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三月六日初孫 52

提供: Book


三月六日初孫を恵まれました。女の児です。以来六十日、気嫌よく目覚めてる時間もあって、話かけるとまじまじと見つめます。時折ふくみ声をして、にんまり微笑みます。

この小さな生命(いのち)の有様は、全体がむき出しの生命・まるっきり生命そのものの身動きです。力を含まずふんわりとしています。角ばった部分の一つもない体は、どこまでも小さくまあるく出来ています。

抱っこした手に、小さなツムリの重みが乗っかります。両足を突っぱり、腕をうち振る身動きが、膝にちんまり伝わってくる感触。まさに、まるごと”命”を抱っこしている感触です。ほっかり胸の奥から温こうなります。

赤ん坊は泣きます。お腹を空かして泣きます。眠くなって泣きます。お尻を濡らし汚して泣きます。

赤ん坊は、なあんにもしません。ただ泣きます。泣きますけれども、何かを”している”というわけのものではありません。なんにもしてはいません。ただ泣いているだけです。その泣いている声ごと、体ごと、抱きとられます。声を限りに泣く、その口許にお乳を含ませてもらいます。汚れた体は清潔になり、汚れものはつぶさに点検までしてもらうのです。ひたすら親の手段(てだて)が、尽されゆき亘ります。

お三部経に、弥陀他力の信心を”明信仏智”、明らかに仏智を信ずと教えられます。ここを深川倫雄和上が「”明らかに仏智を信ず”とは、凡夫・私がナンニモシナイということです」と聞かせて下さいました。煩悩業苦のため息を、聞きつけられた親さまが、ナンマンダ仏と私に来て、五体一ぱい、命に満ち亘りご一緒していて下さいます。


藤岡 道夫