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信仰は悩みの逃避ではない 悩みの中に救いにみちびく

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「信仰をもつ」というと、何か深い悩みがあって、それを癒すために神・仏に頼ることのように、私たちは思っています。九條武子夫人は、そのご生涯が悩みの連続で、その悩みから逃避するために、信仰をお持ちだったのだろうと、みんなが考えていたのでしょう。

 そういうみんなのかってな思いに対して、武子夫人は、こうおっしゃったのです。この言葉のまえには、このように記されています。

 「信仰を特異の存在であるかのように思っている人たちは、信仰の門にさえ佇(たたず)めば、容易に悩みの絆は断ち切れて、みずからの欲するままに、慰安の光がかがやくかのごとく思う。しかしながら、信仰は一つの奇跡ではない」

 武子夫人は、信仰を麻薬のように、悩みや苦しみをまぎらすものと思っている人に、あるいは、奇跡のように、悩みや苦しみを消してしまうものと思っている人に、そうではないとおっしゃっているのです。

 こういうことについて、一番よく知られている物語は、子を亡くして歎き悲しんでいる母親に対する釈尊の教えです。釈尊は、その母親に、親・子・孫の三代に亘(わた)って葬式を出していない家から、芥子をもらってきなさいと命じました。そんな家がないことを母親に直接知らしめて、自分の子の死を動かしがたい現実として直視させようとなさったのです。

 それについて、西欧の学者で批判する人があります。母親に必要なのは、冷たい現実を知ることではなくて、やさしい慰めの言葉だったというのです。しかし、私はそうは思いません。信仰は、武子夫人がおっしゃるように、慰めでもなく、奇跡でもありません。それは智慧です。人生の実相に気づかせる深い洞察です。

 そういう深い洞察を得て、初めて人間は苦悩から癒される道を見いだすのです。一時的な慰めや逃避によって癒されるのではありません。

 釈尊の教えは、先ず第一に「諸行無常(しょぎょうむじょう)」でした。それは「一切皆苦(いっさいかいく)」と結びついて、人生に対して悲観的な見方のように思われます。しかしそういう動かしがたい現実を知るところから、初めてそれを超える道も開かれるのではないでしょうか。

 「諸行無常」、すなわち一切のものは常ならぬものと知ることによって、「諸法無我」、すなわちあらゆるものにとらわれ、それ故に苦しまねばならない自分の在り方から解放されてほんとうに自由に生きる生き方へ導かれるのです。

石田 慶和(いしだ よしかず) 仁愛大学学長



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。