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今は夜の盛り場に出る 110

提供: Book

2009年7月29日 (水) 13:54時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)


今は夜の盛り場に出ることもなく日を過ごしています。が三十数年も前、二十歳代の青年の頃、ことに親しかった友と二人、互いに乏しいポケットの僅かなお金を確かめ合うて、しばしば盛り場に出かけたものです。

露地裏のなじみの酒場に陣取って、詩人であるこの友人と語らいます。その頃の深夜の盛り場の風景が、おぼろに甦る短歌を眼にしました。

手相師の 辺に停(たたず)める 二三人 何知りたきや みな女にて  (日本歌人クラブ 山本康夫)

見台に寄りついて引き取られた片手をあずけ、尤もらしい手相師の口調に順い肯き聞くのは、これみな女客。そんな女の人のどれもが、身に覚えの不仕合せを抱えていましょう。眼を輝かし眉をあげて生きるにはほど遠く、不安もおびえも剰るほど山々ある。だからさして当てにもならぬ手相師の言葉すら、よすがに縋ります。

自信ありげに断定して告げられる言葉で、不本意だった身の上を追認し、行く末の希(のぞ)みを探り身構える。まこと不確かな曖昧きわまりない人生です。人生に教えを持たない、つまり生きる上のお経が存在しません。

観無量寿経に聞く韋提希は、家庭崩壊の悲しみから、憂い悩みなき処を希(ねご)うて、み仏の教えに遇いました。み仏は説明抜きで、十方世界のことごとくをお見せになります。

説明で限定されるのを避けられ、韋提希の選定にゆだねられます。そうすることで韋提希に、阿弥陀さまの極楽・安養(あんにょう)の浄土へ是非とも参りたいとの熱い願いを導き起さしめられ、やがてお念仏のみ教えに及ばれます。

まさに周到なお慈悲・存分な如来のお示しごとと仰がれます。


藤岡 道夫