人間臨終図巻 109
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人間臨終図巻という本の、今の私の齢で死んだ人の項に、俳人種田山頭火がある。この人は四十歳前に、妻子を捨て家を出て職場を転々と移った挙句、やがて乞食(こつじき)僧となって、放浪の人生を終ります。
かねて自由律俳誌・層雲の同人だった彼には、 ”うしろ姿の しぐれてゆくか” ”鉄鉢の 中へも 霰”などがあります。その句友の許で息を引取ります。
”なまけもの也。わがままもの也。きまぐれもの也。虫に似たり”とか、 ”無駄に無駄を重ねたような一生だった”などと、自らを嘲ける世捨人の境界でした。職場と金に身をくくられる管理社会の今日の世相を反映してか、彼のファンがあります。
さて合同歌集に鈴木冬吉氏の歌を読みました。
うつつなき 病む母が手を 游(およ)がして 伸びたる畑の 草抜くという
鈴木さんの”九十を 過ぎて弱りし わが母の”と詠まれた歌で察するに、お母さんは終生農業に従事し、九十を超えてお弱りになったようです。老いての力仕事はともかく畑の草採る仕事は、晩年も身を離れず死の床に病んで意識もおぼろの仕種にまでなります。
農家の嫁の生涯は、夫に従い作り耕して、子供を産み育て、舅姑に仕え尽します。そして境界を捨てません。
我が侭・気侭・怠けもならず、五体の骨折り気苦労、身一ぱいに離れも逃れもならない生死の苦海の主役であり続けます。お慈悲の現場がここにあります。
ナムアミダブツは うちあけばなし わたしに にょらいさんの うちあけばなし ”どうぞ たすけさせて おくれよ”と ナムアミダブツは うちあけばなし
木村無相氏の念仏の詩を呟やきお称名申します。
藤岡 道夫