見えないところでつながりあって 生きているのは竹だけではない
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近頃は、「自分のことは自分でする、ほっといてくれ」ということが多いようです。独立自尊、他人に世話をかけない、迷惑をかけない、それがかっこいいことです。親も子に、他人さまに迷惑をかけるな、と教えます。それは確かに正しいことでしょう。はじめから他人のことをあてにして、物事をするような者にはろくな者はいません。先ず自分のできることは自分でする、ということは、基本的なことでしょう。
しかし、人生はそれだけではありません。何でも自分だけでできるなら、だれも挫折したり、失敗したりしません。人生は挫折や失敗の連続です。そのとき、思いがけず、私をたすけたり、力づけたりしてくれる人がいるものです。そういうお互いの助け合いによって、社会というものはなりたっているのです。
竹薮の竹は、一本一本たっていますが、その実、根が藪全体に張りわたされ、みなつながっています。東井先生は、それを言いたかったのでしょう。生命というものは、決して孤独ではない、みなつながり合い助け合って生きているのだ、その根本には生命の源があり、そこから、一つ一つの生命がはぐくまれているのだ、と。
「人生は孤独だ、家族といい友人といっても、いざというときは、だれも自分のことを理解してくれない、所詮、自分は一人だ」と思って孤独の地獄におちこんでいる人が多いのが、最近の状況です。
しかし、この世のありとあらゆるもので、ほんとうに孤独なものは一つもありません。どんなものも、必ず仲間があります。砂漠に住む一匹のトカゲでも、そのいのちの源をさかのぼれば、限りない生命連鎖の中にあることを知ることができるでしょう。
そのいのちの源はどこにあるのでしょうか。キリスト教の聖書には、「神による生命の創造」ということが説かれています。これは、生命の源に対する驚きを表現しているのです。人間の知恵では測りがたい源からの生命の誕生を、「神による創造」と言ったのです。科学的に確かめてそう言っているのではありません。それは、驚きの表現です。いのちには、そういう不思議がこめられているのです。それに驚かなくなったとき、人間は自らの深い源泉を見失うでしょう。
その源のあることに気づき、そこに帰ることが、ほんとうの宗教心です。その源からのよびかけが「南無阿弥陀仏」です。
石田 慶和(いしだ よしかず) 仁愛大学学長
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております