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新聞歌壇 30

提供: Book


新聞歌壇で見た歌ですが、

行き場なき 老いともしりぬ いそいそと 尋ねしものを 子の家に来て

子供が都会に家を建てた。来いという。嬉しいことに一緒に住もうとまでいう。それはともかく行ってみた。しかし勝手が違う、万事まちがい。

ガス器具・電子器具ばかりの家の内。説明を聞いてみても要領をえません。使えません。食事が違う。孫の好みで肉を使い脂を使う料理は、作りもならぬし毎日食べることとなると、とうてい一緒に居れるものではありません。

庭という程のものもない家に、草むしりもできず、繕いものの用事もない。電車・バスの様子がわからず、一人で乗り降りかなわぬ身では、買物一つしてやれませぬ。せめて掃除ぐらいと立上がると、お婆ちゃんは何にもせんでいいからと、手出しも壗なりません。

行き場なき 老いともしりぬ いそいそと 尋ねしものを 子の家に来て

連れ添う人を亡(うしの)うた老女の歌でしょうか。胸にしんしんと沁み入りこみあげる孤独の思い、一人なんだなあ、そんな心持ちが伝わります。

お経は阿弥陀さまのお慈悲のご用意の程が告げられます。或いは長者・居士となり、或いは豪姓・尊貴となりまして・・・遂に、行き場もない老女の思い、孤独の心に分け入り給うのです。お慈悲の用意の最初から、孤独の思いを見込んでかかられ、独りぼっちの心を取り入れ抱え込んで、名号の功徳が仕上がりました。

ナンマンダ仏と、この命に来て”独りじゃないんだよ”と、御一緒していて下さる阿弥陀さま、親さまです。

ここを吉野秀雄氏が、 ”既有其中矣とふ(すでにそのなかにあり)言の葉を 吾はつぶやく 朝・夕べに” と、弥陀大悲の中にあって、お念仏申す心を歌われます。


藤岡 道夫