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仏力を談ず (上)

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仏力を談ず 深川倫雄和上

仏力を談ず_(上)
仏力を談ず_(下)
仏力を談ず (講話)
改悔批判_(平成7年)
博多弁の妙好人
法話 義なきを義とす
ウィキポータル 深川倫雄

ご本意の願

十八願はそのまま救う。信ぜさせ、行ぜさせ(称えさせ)て救う。

十九願は色々な修行をした人を救う。

二十願はお称名(しょうみょう)を称(とな)えた者を救うとある。

さてこれをどうするか、法然上人のお弟子の間で、これをどう頂いたらいいのかと問題になった。阿弥陀さまのご本心は何だ。そりゃ十八願だよ。そりゃわかる。

皆さんねえ、本願というものをどのような意味でお考えですか、根本の願ということでお考えですね。それで結構ですが、もっとわかりやすいのはね、ご本意の願、親さまのご本心の願という方がわかりやすい。

なら何で阿弥陀さまは十九、二十願をお誓いになったのか。修行をした者を救うとか、お称名をまごころ込めて称えた者を救うという、往生の因法をなぜ用意なさるのかと、法然上人の門下で理解が違いました。

宗祖(親鸞聖人)のお示しはどうかというと、この第十八願で結構だけれども、こりゃあ仲々わからんのがおる。

わからん者に「どうせ愚かやから、どうせお前の心も智恵も駄目だから」と言えば、「ああ、さようでございますか」と聞けばいいのに、「何かやらにゃ。できん事はないですよ」と我を張る者がおって、もしこの十八願だけなら「こんな仏さまはつまらん」と逃げ出してしまう者がおるかもしれん。

そうするとこの慈悲は全うすることができない。そんなら逃げて行くのを止(とど)めねばならん。

「お前がそれほどそのまま救うという私の意(こころ)がわからんで、『修行をする者を救うというのならわかる』というのなら、修行をする者も救うから修行をしてくれや、私は救う」と引き止めるために十九願を添えられた。

しかし「修行はできませんが、なんぼなんでもそのまま救うということがあるものか、何かしなければ、まごころ込めてお念仏くらい称えなきゃあ」という。
それも止めておかねばならんと二十願を添えられた。

それがご開山様(親鸞聖人)のお領解なんです。ですからもし、「修行して救われる」という理屈がピッタリくると騒ぐ人間は阿弥陀さまのご本心でない道を行っておるとしなければならん。
これを非本願という。ご本意にあらず。

よく私は言われますよ。

「お説教はテレーッと聞いて忘れて帰れ、眠ってもいいですよ」とお話しますとね。

「バカじゃなかろうか」と言う人がおるんですよ。

私は冗談で言ってるんじゃあないですよ。説教というものは一生懸命聞くものじゃないですよ。眠っておってもいいですよ。一生懸命聞くから間違う。一生懸命にはなれんのが我々。

ちょっとなったような顔をしてもつまらん。それを親さまがお見込みです。凡夫はつまらんってね。 そりゃやっぱりまごころ込めた方がよさそうに見えますよ。一生懸命になってやってる人がよくおりますよ。「真剣な求道」といいます。

お坊さんにもおるですよ、昔から。その人達はどこが間違うておるか、「俺の真剣が役に立つ」というところが間違うちょる。
だから彼らは遠慮会釈なく「我等真剣な求道者集団」と言いますよ。

だいたい歎異鈔を大事にするのが真剣な求道になります。格好がいいですよ「真剣な求道でなければなりません」と言うと。

お坊さんでいえば名僧、お同行でいえばちょっと姿がいいです。しかし間違いです。これからも、生まれる以前も真剣になったことなどないんです。真剣になったとしたらどうなったか、

   「三恒河沙(さんごうがしゃ)の諸仏の
     出世のみもとにありしとき
     大菩提心おこせども
     自力かなはで流転せり」
         (親鸞聖人『正像末和讚』)


真剣な求道をやったけれども私の自力では駄目であったから、また迷ってきました。真剣な求道はいけません。

ご開山様も真剣な求道とはご自分からは言われない。我々からみれば真実にご法義を求めたお方だというかも知れません。しかしそれもあまり言わない方がいい。

「このうえの称名はご恩報謝」。真剣な求道をやってると、ご恩報謝の人格にならない。

阿弥陀さまは片道の人格を期待なさってある。また仏辺から言うと如来さまはご恩報謝の人間を求めておいでになる。

おたすけではありませんよ。おたすけは「できそこないをそのまま救う」だが、そのうえからは、この世滞在の間、「ありがとう」と言える人間を求めておいでになる。

ところが真剣な求道やってるとそうはなりませんよ、きっと言います。

「私は七十年、真剣にご法義を聞いてきた」とすぐ言いますよ。
いらん事は言いなさんな。向こうさまは兆載永劫(ちょうさいようごう)だよ。
わが身の側を重大視すると、自分のしたことを言わにゃあおられん。
あなた方もそうでしょ、家を建て替えた人がこの中にもおるかもしれんが言わんほうがいいですよ。

「私の代に建て替えた」といっても、建て替えた木はじいさんが中刈りしとったから出来たんじゃあないか。 「私の時は生活改善で台所をやり変えた」と言うが、昔のじいちゃん家ごと建て替えたんだぞ。

自分のした事が大きく見えてきます。百のうち五つしますと、段々それが十になり二十になり、三十になり五十になり、八十まで俺の自慢がはじまる。だから求道はいけません。

さてそのようにして十八願、十九願、二十願を理解しとかねばなりません。「そのまま救う」のご本願。十九、二十願はわからん者のために用意をなさったのです。


選択はお称名

「法蔵菩薩の選択(せんじゃく)はお称名(しょうみょう)。聖道門は知恵もいれば難行もせにゃーならん。それが我々にはできないから、我々ごとき者には易行(いぎょう)の称名をさせて救う」と考えておる者が多い。それは間違いです。

易行ということは、勿論喜んで結構なことです。如来さまはこの凡夫の為に易行の称名をご用意くださった。けれども、愚かだから、劣っているから易行にしたんで、賢いから、勝れているから聖道門をやるというのは間違いです。

「出世の本意は聖道門でなくて浄土門です。」というのが、ご開山様(親鸞聖人)の心もち。 では、聖道門は何か。聖道門は少しえらそうなのが、「そのまま救うってバカにするな」という人がいる。 修行をして心をきれいにしてこそ、よけれと思う人がいるから、「そんなら暫くやってみろ、きっと、手を上げ、音をあげるぞ」と、わからん人に用意をしたのが聖道門です。 だからみなさんのように「そのまま救う」がわかったのが一番りっぱなんです。

「説教中に眠ってはならん」と思うているのは、まだ聖道の気配が残っておる。

「蠅を打ってお称名した。何んでそこでお称名するのか」との質問があった。 殺したからです。「殺して南無阿弥陀仏と言うくらいなら、殺さにゃええじゃあないか」とえらそうな人がいう。 「このうるさい」ちゅうてね、「五月蠅(うるさい)」という言葉は蠅という字を使うが、「この五月蠅のを打たずにおられるか」というのが凡失なんだ。 「蠅を打たずにおられるか」、だから打つ、その打つものが「そのまま救われていくとは、罪深いまま救われていくとは勿体ないことだ」ちゅうから、「南無阿弥陀仏」とこうくるわけです。

そして打って「南無阿弥陀払」と罪を消すんじゃーないですよ。だから我々はあまえているんです。

だいたい世間では「あまえる」というのはいいことではないとする。だから言うものがある。「真宗の者は阿弥陀さまの本願にあまえている」と。 私はあまえるがいいと思うとる。私は九つの時に母が死んで、あまえる人のいなかったさみしさがずーとありますがね。あまえていいという事は、ありがたいことですよ。

子供さんでも、嫁に行ったのが帰るやいなや泣くのがおるでしょうが。よかったね。他所へ預けられたり、他人のもとで暮らして泣く事が許されない。何んという辛い事でしょうか。

ここに親さま一仏あって、「泣いてもいいぞ、泣けるぞよ」という。 「おまえをゆるす」という人がいらっしゃるから、そこであまえていく。これからもあまえたがいい。

あまえることのできる親さまだからといって、いい加減な事はしませんね。 嫁に行って帰って来て 「何んちゅうても姑さんがきついから辛い」と泣く。 「おお、そりゃあひどいのお、おお、今になって、子もおるのに帰れとも言えん、お母さんが悪かった。財産があるから行ったら楽するじゃろうと思うてやったけどすまんのお」 親も泣きよる。なんぼお母さんが泣いてくれるちゅうても、 「それじゃから主人も好かんし、私しゃ、男のええのをこさえた」 「バカ!」。 なんぼあまえるといいましても、それは一人一人の心がけがあるから、あまえるから悪い事をするという人はそんなにおりませんよ。

蠅を打つのはやはりあまえている。ほんとうに殺生(せっしょう)の罪が、どうもこうもならんものなら蠅も打てませんよ。 蠅を打って「南無阿弥陀仏」って、一殺生の罪を一声の称名で消しているかってそうではない。 あまえて蠅は打ちっぱなし、刺身は食いっぱなし。人の悪口は言いっぱなし。そのまま救われていくので、親さまの前でこの横着者があまえています。

もしそれ、その中において、慎むことあらば僅かに営むことのできる御恩報謝であります。

罪ばかりの生活の中から、ほんの少しではあるが御恩報謝をする。 今のお称名。蠅打って南無阿弥陀仏。御恩報謝であって、決して罪滅ぼしではない。 あまえて生きてゆきましょうよ。あまえられる人がいていいですよ。泣くのに今の嫁さんは三面鏡の前で泣く、昔の嫁さんはお仏壇の前で泣いた。

私のところで子供の念仏研修会をします。毎年、言う事に決めております。

「あのね、校長先生もクラスの受持ちの先生もこわいね、おじさんもこわいね、この世の中は皆こわい人ばっかりやね。まあ中でもお母ちゃんが一番いいね。それでもお母ちゃんも、うるさい事あるで」と子供に言うんです。

「このまんまんさんだけは決して叱りません。あなたがたがどんな悪い事をしても、まんまんさんは決して叱りません」という事にしてる。

そしたら門徒の中に、

「ご院家さま、この間はうちの子がお世話になりまして」

「ああ、念仏研修にやって下さったですか、ようこそやって下さいましたね」

「ご院家さま、子供が寺へ泊って帰って来て、すぐ私は聞きました。ご院家さまのお説教はどんなお話しじゃったか」

そしたら

「『お母ちゃん、阿弥陀さまはどんな悪い事をしても叱りなさらんというお説教があった』といいます。ご院家さん、あんな説教してもろうちゃあ困ります」といわれた。

二十年も前、幼稚園をやっておられるお寺にお説教に行った時、

「うちの幼稚園では、見てござる、知ってござる、聞いてござるという教育をしております」

じゃから私は

「ほう、それは誰が見てござるのですか」

そしたら坊守さんじゃったが、

「そりゃあ阿弥陀さまが見てござる。幼稚園ですから、みほとけさまが見てござる、聞いてござる、知ってござるという教育をしている」と言う。

「あんた方の阿弥陀さまは、隠密みたいなのう」

そしたら

「彼此三業不相捨離(ひしさんごうふそうしゃり)(善導大師『観経疏』)という事があるじゃーありませんか。

衆生常に仏を称念すれば、仏常にこれを聞きたもう。
衆生常に仏を礼拝すれば、仏これを見たもう。
衆生常に仏を憶念すれば、仏これを知りたもう。
衆生の称礼念(しょうらいねん)と、仏の見聞知(けんもんち)と彼此三業(ひしさんごう)相離れず

とあるじゃーありませんか」などと調子のええことを言う。

あの小さな子供に見てござる、知ってござる、聞いてござると言ったら、それは隠密のような仏さまを与えることになります。

結果的になんぼご院家さんがうまい事いうても、保母さんが叱る時、「先生が見ていなくても、ののさまがみているよ」と言うに違いない。 いたずらも、何もかも監視つき、隠密のような阿弥陀さまを与えている。

丁度、念仏研修会で子供に「まんまんさまがいつも見とってじゃから、隠れて悪い事をしても、まんまんさまが知っとってぞ」という説教をして欲しいわけでしょうが、この仏さま、阿弥陀さまはどんな悪い事をしても、決して叱りなさらん。『よしよし、しまったねえ、また失敗したか、よしよし』とおっしゃる仏さまです。

「そんな説教してもらっては困ります」みなそういう頭を持っている。

しかしこの生き難い、生きるに難しいこの娑婆において、一切をゆるし、あまえてよろしいという依り処を持つ。これはうれしいことです。皆さんも長い事はないですよ。 最後にねえ、 「これでおしまい、お前達にも長いことお世話になったのう、先に参らせてもらう」というその時に、子供達は 「じいちゃん、がんばらにゃあ」と言いますよ。 たいてい頑張って来た。八十年も頑張ってきたのに、娑婆のものはまだ頑張れという。 親さまはそうはおっしゃらん。 「ご苦労じゃったなあ、私はずーと見捨ずに来たが、これからも今も見捨はせんぞ」とおっしゃる。 そういう親さまを持って死んでいった方が幸せであります。 そこのところ大切です。

聖道門は賢しこくて難行に堪える人であるが、愚かで難行に堪え得ぬ者のために易行道があるのだという考え方は間違いです。

ご開山様は、「一乗海・誓願一仏乗」(『教行信証』行巻)とおっしゃる。 この道一つ。ご本願の道、唯一つという意味。 「二乗三乗あることなし、二乗三乗は一乗に入らしめんが為なり」(『教行信証』行巻)。聖道門がいろいろあって、一見その道も証りに至るように見えるけれども、その道は行き止りであります。

あれはお釈迦さまが浄土門へ入れるために用意なさった道でありまして、あの人達もいずれはこの本願念仏の道に来るのであります。

聖道門は「そのままこいよ」がわからん人のために説かれている。これがご常教です。そう心得て頂きたい。

ご信心に入るカリキュラムはない

ご信心になる方法はありません。真宗の信仰に入る道はないんです。

それなのにみんな道があると思ってる。だいたい自分の思うとることが賢いと思うことから間違いだと親さまがおっしゃるのに、まだ自分の頭を使おうと思うとる。

真宗に入る道はない。真宗入門なんていらんお世話だ。入門するのもおればせんのもおる。そんな事、知るか。

入門の道はない。何故か、真宗とは向うから来て下さる法である。
わが輩のこの頭は何事であろうと稽古がいる、訓練がいる。宗門でも研修会というがおかしいこったね。研修会、よい言葉でないね。あれは何ちゅうか、「報謝会」ちゅうた方がよかろう。
何でも訓練がいるが、ご当流には訓練がない。一見あるように見える。真宗に入る道が何かあると言う人が、「お聴聞じゃ」と言う。

ほう、なら他力が九十で、お聴聞が十で、合わせて百か。お前かたの親さまは九十か。九十パーセントか。

全分他力。ならお聴聞は? お聴聞はご恩報謝です。

そう言うたら、あるお同行がね、
「お聴聞がご恩報謝というのは、信心頂いた人や。信心頂いてない人は、信心頂くためのお聴聞や、そうじゃあないか」という。

私はわざととぼけて「知りませんよ」と答えた。
「何故知らんか。あんた和上(わじょう)さんじゃあないか」

「私は和上さんじゃが真宗の和上さんであって、浄土真宗のちょこっと前の和上さんじゃあないぞ。真宗の門の外の和上さんではないぞ。真宗の門の中の和上さんだぞ。信心の和上さんだよ。入信の和上さんではないぞ」

なんでこんな事いうか。世俗は何んでもかんでも道があって、訓練があって、磨きたてたら余程ええかと思うちょる。

ご当流はこの頭の理屈と違う。逃ぐる者を追わえとる。向うから来てくださるご法義なんです。 向うから来てくださるご法義に、なんでこっちから行かにゃあならんか。だから、求道という人達は間違うとる。
求道を言う人達が真剣な求道というが、その人達にとって阿弥陀さまは多分むこうにあるでしょう。だから一生懸命寺参り、一生懸命道を求めて頂こうとする。逃げても来てくださるものなのに。 理解が違う。求めて得るものと違う。真宗は他力です。来てくださる。真宗に入る道はないんです。

それなら、お聴聞は何か。「そのような広大なお慈悲じゃから、聞かにゃあすまんぞよ」というご報謝なんです。

だったら信心頂いていない人のお聴聞は何か。ご信心を頂いてないというのは、真宗でないということです。

「このお堂の中にも、信心頂いてない人もおる」と言う。

いらんお世話。このお堂は、十八願のお堂だよ。 これは十八願に入るためのお堂ではないよ。ご恩報謝の金出して、畳が敷かれて、参詣衆はみな信心の人です。

「そんなことはない。調べてごらん」と又言う。

調べん。調べんことになっとる。何故か。親さまが五劫が間調べてくださったのを、今更、愚かな凡夫が調べる手はない。

親さまがよう調べてくださったんだ。どうお調べになったか。 凡夫は仏法ぎらいで逃げる者だと、みんな調べてあるのに、なんでこちらが又調べんにゃあならん。そうでしょ。

近頃、お坊さん達が門徒を調査しようとする。心もちの中で門徒の信仰ぶりを調査して、信心の人にしようとしている。
いらんお世話。門徒のことを考える暇があるなら、「当知今将談仏力」(親鸞聖人『入出二門偈』)、仏さまのことを考えましょう。 そうでしょ、用心せにゃあなりません。

もしそんな事を言うのなら、お葬式を改めねばなりませんよ。

「あの人は信心でいうたら十のうち五くらいじゃから、五くらいの葬式じゃな」

信心浅い者の葬式と、信心深い者の葬式とどこかありますか。ありませんよ。

私そう思った。ご門徒で死産があった。お葬式に行きました。その時、

「本願力(ほんがんりき)にあひぬれば……。」(親鸞聖人『高僧和讃』)

この子は遇(お)うておらん。死んで産れた子。なんで本願力に遇(あ)いぬれば空(むな)しく過ぐる人ぞなきと、お勤めするのか。
なら真宗には赤ちゃんの葬式、まだ信心頂いておらん子供の葬式、日校に通って来た子供の葬式、説教中に眠った者の葬式、眠らない者の葬式と色々作っておかにゃあならん。しかしないですよ。みんな一色ですよ。みんな一色です。
そして、

「本願力にあひぬれば、むなしくすぐるひとぞなき」どういう事か。 空しく過ぎたらどうなるかというと、また迷わねばならん。

しかしご開山さまのご和讃をそこで勤めるというのは、
「ああ、よかったな、阿弥陀さまのご本願頂いてお浄土へ往く」という葬式。
寺へ参っとらん。その参っとらんのが死んでも、「本願力に遇いぬれば」です。

何故か。ご当流はご本願のお宗旨だから、ご当流はご本願、真宗だからお別院のお堂であろうが末寺の庵寺であろうが、これはご本願のお寺で、ご本願の畳で、参詣衆はみんなご信心の人なんです。それが建て前ですよ。
そりゃあ、その人が言うように信心でない人がいるかも知れんが、そういう事はいらんこと。そんなことは言わんことになっているんです。

教育の論理と違う。教育の論理でない他力おたすけの論理。間違えんようにせねばならん。

教育の論理を持ち込むと「お念仏称えたら信心になる」とか「だんだん解ってきた」とかいらんことを言う。何か信仰に入る道があると思って真宗入門と言う。
教育の論理ではない他力おたすけの論理です。

軒端(のきば)に巣を張る蜘蛛までもおたすけくださる親さまのお慈悲です。

だったらなにしに寺へ参るか。信心頂く、たすかるために参るのではない。たすけてくださる親さまのお話しを聞かせて頂く。ご恩報謝です。

求道というのは大きに間違いです。求道をいう人達の阿弥陀さまは、どこかにぶら下っているに違いない。

そんなんではない。いつも私にきて、骨の髄まで染み込んで心の底まで動かしてくださって、ご恩報謝のお称名も他力催促であるというのが、宗祖のご解釈。

阿弥陀さまは法蔵菩薩の昔に讃嘆(さんだん)をなさいました。仏さまになるために讃嘆門をやりなさった。
そして衆生にのちのち讃嘆させようと思っていらっしゃった。だから私どもが讃嘆するのは法蔵菩薩、阿弥陀さまの讃嘆させようというお意のあらわれです。
すなわち他力催促の大行ということです。しかしそれなら又、屁のように思う者がおる。

「如来さまの催促だから、思わんでも、努力せんでも出る」それなら屁です。努力するんです。

私どもは堂々たる一人の生活者です。自分で判断をして自分で生きていく一人の生活者です。だから自分で努力をしてお称名する。時々聞かせて頂いたお味わいを取りだしては「こうまで申すもご恩の力なり」(『親鸞聖人御消息』西本願寺版聖典第13通)と慶信坊(きょうしんぼう)のように時どき取り出しては他力催促でありましたと喜ぶ。
日常はそんなこと一々思うちゃおられんから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えます。腹をたてちゃすまんぞよと、さまざまな心がけがあります。

愚者になりて

この阿弥陀さまのご法義は、凡夫(ぼんぶ)を救うご法義です。ですから凡夫を救うご法義のようにできておるんです。
これを浄土教の綱格という言葉で言います。

このご法義には枠があります。いかなる枠か。愚か者が救われていく世界、そういう枠の中である。 だから、お天道(てんとう)さまのしずむ西方のお浄土に、光りかがやくお慈悲の親さまが待って下さってある。ここまでお徳を全部載せた南無阿弥陀仏の声になって私に届いて下さってある。
これをご報謝として称えながら、死んだら結構なお証(さと)りの国に参らせて頂くというのであります。

そんならば、我々は自分にいい聞かせて、愚か者のところに落ち着く訓練が必要です。こざかしい知恵でね、そりゃ頭は考えるようになっておりますよ。考えるならちょっと賢こそうに考えるのも一つの手ではあるが、愚か者になるように考えるのも一つの手であります。

私の寺のご門徒でも、ずーと回るとねえ、嫁と姑というのはだいたい仲が悪い。そりゃあ、どっちがいけんかというと姑が悪い。だってバアさまが先輩じゃあないか。きた嫁はまだ小娘に毛のはえたようなもの。それと闘うものがおるか。何故そんなに仲が悪いか。こざかしいからであります。

うまくいっとるところもあります。それはね、パアちゃんの方がバカの真似がじょうずなのです。
嫁さまが「こうですよ」と言うと、「ああ、そうですね」と、こう言える人間、ありますね。

そうして、それは丁度お念仏と一緒です。科学の、あるいは哲学風な、道徳の、いろいろな考え方をお持ちではあろうが、

「お前は愚かやから、お念仏を称えてお天道さまがしずむ、ずーと向うのけっこうな国に参らせるぞ」と、愚者向けのご法義ができておるなら、愚者の真似をすることに努力をした方がええですよ。

すばらしいことです。世の中にはお念仏を喜んでおりながら、非常に知恵のある学者もおいでになります。現在も、昔もありました。
その人達が、実はたいへん勉強、研究をしながら、自分の信仰生活としては、「愚か者の私が、お称名を称えて、死んだら参らせて頂く」ちゅうて、生きていらっしゃいます。

「未来の生処を弥陀の報土と思い定めて、ともに浄土の再会を疑いなしと期(ご)す」(覚如上人『口伝鈔』)

「遇(あ)いますよ、今度はお浄土で遇いますよ」と言える老境になり、そういう臨終を迎えたいと思うですね。それは愚か者に落居するということです。

真宗のお説教

真宗というのは、我何をなすべきかという説教は、せんことになっておる。

ところが、我々は、我何をなすべきかが問題になってしょうがない。なら真宗の説教は何かちゅうと、「如来何をなし給うか。」

これが真宗のお説教であります。如来さまが浄土真宗、ご本願でありますから、如来さま何をなし給うかが、お聴聞であります。

しかし我々は生活者でありますから、何をなすべきかが気にかかってしょうがありません。しかしどうぞご自分の中で工夫をこらして、自分にいい聞かせて、

「あんたあ、お念仏に関しては、我何をなすべきかを問題にせんようになさいませよ。そして如来何をなし給うかを聞きたがる人間におなり」と言うようにした方がええ。

この如来さまからの言い方を、私どもは、約仏(やくぶつ)という。仏に約する。
仏さまの立場からのお示しに、気をかける人間になるのが大切であります。

我何をなすべきかというのは約生(やくしょう)であります。
私どもの側から、何をなすべきかということに気をかけていきますと、たいてい狂うてきます。間違いではないが、そうなってきます。

例えば、ご安心(あんじん)のところでも「弥陀をたのむ」とありますね。
「弥陀をたのむ」とあるのは私どもの側です。
阿弥陀さまの側からいうたら、「たのませて、たのまれたもう親さまですよ」と言うんです。
「逃げる私を追いかけて下さる親さまですよ」ちゅうのが仏さまの側。

『御文章』の中でもありますよ。私どもの側、約生があります。「弥陀をたのめ」。領解文の中にもありますね。でもそれは間違いではありませんが、私ども自身が「我何をなすべきか」ということを、朝から晩まで考えておる。そのやり方をそのままご法義の中へ持ち込んできますと、他力がわからんようになる。

阿弥陀さまは他力であって、私がしゃんとしとるから救われるわけではない。親さまがしゃんとしているから救われるわけです。
その親さまがしゃんとなさっていることに、気をつけるようになさった方がいいです。我々のすることはご恩報謝であります。


お慈悲のあるやり方

お説教というのは、よくできとると思いますよ。こうして私が、どんどんお話しします。みなさんはよう聞くような顔をして、座っておけばよいのです。解っても、解らんでもいいんです。そしてすんだら、「もろもろの……。」ちゅうて帰りゃあええ。

非常に私は、お慈悲のあるやり方だと思いますよ。

お聴聞しておりますとね、「ああそうか、そうじゃったのか」ということがね、この三日間のうち一遍くらいある。その時も知らん顔しとけばいい。

「ああそうじゃったのか」ちゅうて気づいて、早やわが輩は七十を過ぎておる。「ありがたそうな顔をして、聴聞してお称名しよったが、そこのところがやっと解ったか。」と言われちゃあたいへん。 ですから、その時も知らん顔をしとけばええ。そして四十の頃から知っておったような顔をしとけばいい。

そんな顔ができるような形式になっている。これが説きっぱなしのお説教。

学校は違う。学校は例えば、

「ええ、今日は第18章をいたしますが、昨日の事についてお尋ねをいたします。はい、〇〇さん」、尋ねられたらたいへんですよ。

それをせんことになっている、そこに非常にお慈悲があると思う。

これがお慈悲のやり方。

三日なら三日間のお聴聞、その間に、「ああそうか」ってありますからね。それもしまっておいて、黙って、ただ喜びはお称名一つにあらわせばいいわけです。そういうことでお聴聞を願えばいいのであります。

学校教育は違います。

どこまで解ったかちゅうてね、

「はい、〇〇君、君(きみ)、今言うたことが解ったか」

「はい、解りました」

「どう解ったか」、解っちょらんと大事(おおごと)。

「解っちょらんじゃあないか」

問題を出して答は何か、ハイ、ハイと手をあげて、これが謂ゆる教育です。
『口伝抄』に「こしらえおもむけば」とある。

覚如上人はご門跡さまですから、教えの位の人です。だから「こしらえる」という言葉をおっしゃる。

私自身、お説教しよって、「知るかあ」と思うちょる。眠っちょろうが起きちょろうが、解かろうが解かるまいが、救われようが救われまいが、「知るかあ」ちゅうのが私の気持ちの底にあるんです。

それを私が非常に熱心に、今も熱心でないとは言いませんが、「あなたがこう思うておるのは、こう改めるようにせねばならん」というならば、それは高上(たかあが)りです。

だから泣き嘆いておる人に仏法を勧めなさい。泣き嘆こうが、喜んでおろうが、苦しんでおろうが仏法を勧める一つ。
しかもそれも、こしらえ、育てる勧め方ではなく、阿弥陀さまがおたすけ下さるということを告げるだけですね。解ったものもおれば、解らんのもおるんですよ。

十八願のお話をずっとする。そうするとね、解らんのがボウフラみたいにいっぱいおる。ボウフラちゅうちゃあ、すいませんがね。
ボウフラちゅうのは、水をバシャ、パシャとやると、「ウワァ」と大騒動をする。お説教を聞きながら、「わけが解らん」と大騒動しよる。「知るかあ」、ボウフラがなんぼ騒いでも知るか。

私は他力をお話しするだけ、お勧めするだけ。

この人をこしらえるのは、私の仕事ではなしに、仏さまの仕事。「なんで解らんか」って、そりゃあ、聞いとる連中が間違うとる。

「真実の信楽(しんぎょう)実(まこと)に得ること難(かた)し、何をもっての故に、いまし如来の加威力によるが故に、博(ひろ)く大悲広慧(こうえ)の力によるが故なり。」(親鸞聖人『教行信証』信卷)

仏力。他力であります。

何故わからんかちゅうと、自分の考える力を使うとるから。自力にとっては難しい。『阿弥陀経』でも「難信之法」とありますしねえ、信ずることは難しいといっぱい出てきます。何故、難しいというのか。やさしいやさしい「そのままおたすけ」と言うじゃあないか、とおかしい点がありましょ。

自力では難しい、解らんわけです。解らんから大騒動する。大騒動しなかったって私の知ったことではありません。

ところが、親切なお坊さんは、解らん人のところまで手を伸ばしたつもりで、「あんたあ、こう思うちょるが違うぞ」と引き上げるつもり。それが教育。「それは間違い。こうですよ」とやる。これやってもたいしたことはない。
自力で一生懸命やってる人に「間違い」と言ったところで解りません。だって思い込んどるのに。替りのものを与えにゃあ駄目。

私がつくづく思いましたのはね、ご門徒のお仏壇に、今はありませんが、妙なものが掛っちょった事がありましたよ。
弘法さんやお不動さんやらありましたよ。若いから、景気がよかったから、「あれははずしなさい」と言う。

けどはずしません。これはいけんと思い、

「ご開山さま(親鸞聖人)のご絵像を求めませんか」そう言うと、

「お願いします」、ご開山さまのご絵像をもって行った。

「これはどこに掛けますか」

「あのお不動さんのところへ掛けます」

「ならばお不動さんはどうしますか」

「ありゃあどけなさい」、

するとのけます。ご開山さまのご絵像も何も出さずに、手ぶらでね、「どけなさい」と言っても駄目です。のけたら中が空になる。かわるものがあれば、お不動さんははずれていく。
ところ天でも突かにゃあ出ん。

ご開山さまで突くとお不動さんが出るわけです。ところ天を突かずに、引っぱったらちぎれます。突けばだまって出るんです。
それを「いけません、いけません」って言うたって、かわるべきものがなければ「いけません」が捨てられません。

自力がいけませんという暇があるのなら、他力、ありがたいお慈悲を与えれば、自力は出ていくのです。

先日ね、直方の西の方のあるお寺で「フォークソングと説教の会」というのがあった。フォークソングってあんたがた、おとしよりの中には解らん人もありましょうが、フォークソングちゅうのは、西洋浪花節。二十か三十の坊ちゃん、嬢ちゃん、行ってみたら百何十人きております。

そこで説教しろ。困ったことになったぞよ。そしてご院家さんというのがまだ二十九歳。

「集ってくるのは、仏とも法とも知らん者ばかりですから、これからお寺へ参って聴聞せにゃあならんような、お話をして下さい」

そんなこと言うても、うまいこといくかい。そんならどうするか、そういう人達に、「あなたがたの考えは間違うております」と言ったら、参ってくるでしょうかね。駄目です。絶対、言ってはいけません。解かろうがわかるまいが、それこそ「知るかい」、知るかい。

そこで二十代、三十代の人達に五十分、

「法蔵菩薩というお方がおいでまして、一切世間の生きものをご覧なさいまして……」ってお話をしたんですよ。
そしたら後でその若いご院家さんが、一ヶ月くらいたってから、お礼を言うといてからね、

「どねえしょうかと思うた。百人以上の若い者が参っとるのに、先生が法蔵菩薩の話をはじめた。これでどうじゃろうか、みんなにゃあ、わけが解るまい。そう思いながらずーと聞いておったら、ああ、うまいこといった、お説教ちゃあ、あねえなもんじゃろうかと思うた」とその住職が感心しとるんです。

私の話がよかったかどうかは別問題にして、住職が感心する。そやから言うたんです。

ご院家さん、あんたがいらん心配するなよ、法蔵菩薩が阿弥陀さまになったぞよというお姿で衆生を救うと、仏さまがご苦労くださった。工夫なさった。「これじゃあ、みんなが聞くまい」と、あんたがいらん心配するなよ。仏さんが心配してないんだよ。

仏さまのご信心ちゅうのがあるぞ。ご開山さまが、お三部経のご解釈をなさったのに、仏さまの信心ちゅうのがあるよ。 「至心信楽欲生我国」は仏さまの信心。仏さまの信心が私にきたから私の信心で、賜わりたる信心、他力の信心。

仏さまの信心ちゃあ何か。「これでたすかるに間違いがない」という決定金剛心(けつじょうこんごうしん)でおしまい。「これでたすかってくれるに間違いがない」

これとは何か。

「わしは法蔵菩薩と出かけて南無阿弥陀仏になった。仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞かせたら、一人残らずたすかってくれる」という決定金剛心が如来さまにあるわけです。

それを若い住職が疑うちゅうわけじゃない。どこに行っても法蔵菩薩の話は、如来さまご自身に自信があるんだから、あんたもそれでおやりと言ったことがあった。

ところ天でも突かにゃあ出んのですよ。ひっぱるだけでは駄目なんで、突かにゃあ出ん。なんぼ二十じゃろうが、三十じゃろうが、法蔵菩薩が阿弥陀さまになるちゅうこの浄土教。

阿弥陀さまは、一切衆生、軒端に巣を張る蜘蛛までも救おうちゅうんですからそれでええわけ。だからそれを説けばええのです。


科学の頭をのける

ご法義は科学の考え方ではないのです。科学の考えを持ち込んでいったら解りません。

そして私どもが生きているのは科学の考え方ではないのです。「こうしたらああなる、ああしたらこうなる」と科学はいいますが、私どもの心を変える事はできません。

「あれは憎い奴だ、いつかみとれ!」というて、青白い怒りの炎をあげて恨みの心を持っておる。それを変えてくれる科学の機械があるか、科学の方法があるか。
そして我々は科学でない心で生きておる。

「私しゃあ茄子の味噌汁が食べとうてならんのに、嫁が絶対『あれはアクがあるから好かん』いうて炊かん」と、ばあちゃんが言う。

「そしたら何の間違いか、あの憎たらしい嫁が茄子の味噌汁を炊いた。食べとうてならんけど、絶対に食べちゃあやらん。」

この心を、科学はどう始末してくれるか。嫁憎いあの心、食べたい茄子を食べん心、科学が始末してくれるか。

そういう心に関与してくださるのは、ご法義だけです。ですから、どうぞご法義聴聞につきましては、科学の頭を除(の)けて、ご常教、ご法義の頭で聞いて頂きたい。


カプセル

我々は人さまとおつき合いをして「この人はいい人だ」と思われようと精一杯じゃあありませんかね。こりゃあね、あまり誉めたことではないですよ。

仏法というものは、人間の交際を軽くしておる。人間の交際というのは、私と人々との交際であって「あれからよう言われたい、これからよう言われたい」と、こうなる。

その人間の交際、やめられはしませんが、人間の交際を軽くして、私と阿弥陀さまの交際世界を重くするのが仏法、お念仏であります。

「こうしたら仏さまがお喜びなさるか、こうしたら仏さまがお悲しみか」というやり方が仏法のやり方です。

「こうしたら人が悪う言やあすまいか、こうしたらあの人からよう思わりゃあすまいか」ちゅうのが、人と人との交際であります。

ねえ、途方もなく誉められた人間がおったところで、それはその人を誉めた人の功徳ではあっても、誉められた人の功徳ではありませんからね。
人に誉められて肥えたちゅうのは聞いたことがない。
人が悪口を言うたら、タラタラと血が流れた。そんなことは聞いたことがない。
人を誉める人がおったら、誉める人の心が肥えていく。人を悪く言えば、言う人の心から血が流れておるんだ。

誉められてもどうもない。貶されてもどうもないはずなのに、そのはずなのに一生懸命になって、誉められたい、悪う言われとうない、ということに心を使っておる。
これは除(の)かんかも知らんけれども、仏法に心を志すということは、なるべくそういうところに気を配る心を遠ざけて、私と仏さまとの交際を重くするのが仏法であります。

これも一つのご報謝でありますから、ご自由でありますが、心がけてまいりますというと、そう難しいことではありません。

そのかわり人から「あの人はつんつんしている」と言われるかも知れません。
「あの人はつっけんどん」と言われるかも知れません。
言われたってどうせ、その人とつき合いをやめる日がくる。どんな仲のよい人ともおつき合いをやめる日がくるんです。

たった一人の旅立ちであります。旅立ちだけが一人ではない。今生きておるときから、だいたいはたった一人なんですね。

私の心を覗き込んだ人は一人もいない。又、私の心を断ち割って見せてもいい人も、一人もいないし、それはできません。私どもは自分の心を抱いて、自分が人生を渡るだけです。

この間、私はお医者さまにかかりましてね。大きな薬をもらいましたよ。カプセルといいます。外から中へ湿気が入りません。薬がこぼれません。便利です。

そうですね、私達はまっ黒なカプセルの中に心を納めて生きておるわけです。湿気が入らないように、誰も覗き込みは致しません。 薬がこぼれないように、何から何まで外にあらわすことはできません。

そしてそのような心、人の心を見たことは一度もありません。自分は、人には見えないカプセルの中に心を納めて、トボトボと歩いておるだけです。
淋しいですね。淋しすぎるから、おたがい見せ合いたい。見せ合いたいけど、めったな者には見せられんですよ。

ところでおたがい、いい友達が一人か二人はいるものです。いい友達というのは、たいてい、ろくでもない奴ですな。悪い人間がいい友達。

それから、ええ人間とはねえ、あまりつき合わんですよ。あんた方、つき合わんと思う。修身の教科書みたいな人とつき合うのはいやですな。

それよりは、昔なら、一緒に女を買いに行くようなのがええですな。何故かというと、私の心のカプセルの中を、相当程度さらけ出して見せても、「おまえもかあ」ちゅうて終りなんです。

ところが修身の教科書みたいなお方に、カプセルの中をあんまり見せてるちゅうとね。「何ちゅうことを考えなさるか」、こうくるからね。こりゃあたいへんです。
ですから心おきないよき友というのはね、大方、悪いことを見せ合える仲間であります。

この中には誰も入ってこん。この中へ入ってきて下さったのが、親さまであります。
「覩見諸仏浄土因、国土人天之善悪」(親鸞聖人『正信偈』)と、一切衆生の奥の奥までご覧くださって、何とおっしゃったか。
善導大師のお言葉で言えば、「ただ愁歎の声を聞く」。ため息ばかりが聞こえてくる。

カプセル、心の中はくしゃくしゃ。おおもめ。くしゃくしゃ、おおもめを、悪い友達に、ややこしいね、いい友達は悪い奴ですから、悪い奴、その親友なら聞いてくれるちゅうから、

「私はつらい、こんなにつらい」

千万言ついやして喋っても、その通りには知ってはくれません。

「誰か私の苦しみを知ってくれないか」

と言っても、その通りには知ってはくれない。みんな言う。その証拠に、私が泣き歎くほどに、人の心の苦しみを受けもったことがないじゃあないですか。

ただここへ、「衆生の苦悩はわが苦悩、衆生の安楽わが安楽」、人に言えない私のカプセルの中へ、住み込んで下さったが南無阿弥陀仏の親さまであります。
だから人には言えんような心が動いた時、「ナマンダブツ、ナマンダブツ」、称仏六字即懺悔。「又、品の悪いことを、なんぼ人が見んというても思うわい」と、懺悔の心で「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」

「ああ、以前はあんな心もちじゃったが、近頃はご恩報謝、内々、心に努力をしたところが、少しゃあ如来さまのお好きな方向に育てて頂いたわい」

「よかったなあ、こうして喜ばして頂く、これもお育てかい。」

称仏六字即嘆仏。仏をほめ奉ることになる。

すべて、このカプセルの中であります。人が見るのは外ばっかり。
ですから私ども、内側ではわきの方を向いておる気持ちでも、友達には反対を向いてる思いですと言えばええんですからね。
友達はそれを聞いて「そうか」ちゅうて、うまいことそこを済ますことができる。人生はごまかしだらけやな。ごまかして、ごまかしてねえ、又ごまかさにゃあならんのが世の中です。騙さにゃあならんのが世の中です。

しかし「私は騙して騙し通しての人生であった」と思える身までになったのは、親さまに見て頂いたから。
親さまは、内も外も見て下さった。「なんと内も外もおかしな奴じゃのう。だけどもそのまま救うぞ」であります。それを聞き聞きしますうちに「その通り、その通り。私は人を騙してばかり暮してきました」と、又「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と懺悔であります。

今、騙して生きており、これからも騙し続けて生きてゆくであろうというのが、念仏の上の悪人なんです。

虚偽で固めた私であるという自覚が出てくるのが、ご恩報謝であります。

「そんならやめたらええ」、やめられるか。この国は嘘で固めた国であります。

それを恰好のええことばっかり言うて、「騙しおおせたわい」とほくそ笑む時、その人は内に如来を住まわせていない人であります。

我々は如来さまに見て頂いた。人に隠しおおせるカプセルも、中をお見抜きの親さまを持つ。

ならどうするか。中でのできごとではあるが、「浅ましい私でございます。嘘だらけの私でございます」ということになる訳です。その為には、あんまり外を飾るのはやめた方がええわけです。


独生独死

人間に生まれたのは、たいへん立派な功徳(くどく)があったから生れた。めずらしいことでありますが、せっかく生れても、ここで地獄の業(ごう)を積みますから又、地獄へまいります。これが仏教の世界観。

ところがこれは科学の世界観と違うから、いわゆる現代の人達、いわゆる科学が余程りっぱなものだと思っておるような人達が、そのような六道輪廻の世界観を笑うのです。

それなら科学で生きておるかというとそうではない。

私どもは科学で生きてゆくわけにはいかんのです。科学で生きてゆくならそれこそ、人が死んで泣く事はありません。犬も死ねば馬も死ぬ。車にひかれる犬もおれば猫もおる。

おまえのところのお母さんが車にはねられた。そりゃあること。あることだから泣くな。おまえは科学が好きじゃないか。相手は千キログラムの自動車、それが時速六十キロで走ってきたんだよ。
おまえのお母さんがなんぼ六十キロと大きかったからといっても、はねられて死ぬるのがあたりまえ。運動力学の法則からいうて正しい。

まだ肉が残っておりゃあ、焼くのは惜しいぞ。そりゃあビフテキにした方がええぞ。タンパクもビタミンもある。脂肪分もあるよ。これ程、りっぱな栄養のあるものはないよ。

親類中で食いきれなければ、冷凍庫ちゅうものがあるから凍らせとけよ。科学じゃあありませんか。だんだん科学がそういいますよ。

「誰がお寺へ寄付するか」「法事して何になるか」

まあそりゃ若気のいたり。私しゃやかましく言やあしませんがね。えらそうなこと言うとくと、年とってつらかろうと思うですね。

我々は科学ではないのです。やはり妻子眷属の愛別離苦には涙が出るのであります。考えてみれば解っておる。「娑婆の住みはつべからざる」(覚如上人『口伝鈔』)ことも知ってるけれども、お母さん年とって八十歳で死んだといっても、涙が出るのが子供の情であります。私どもは科学でなく情で生きている。

私はタバコをよく吸います。一日に三十本から四十本吸います。そしたら賢そうなのが、「そりゃあ、たいへん身体に悪いからおやめなさい」と言います。それが科学ちゅうやつじゃ。

科学がいばる。知ってますよ私だって、タバコが身体に悪いちゅうことぐらい。ところがやっとすりゃあ、俵山のことばで、やっとすりゃあといいますが、すぐに火をつけますよ。科学が「いけません」という。いらんこと。「これが吸わずにおられるかい」ちゅうて吸う。「これが吸わずにおられるかい」というのが、私に於いて厳然たる事実であります。

厳然たる事実。あんたがたでもそれ、「俵山の夏安居へ参って、ご法礼ようけ包んで、眠ってたまるか」と思う。けど「これが眠らずにおられるかあ」ちゅうのが厳然たる事実であります。

そうして好きじゃあ、嫌いじゃあ、苦しいのお、つらいのお、うれしいのお、と自分の情に流されていくのが、私どもであって、科学じゃあない。

この情に流されておる私どもが、阿弥陀さまの相手。そこが宗教の世界なのであります。

そんなら科学は嘘か。嘘かどうか解らんけど、都合のいいように使っていけばええんです。

人間が月に行ったのは科学。ようやった。ようやったが、行った人は科学ではないですよ。帰ってきてから、「おれがお月さんに行っとる間に、女房が浮気をしなかったろうか」

科学の粋を集めたあの宇宙船に乗って、あの月まで行った。しかし中に乗っておるのは、できそこないの、情に流される凡夫が乗っとるわけです。

そういう情を去ることのできない私であるから、どうしてもこの宗教というものがある。道徳でもどうもこうもならんのです。

「あんたあなあ、あんたあ三年前、三々九度の盃して、百何十人の客を迎えて披露宴をして、なんでほかの女とつき合うか」公民館へ出しても、小学校の古い先生に聞いても、どなたさまに聞いても反道徳であります。反道徳です。そういうことも、その若いのが「私しゃああの娘を好いちょる」と言うたらそれでおしまい。

それだから、私どもの一人一人の中味は反道徳、反社会のかたまりであります。
近頃、お医者さんに行くと、細長い枕みたいな薬をいっぱいくれます。カプセルといいます。

私も、私というカプセルの中におるわけです。世間は道徳とか社会正義というものがひしめいておりますので、私は自分のカプセルの中に入っております。
中まで道徳に湿ったら、そりゃあ困る。私という人間は、カプセルの中で絶対、道徳がしみ込まんようになっておる。その中の私は反道徳、反社会であります。
中は私しか知りません。ここに手を伸ばしてくれるものは誰もいません。親子といえども、夫婦(つれあい)といえども、手は伸ばされません。

たいがい仲良くするけれども、どれ程抱き合うても、カプセルをこすり合わせるだけで、中には入れません。そして自分のカプセルの中味はいかなるものかと、絶対、人には言いませんが、静かにとり出してみれば、反道徳、反社会のかたまりです。それを見んように、言わんようにしておるのが、道徳社会であります。

今頃は、このカプセルにわざわざガラがつけてある。上半分は黄色、下半分は赤色とか、斜線が画いてあるのもある。
深川と名のるのがおるかと思えば、浅川と名のるのがおる。色々なカプセルのガラが違うのがおるけれども、中はあらかた同じの地獄行きの業、反社会、反道徳であります。そこに手を伸ばしてくるものはないのです。

そして又、いると思うとどうなるかというと、私どもが人のカプセルの中へ手をつっこもうといたします。透き通っているから、薬でいえば見えるようだが、しかし人間のカプセルは透き通ってもいないし、手をつっこむこともできないんです。たった一人で、その中味を抱えて生きて行かねばなりません。

お釈迦さまは、『大経』に阿弥陀さまのことを告げられたのち、ご自分のお説教をなさいます。
「人在世間愛欲之中、独生独死独去独来」(『大無量寿経』)

人は世間の愛と欲の関係の中に生きています。愛の関係というのは、すなわち親類の関係、欲の関係というのは、すなわち経済関係であり、社会関係であります。親類の関係と社会の関係で、私どもはおおぜいとつき合っております。その中でベラベラしゃべって楽しそうに暮らしておりますが、人は一人で生れて、一人で死ぬのです。 「独生独死(どくしょう)、独去独来(どっこどくらい)」、ほんとうですね。

人は世間愛欲の中にあって、一人生じ、一人で去るのである。

このカプセルを虚しく抱いて、トボトボと歩く絶対孤独の淋しい旅人であります。

夫婦(つれあい)といえども、調停委員であろうとも、この中には入ってきません。その中に入って下さるのが、阿弥陀さまただ一仏であります。阿弥陀さま一仏あって、「淋しかろう。淋しかろうけれども、ここに親がおるぞよ」というのが親さまであります。これは大切なこと。
普通は、この一人が死んでいくというのを直視するのが嫌だから、賑やかな方へ逃げるわけです。いけませんね。なんぼ逃げても、逃げおおせるものではありません。仏法は真実(ほんとう)のことを言います。 淋しいけれども、嫌じゃけれども、真実(ほんとう)のことを言うと、我々は絶対、人と心を交えることのできない孤独な生きものでしかないのであります。

テレーッと聞いて忘れて帰る「必ず救う」という仏さま。「参らなければ救わん」という親さまではない。

「曠劫(こうごう)よりこのかた追いかけてきたぞ。お前は一ぺんだって参ってきたことはなかったけど俺は追いかけてきたぞ、参らんお前を救うぞよ」というのが信心のはなし。

それなら何しに参るか。ある所でこういう事がありましたよ。

「今度のご講師はとぼけちょる。説教に参らんでも救うげな、参ってもテレーッと聞いて忘れて帰りゃあええげな。とぼけちょる。」

「そんなら参らんでも救われるか。『あたり前のこと、参らんでも救われるぞよ』ちゅう説教じゃったから、私しゃ参らん」と言うて三日目の朝、三つ電話があったそうです。

ちょっと頭を整理しないとわからんですよ。ある人が葉書を出した。

「福岡市西区〇〇  ☆ ☆ ☆さま

残暑お見舞い申し上げます。

近頃西区は三つに別れたそうですから、以前は西区でありましたが、今は貴方の所は西区ではないかも知れません。
そうすると、この葉書は着かないかも知れません。着かない時は折り返し、正しい住所をお知らせ下さい。」

おかしいでしょ。何がおかしいか。着いた時しかこの葉書は読まれないんです。

「参らん者をも救うぞよ」というお慈悲を、参って聴聞するのであります。何しに参るかといえば、ご恩報謝であります。

この間、質問があった。

孫が「ばあちゃんの趣味は寺参り」と言うた。どうもしっくりせんというお尋ね。

お寺参りが趣味というのはどうもしっくりせん。やっぱりちょっとしっくりせんですね。

しかしやっぱりそりゃあいけません。やっぱり趣味ですよ。みなさんがお説教を聞いていて、

「お説教ちゅうものは命がけで聞いておたすけに預かるものじゃ」と思うてはおりませんか。それじゃあ一人もたすかりゃあせん。
命がけで聞いた事はない。座布団の上に座って、時々眠っとるのを命がけとは言わん。説教というものは命がけで聞くものではない。
テレーッと聞いておけばきこえてくる。親さまの命がけがきこえてくる。親さまの命がけで救われるのに、どうしてこっちが命がけにならにゃあならんのか。

たすかりぶりのお話ではありません。おたすけぶりのお話です。たすけてもらう方はそのままなんです。

原初の人

私達は当事者の生き方で生きておるという事を間違ってはなりません。

ご法義というものは、生(なま)の愚かな我々人間が相手であります。文字は後からついてきた知恵です。科学は後からついてきた知恵です。

近頃私はどういう言葉を使うかというと、浄土真宗のご法義は私どもを「原初の人」にする、人間としての一番最初に還(かえ)っていただく、科学でもなければ文字でもない、もろもろの後からくっついてきた知恵でもない。

原初の人とは何か、そりゃあ欲っぱりで人が憎くて、俺だけよければいいという煩悩具足の凡夫である。

例えば高速道路が通る。
「あんたの田もだいぶ潰してもらわにゃならんから売ってくれ」と言って来る。
それはよそから天下国家を考える役人が言う。
しかしそこに住んでいる農家の大将は自分の考えでいけばよい。

「いやなこっちゃ、あの向うの田はなあ、死んだじいさんが頼母子で買った田だぞ。こっちのあんた達が削るという山はなあ、やっとこの間、わしが手に入れた山だぞ、先祖伝来の山であり田である。この家だってひいじいさんが建てた家だよ、やるもんか。」

こういうのが、住んでいる人の思いでしょ。

「いや、天下国家のためには、経済のためには高速自動車道が是非必要。色々考えてみれば、俺かたの上を通るのも無理はない。じゃあ売ろう。」そんなバカな。
「売らん」というのが住んでおる人の思い。当事者の考え。
すると役人がもう一つうまい事を知っている。どうするかちゅうとねえ、一万円札を重ねて

「これいらんか」と言う。

そうすると亭主が
「それも欲しい」というのも当事者、原初の人なんだ。札束も少しじゃあない。

「こりゃあ、いらんか」と言うから

「それも欲しい」

「あの田を売れ」

「それも欲しい」亭主の心が揺らぐ事になる。

そして役人は知らん顔をしている。それから札束も欲しいが、祖父(じい)が頼母子で手に入れた地面も売っちゃあならんと、二つの心が自分の中で大騒動をする。

そしてまあ、まわりからだいぶ責められて、ちょっと計算をして、「売ろうか」という事になる。それが凡夫であります。
洒落た事は言わんのであります。まあですからそのような凡夫が皆、浄土真宗になりました。
天下国家を考える人は人の世話をする考え方ばっかりで、自分の考えはあまり大切にしないから、あの人達はあまり真宗にはならんのです。

浄土真宗のものは、原初の人になってゆきます。

科学はろくなことをしません。我々は地獄行きの凡夫でございますが、これはすばらしい事です。その原初の罪深い知恵なき私。知恵があるとろくなことはしない。女房をもらったら

「この女房を俺が生命がけで護ってゆかねばならん」のだと、それが知恵なき男の所作だ。

知恵ある男は
「力を合わせて」という。

知恵なき女は
「この男につかえていく。」

山口県のあるところに手足の不自由な女の人がいますが、この人は千葉県の大工さんと恋愛をして結婚した。千葉県まで行ったそうですよ。手足が不自由なのに四日間、飲まず食わずで行って結婚した。そして「あなた好みの女になります」と言うた。

「なれるか」

「必ずなります」

それが知恵なき女のいい方ではないのか。

知恵あるのは
「私ども夫婦は五分五分、力を合わせてよき家庭を築きます」と言う。

だから大方もめた時に、
「私は五分も努力したのに、あんたが二分しかやらんから」と言う。

「浄土宗の者は愚者になって往生す」(『親鸞聖人御消息』西本願寺聖典第16通)、愚か者になって参らせていただく。原初の人になるのです。
科学の知恵をふり捨てて、生のただの欲っぱりの、腹立ちの凡夫になって参らせていただく。そういうのが目当てだから、阿弥陀さまは法蔵菩薩になってくださったのです。