人間は物を要求するが 仏は物をみる眼を与えようとされる
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足利淨圓先生は、本願寺派の優れた宗学者、足利義山(ぎざん)先生(1824~1910)のお孫さんで、幼いころから義山先生に育てられ、深く信心をよろこぶ身でいらっしゃったようです。その「聞名(もんみょう)の宗教」という文章にはこうしるされています。
「親鸞聖人の宗教は聞名の宗教であります。称名とはみ名を聞くことであります。念仏とはみ名を聞くことであります。称名念仏とは口をうごかして懸命になって努力している心に価値があるのではなく、謹んでみ名において打ちあけられてある如来の御心を聞くことであります。称えるのでなく如来の真実の、自分を喚びさましてくださる御声を、そのまんまに聞くところに浄土真宗の全体があり、親鸞聖人の宗教のありたけがあります。聖人の宗教は、この真実に自分を喚びさましてくださる御声を、み名において聞くだけであります。このほかに別に不思議も神秘も秘密もないのであります」(『一樹の蔭』)
ここには、如来の真実に触れる浄土真宗の教えの根本が、簡潔に記されています。先生のご生涯は、文字通り「聞名」のご生涯でした。先生の叔母にあたられる甲斐和里子(かいわりこ)さん(足利義山先生のご息女・京都女子学園創設者のお一人)の歌に、「御仏の御名をとなふるわが声は わがこゑながらたふとかりけり」という歌がありますが、足利義山先生のご家族は、「聞名の家族」であったと言ってよいのではないでしょうか。
淨圓先生は、ここでは、私たちの物に対する態度をおっしゃっています。私たちの日常は、何とか物質的な満足を得たい、金銭的な欲求を満たしたいということの繰り返しです。それに対して、仏さまは、そういう願望がいかにはかないか、いかにむなしいかを教えていらっしゃいます。
「常楽我浄(じょうらくがじょう)の四顛倒(てんどう)」と申しますが、常でないものを常と思い、楽でないものを楽と思い、我でないものを我と執し、浄でないものを浄と執するという顛倒の妄見(もうけん)に陥って、ひとときも心の休まるときがないのが、私のありのままの姿です。
そういう物を求め物に執してふりまわされている私に、「諸法無我」(あらゆる存在には不変の実体的な本質はない)という実相を示して、物に対する執着を離れさせようとされるのが仏さまです。その意味で、仏さまは、一切の存在には捉えられるべき実体はなく、縁起生(えんぎしょう)であるという真実を明らかにされている、と見ることができましょう。
石田 慶和(いしだ よしかず) 仁愛大学学長
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。