして、この時には死刑はございませんでしたけれども、法然門下の生き残った、法然門下の重鎮たちは、皆流罪に処せられる、というような嘉禄(かろく)の法難というような事件が起こる訳です。
その嘉禄の法難のきっかけになったのは、この貞応三年、つまり元仁元年の「延暦寺奏状」でございます。
承元の法難の思想的に裏付けた、あの法難を思想的に裏付けたのは、あの有名な「興福寺奏状」でございましたが、それに対して「延暦寺奏状」が元になって貞応の、貞応三年の念仏停止の院宣が下る、と、こいうことになってきたのですね。
実はその「延暦寺奏状」の中にですね。今は必ずしも末法ではないんだということで、末法思想に立って、この教えを、念仏の教えを宣布している、その法然聖人の一門を、その思想の根底からひっくり返していこうとしたのが「延暦寺奏状」でございます。
その「延暦寺奏状」に、今は必ずしも末法ではないんだ。たとえ末法であったとしても、たとえ末法になったとしても、少なくとも五千年間は仏法は、実際に覚りへの道として効力を発揮するんだといわれているお経もあるんだ。
それを末法の時代になったら、行も証もなくなって、覚りへの聖道門の教えは覚りへの道ではなくなってしまう。ことに法滅の時代になったら仏法は完全に滅びるが、ただ念仏一門だけが遺るというふうに言っているけれども、実にそれは愚民を惑わす虚構の説であるということでですね。この「延暦寺奏状」の中で言うている訳なんですね。
実は親鸞聖人がこの「化身土文類」の、本の終わりごろ、本巻の終わりごろにですね。今は末法であるということを、親鸞聖人ははっきりと論定をしまして、そして末法の時代になったらもはや行証の、行も証もない。覚りへの道としての実効は失われるんだ、ということを論証していこうとする為に化身土文類の本巻の終わりの部分は説かれている訳なんですね。
そのために親鸞聖人は延暦寺の開祖であった、比叡山延暦寺の開祖であった伝教大師の書物を引用される。これが「末法灯明記」ですね。
この「末法灯明記」を引いてお前たちの祖師の伝教大師はこう仰っているじゃないか。この伝教大師の説がお前たちは受け容れられないのかという形でですね。逆にいわば敵刀を以て敵を斬るという形で。
はっきりと「延暦寺奏状」への論難とは仰っていませんけれども、もう読めば、誰が読んでもこれは「延暦寺奏状」を根底から論駁したものだということはよく判る訳ですね。
そういう形で書かれている。そこに今、言いました仏滅後何年経っているかということを、算定する。仏滅年代の算定という、そして仏滅後の年代測定というものがなされている。そこに元仁元年という年号が出ているわけですね。だからこれはもう、ただこれを書いておられた時がそれだったと言うんじゃなくて、この年がいわば専修念仏の息の根を止めるような、そういうような弾圧が起きてきた。それをふまえて仰っているんだ、ということは明らかですね。
そういうことで、私は元仁元年という年は非常に大事な年だし、むしろこれは『教行証文類』を親鸞聖人が、どうしてもこの『教行証文類』を書かねばおれないという、そういう使命感といいますかね。そういうものに燃えた年だろうと思います。むしろ『教行証文類』選述の動機になった年、であったんじゃないかと考えられる訳でございます。しかし、少なくとも関東時代に『教行証文類』の原型は成立しておった、と考えてよかろうと思います。
その原型はいちおう成立したんだけれども、それをさらに完成する、そういう意味をもって親鸞聖人は関東から京都へ帰って来られたんじゃないかと昔から言われておりますが、たしかにそういう意味があっただろうと思いますね。
ひとつは法然聖人関係の書物はね、書物というか、書写した法然聖人の法語だとかお手紙だとか御法語の聞書であるとか、そういうものは関東ではちょっと手に入りにくい。
ふつうの書物であるなら関東で、いわゆる一切経といわれるようなものですと関東でも手に入りますけれども、法然聖人関係のものですと関東ではちょっと手に入りにくい。
やはり京都でなければ手に入らないでしょうね。そういうこともあって『教行証文類』を文献的にも、また思想的にも完成していくために、京都へ帰ってこられたんじゃないかと考えられる訳でございますけれども。
お帰りになってすぐに手を付けられたのも『教行証文類』を清書して、そしてもう一度添削をしていくという、そういう作業だったと考えられます。
そうして考えますと少なくとも五十二歳ぐらいから、七十四~五歳で完成するまで二十数年の年月を費やしている訳ですね。
さらに八十代以降の筆跡も多く見られますから、それをみますと親鸞聖人の後半生がこの『教行証文類』には凝集しておるということが言えるわけです。ずいぶん親鸞聖人という人は息の長い人だったという感じがしますね。
普通そんなねぇ、一冊の書物にね、何十年という歳月をかけるということはないですよ。
一冊書物を著しましたらそれはそれでケリつけまして、また次の著作にかかるものなんですがね。どうもそのようなことをしないで、この書物に心血を注いでおられる。
親鸞聖人という方は非常に筆まめな方でございまして、沢山書物を残してくださる方なんですが、その親鸞聖人が七十四~五歳までは、この『教行証文類』以外にですね。もっと若いときには「観経集註」、「阿弥陀経集註」といわれるような、これは著作というよりもご自身の勉強なんですが、そういうもの以外にはですね。メモ以外には何も残っておりません。
したがってもし親鸞聖人がもし五十代でお亡くなりになっていたら、未完成の『教行証文類』が一部残っただけで、おそらく親鸞聖人が今日のようなかたちで、祖師として崇められるということもおそらくなかったかもわからないですね。
そうしますと、大体七十四~五歳までこの書物の完成にかかりきっていらっしゃった、とみていいでしょうね。それくらいの書物なんですね、あの親鸞聖人ほどの方が畢生の力をこめ心血を注いで書かれた書物、これは大変なものでございます。そうですね、おっそろしく難しい。これははなから言うておきます。『教行証文類』とおそろしく難しい書物でございます。
大体親鸞聖人という方は、こんな言い方をしたらいけないかもしれませんが、きわめて独創的な天才でございます。ああいう独創的な天才、宗教的な天才というのはね。なかなか啓蒙家にはなれないんですよね。啓蒙的な書物は書けないです。
書けないと言うと何ですが、親鸞聖人も啓蒙的な書物を書こうと一所懸命になっていらっしゃるんですね。
たとえば『一念多念文意』であるとか、『唯信鈔文意』であるとかいうような書物を晩年お書きになりますけれども、その一番最後のところには、田舎の人々の仏教のことは何も知れない、また文字さえも判らない人達に、仏教のこころを知っていただきたいと思って、この書物は書いた。同じ事を繰り返し繰り返し書いたから、心ある人は嗤うかもしれない。
この心ある人というのは文字のこころを知っているということで、言替えれば学者ですね。学者が読んだら嗤うかもしれないけれども、とにかく愚かな人達が心得やすくと思って、書いた。こういって一番最後のところに識語が書かれてれております。
『唯信鈔文意』は先ほど言いました聖覚法印が著された唯信鈔の註釈なんですね。「唯信鈔」の中に書かれた難しい漢文の引用文がございます。それを註釈したものなんです。
それから『一念他念文意』は、これは「一念多念分別事」という隆寛律師の書物の、そこに引かれている漢文の引用文を註釈する。こういう形で書かれたものなんですね。
注釈書なんです。ところがお読みになったら判りますけれども、『唯信鈔文意』と元の「唯信鈔」を合わしたら、「唯信鈔」の方がずっと判りやすいです。親鸞聖人の註釈された『唯信鈔文意』の方がず~っと難しいです。『一念多念文意』でもそうです。「一念多念分別事」のほうがすっとわかる。「一念多念分別事」と親鸞聖人のお書きになったものを比べるとおっそろしく難しいです。難しいというたら何だけど、難しいです。
これは聖覚法印という方は、元々布教家なんですよ。安居院流という伝道ですね、唱道と読みましたけどお説教ですね。お説教の一派を開いた安居院の澄憲(ちょうけん)、その澄憲の跡をついで、安居院流というお説教の流儀を大成した人ですから元々布教師でございます。ですからね、書かれいるのは非常に解りやすい。しかもね、随所に七五調の文章がございまして非常に口調のいい、解りやすい文章なんです。ですから親鸞聖人は関東の門弟達に是非読みなさいといって推奨された訳なんですね。
ところがそれを註釈した「唯信鈔文意」になりますと、これは一筋縄ではいかない。恐ろしく難しい書物になっております。つまりね、親鸞聖人、註釈するつもりで書いていらっしやるんですが、書き始めたら前人未踏の境地を開いてしまうというような、これはもう独創的な思想家の常でございましてね。あの何ですね、書けば書くほど難しくなるような、そういうとこがありまして。
そういうのを見ますと解りやすくと思って書かれたものでさえもあれだけ難しいんです。『教行証文類』になりますと、ほんな、解りやすくなどと考えてはりゃしませんね。こりゃあもう何ですね。解ってくれる人が、一人でも二人でもおりゃあそりゃぁ有り難い。
これは解ってもらう為に書いたんじゃなくてね。書かねばならないことを書いた書物なんですね。
あれだけの人がね。書かねばならん事を書くんだ。そういう覚語を決めて、そして相手にするのは仏祖である。仏様と祖師方を相手にしながらね、そんな態度で書かれたら、そらあ、たまったもんじゃない(笑)。たまったもんじゃないといったらおかしいけど。そりゃあ難しいですよ。『教行証文類』というのは恐ろしく難しい。
しかし、凄い深みのある文章でござまして、もう、何と言いますかね、文章の密度が全然違うんですね、普通の文章と。ですから一字一字に精魂がこもっているというか、そういう感じのするお聖教でございます。
しかもね、この『教行証文類』は大部分引用文なんです。文類と言われておりますように、文章を集めた書物なんですね。経典の、あるいは祖師方のお聖教の文章を集めたものなんです。それを真実の教、真実の行、真実の信、真実の証、あるいは真仏土、方便化身土というふうに分類分けをいたしまして、それぞれを表す文章を引用してこられた、大部分が引用文なんです。
ところがね、よく見ますとただの引用じゃないんでございます。その引用の仕方、そして親鸞聖人が引用されてきますと、全然違った意味を持ってくるんですね。そういうことが沢山出てくるんです。
例えば龍樹菩薩の「十住毘婆沙論」というのを引用されます。その「十住毘婆沙論」を引用されるんですけどね。親鸞聖人が引用されたとこから読んでいきますとね。そこから読んでいきますと、元の「十住毘婆沙論」の文脈と全く違った世界がそこに出てくる。そして、親鸞聖人がそこで引用された文章だけをたどっていきますと、「十住毘婆沙論」とは全然違った領域を表しているんじゃないかと思われるような、そういうものが顕われてくるんです。
つまり、引用文でもって、創作をしている。しかもね、時によっては経典の文章であり、あるいは祖師方の文章でもね。訓点を変えるわけですね。漢文ですから漢文の訓点を変えて読まれます。訓点を変えて読みますとね、これは元の書物とは全然違った風景が顕われてくるわけでございます。
で、最近ね。あれ何っていうのかしれませんが、表から見たら普通の写真なんですね。ところが目の焦点を、焦点の合わせ方を変えますと、絵の中から全然違った絵が浮き上がってくるというような、あんなんのがありますな。あれ何ちゅうんですかな。夕刊に週に一回ずつ出てくる、ありゃあ面白い。
ふっと見たら、普通の花とか花畑とかきれいな写真なんですよ。ところが焦点を、違ったところへ焦点をあててみますと、この絵の中から動物が出てきたり、あるいは違った風景が顕われてきたり、そういうのがございます。とにかくそういうなのがあります。
つまりね、お聖教を読むときの目の焦点の合わせ方によって、お聖教の中から実に深いものがすーっと浮き上がってくるんですね。
また、そういうことはね、普通の写真だったら誰が見ても普通のものしか見えないんですよ。ちゃんと、そういう操作がしてあるから焦点を、違ったところに焦点を合わせますと、その絵の中から違ったものが顕われてくるようなものですね。
お聖教にはそういうものがある。普通の本とは全然違う。読み方によっては随分違った風景が顕われてくる。まぁ実は、そういうものを読みとっていくのが、祖師方なんです。これは普通の人間に出来る技じゃない。ある意味では覚りの眼を開いていないとああいうものは読めないだろうなと思いますね。
御開山てね、凄い覚りの境地をもっていらっしゃると、見ていいですね。私は愚かな者でなんにもわかりません、ちゅうて御開山仰っていますけど、どういたしまして、『教行証文類』を拝読いたしましたら、あるいはその他のお聖教を拝読いたしましたら、あなたはおそろしい覚りの境地、開いていらっしゃるんじゃないですかと、言わざるを得ないですね。
あの、いわば、大乗経典を読んでいるのと同じような感じを、ぴーんと受けますね、御開山の。他の人はあんまりそういう感じを受けないんですけど、御開山の読んでると。そんなん、ばぁーっと受けるような、おそろしい迫力がありますね。ありゃあ、ただ人じゃないですね、やっぱ御開山は。日本民族の産んだ素晴らしい仏様だと私は思っているでのすが。あっ、えらい話が長うなってしまいました。
そういうことで、御開山は引文を通して、そしてある意味では、前人未踏の境地を開いていくような、そういう操作をなさっているのが『教行証文類』です。
だから『教行証文類』を読むときにはね、書いてある文章だけ読んだって解らないんです。原文と合わせてね、原文の文脈と、御開山の文脈と文脈を合わせながら読んでいかないと駄目なんですね。
そして引用してある文章だけ読んだって駄目なんです。引用してないところを読まなきゃいけない。そしてね、これを引くんだったらこっちの文章を引かねばならないのに、何故この文章を引くのか、そこんところを読まないと解らないです。
それから何ですね、その今言いましたような、読替があります。その読替をなさったところにですね。こりゃあ読み替えたんじゃないんです。御開山は読み替えていらっしゃるんじゃないんです。わしらが読んだら読み替えているようにみえます。
ようするに、「至心に廻向して、彼の国に生まれんと願ずれば」と訓むところを、「至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば」、と読み変えていらっしゃいますが、あれは我々からみれば読み替えなんですが、御開山は読み替えていらっしゃるんじゃないんです。それが訓めるんです。そう読めるんですね。それをすうっと読みとれる文脈を読みとれないと駄目なんですね。
ですからね、ただ書いてあることを書いてあるようにざっと読んだって駄目。あの書いてないところを読んでいかんにゃならんのですね。そういうのが『教行証文類』でございますので、まぁ恐ろしく難しいんです。最初から難しい難しいと言うていたら、もうやめとこかなと思われるかもしれませんが、そういう恐ろしく難解な書物でございますけども、しかし考えてみると八百年間。御開山が『教行証文類』をお書きになってから七百数十年、もう七百五十年になりますけども、この七百五十年間、色んな人たちが精魂込めて拝読し続けて、なおわからんわからんと言うてはるんですからね。んでわからんちゅうて嫌になってるちゅうかというとそうじゃないんです。
みんな、わからんわからんと言いながら、有り難いなぁ、ありがたいなぁ、ちゅうて言うているんですから、面白い書物ですなぁ、これは。わしらわからんちゅうたら、こんなん、もうつまらん止めた、というんですが。
つまりね、一生かかって読んでもね、わからんほどの書物に遇えたから、自分の生きてきた人生に意味があった、というようなことを感じさせる書物なんですね。解ってもたら、なんじゃい、この程度のもんかいというようなもんです。本当はそんなものです。そうじゃなくて、一生かかっても解らない、しかし解らないからなんにも解らないんじゃないんですよ。その触れたところ、触れたところで、ぴたーっと光るようなものに出合いますからね。全体像はつかめません。これははっきり言いまして、私は『教行証文類』の全体像はよお掴めません。これが掴めたらわしゃあ御開山より偉ぉなるんじゃけど、そうはいかん。それは掴めません。けれどね、随所、随所に光る言葉がね、それが私たちの人生を照らして下さる。そういう意味で、『教行証文類』。まあ何ですわ、毎日こぉ、拝読さして頂いて、楽しんでいるわけでございます。
今日はそういうことで、ここまでの間、何ですわ、前置きですねん。前置きが長すぎた。(笑)
ちょっとここで、休憩をいたしまして、内容ですね、この『教行証文類』が表わそうとしている内容をですね、それを少しお話を、これからさして頂こうとおもいます。

それでは休憩をさして頂きます。なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)