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寝返りもままならぬ主人の大きな体 66

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2009年7月29日 (水) 13:51時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)


寝返りもままならぬ主人の大きな体を、右に左に傾けながら、首から足の先まで、固くしぼった熱いタオルで拭います。毎日拭うてやりました。

私が丈夫なもんで、お陰でだいたい思うように看病させていただきました。永う患うた主人の見送りを済ませた今、心底ほっといたしております。

ところがさて、後に残った私。患いついた折り、家の嫁の手で、どんな看病して貰えるものやら、夜中にふっと目覚めて思います。下着の洗い濯ぎなんぞ、どうなるやらと、気にし出したらどうしても眠れません。

これは、溜息まじりに語る老同行の話で、身につまされる人も、多いことでしょう。

阿弥陀さまの浄土・極楽は、老人の憂い・心痛のひだに分け入って、溜息までも組み込むお慈悲をもって仕上がりました。洗い濯ぎなんぞ、苦にやむ身の上一切が、如来(おや)さまのお慈悲をかきたてる因(もと)となりました。極楽は、結構至極の功徳世界に整えられたと、如来の仰せにうかがいます。

深川倫雄和上は”親さまの正覚(さとり)のお徳全体が、ナンマンダ仏に仕組まれて、私の命に持ちこんで、今はもう、貧瞋煩悩の私に同居していて下さる。時々声に取り出し、お称えしながら、極楽に私は参り、お証(さと)り聞(ひら)くのです。それで、太陽が沈む西の方角が極楽と聞くからには、西の方角は、これは特別の方角だと、自分の胸に言い含め、言い含めするがよい。これはご報謝のやり方です”と、お聞せ下さいます。

理論・理屈の理解に、とどこおることをご指摘。”信仰生活は、実践です”と、ご報謝の工夫を奨められます。

ここに、親鸞さまが”本願の行者”と、お示しのお意(こころ)を、承ります。


藤岡 道夫