近頃、こんな妙好人の話 35
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近頃、こんな妙好人の話を聞きました。手次ぎのお寺にお座が立ち、お説教があります。ところが事情があって、どうしてもお寺に参れません。そこで自分の家からお寺まで歩いて参る道のりの足数だけ、わが家の庭石を跳んで歩いて、お念仏申したという。仏恩報謝の姿です。
下関市・新地の妙蓮寺さまでは、六時にお朝事が始まり、参詣の門信徒とご一緒に、お勤めが行われています。最後は毎朝、ご院家さんが数十分のご法話をなさいまして終ります。明治から百年の歳月を越えて、連綿と続くお寺に於ける朝毎(あさごと)のご報謝の営みです。
この妙蓮寺のお朝事にかかさず参詣し続けるお同行に話を聞きました。お朝事が始まる六時に間に合うように参るのに、市内バスはまだ動きません。そこで歩きます。家を出てお寺まで四十分。
”丁度運動になってよろしゅうございます。お育てをいただいた上、お陰を蒙っております。ご恩の裡のことでございます”と、朝毎の参詣が、まるまるご恩報謝の営みであることが語られます。身の内に満ちる阿弥陀さまのお慈悲のほどが喜ばれてあります。
名号・お呼声は、わが往生治定の正定業(おちから)と、あらゆる仏さまがたが、こぞって証を立てて下さると、阿弥陀経に説かれます。されば劫を連ね、劫を累(かさ)ねても、身を粉にし骨を砕いても、仏恩の深い由来(いわれ)を報謝すべしと、善導大師が仰せられます。ここを親鸞聖人、和らげられて。
”如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし”
と、詠われました。正しく恩を知るという事が、極上最善の心だと、如来さまのお育て、ご期待があると知らるるところです。
藤岡 道夫