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青年には客気があります 94

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青年には客気があります。十年一日の如き田舎の暮しは、若者に耐えられません。そんな暮らしに結構馴染んでいるような父親は、男として意気地なく思えてならない。俺は違う。俺は仕方なく生きている、そんな暮らしは真平だ。才能を試して自分の感性を磨いて、発剌たる人生を創造するのだ。ようし決めたと、父親の反対・説得も受けつけず許しを得ぬまま家出をする。

年月過ぎてこれという特技・才能も発揮出来ぬまま、感性・感覚も鈍化して、今や日本の平均的中年の男となった。日常これという変り映えもない暮しが、都会の巷の中に埋もれるように繰り返される。

子供も青春時代を迎えれば、中年の男親の大方が味わう親子世代間の断絶の心情を、骨身に沁みて痛感している。そんな時、田舎の父親が死んだ。残された日記を読む。

父の日記 開けば涙 溢れ来(き)ぬ

わが家出せし のちのその日記  (阿部 壮作)

朝日新聞歌壇のこの歌を、深読みしてみましたものが、このお話しです。その父親の日記には、中年男となった息子を泣かしめたものが、書きつけられています。その具体は歌われていません。しかし、判る。一行・一文・一句一語のすべてこれ、息子を案じ気遣うて、責めも裁きもしていない。ひたすら、子を思う親の慈愛が滲み、温情立ちのぼる言葉が、刻まれてるに違いありません。

西念寺・深川倫雄和上に、伺いました。 ”阿弥陀さまは、私の罪を示されません。責めも裁きもされません。ナンマンダ仏と現われて、ひたすら救いを示されます。罪深き私を抱いて、泣いていて下さる慈悲極まるすがたこそ、ナンマンダ仏です”と聞きました。


藤岡 道夫