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子猫らが 127

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2009年7月29日 (水) 19:00時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版

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子猫らが パン食ぶる様 見ておれば
盗みし親も また可愛がり

朝日歌壇にみた歌です。
私が生まれ育った福岡の田舎の寺にも、幼い頃、猫が居たような気もしますが、或いは近所の飼猫だったかも知れません。私が自分で猫を飼うた覚えはありません。

犬については母が”お寺には 体の不自由な人や 子供だちが気軽にお遣いに出入りし易いよう 犬は飼わぬが良い”と申してましたので、全く私の周囲に犬がいたためしがありません。

さて猫は一度のお産に何匹の子をもうけるのでしょうか。三匹・四匹も産むのなら、乳丈で足らなくなる頃、親は猛烈に忙しくなるにちがいない。わが子に与えるためには、何にでも手を出します。

ふと見ると、子猫たちがこの手で与えもしないパンを貪り食うている。親猫の仕業である。子猫らが食べる有様を傍らで見守って、自分は食べようともしない親猫です。

子猫らが パン食ぶる様 見ておれば
盗みし親も また可愛がり

親は子の命を見守って必死です。人であろうと動物であろうと、夫々その境界における親共通の生きざまです。


阿弥陀さまのお証(さと)り功徳・仏力のおいわれを、お経に”和顔(わげん)愛語・先意承問”したもうたと告げられます。

まよいの命・私に立ち向かて如来(おや)さまは、私がどれほど愚かに浅ましゅう見えましょうとも、凡夫・有情たるその身にとっては、それより他生きて見ようもないものかと、和顔愛語なさいましす。汲みとり受け容れたまいます。ナンマンダ仏の中味には、すべてこの私の事が組み込んで、成し遂げられてあるのです。


藤岡 道夫