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私が小学校二年の秋 74

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私が小学校二年の秋、父は心臓マヒの発作で急死いたしました。この日母は、私の姉が入院先の病院で危篤状態だというので、そのベット脇に看取りをしていました。父が死んだ報せで、驚いて寺に戻ったその後、家族のいなくなった病室で姉は独り参りました。

その後二年、上の兄はニューギニアへ、次の兄はビルマへと、それぞれ兵士の一員として出征します。終戦後、白木の箱が二つ、母の膝の上に乗りました。

兄の三十三回忌の折り”わたしゃ、お父さんときも、キミ子のときも、英之のときも、宏のときも、ただ死んだって報せを聞くばっかりじゃったばい”母のつぶやきを聞きました。今年九十七才となった母は、元気に父と姉の五十回忌を迎えられるかと思うてましたが、正月が明けて入院、月半端から今までずっと昏睡状態で、命終の時を見守るところです。

正月三日は床の中で、重誓偈のお勤めをしたそうですが、あけて四日は、お念仏だけ。

思えば、父の声は遥かに距たり、また母の声も、今やこの世から失われます。そこにナンマンダ仏の如来さまが、声に現われて来て下さいました。有難いことに、極楽に備わるお徳があって、父の名・母の名・親しい人の名を呼べば、呼ぶ声に応じて忽ち会えるといわれます。倶会一処のお慈悲の功徳。ナマンダブ ナマンダ。

よかった。これっきりではないのです。ナマンダ仏 如来さまが、父の声、母の声をも伴うて、今ここにおいで下さいました。


藤岡 道夫