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今月始め 59

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2009年7月29日 (水) 13:51時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)

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今月始め、四ケ月になった孫がいます。声を掛けると笑い、体をゆすると高声を挙げます。あやす私の方が存分に楽しんでおりました。その月初めから約束のお説教が続いて、十二日振りにお寺に帰りました。久し振りに、孫に対(むこ)うて声をかけますと、怪訝な顔をして笑顔を見せません。

乳呑児にとって十二日間は、まことに永い永い命の時間なのでした。祖父の顔は、その脳裏から失せました。見知らぬ訝しい男が現れたのです。これはそれだけ智恵づきの証(あか)しでもありましょうが。

ともあれ、布教の旅に出る前、様々あやして遊んだようにやってみます。ですが、眼を据えてただまじまじと、凝視(みつ)めたまま、笑顔を見せません。不振な者を見る顔許に、不安、怯えがうかがえます。

さてそこで、祖父たるもの、この愛らしい幼い命一ぱいの、怯えと不安を除かねばなりません。声音を変えてあやします。手を採ります。頭(つむり)を撫で頬ぺたをつつきます。体をゆすり抱っこをします。思いの限りの手段(てだて)を尽くします。やがて笑顔が戻りました。

”釈迦弥陀は、慈悲の父母、種々に善巧(ぜんぎょう)方便し、われらが無上の信心を、発起せしめたまいけり”と、親鸞聖人が讃われます。

お経に”明らかに、仏智を信ず”とございます。

ここを深川倫雄和上は”これは弥陀をたのむということです。凡夫はなんにもしないことです”と、お聞かせくださいます。

煩悩生死の私は、不審・不安をはらんで、無防備なおびえの命。南無阿弥陀仏の親さまが、きっと助くる、安らいでいておくれと、声に相(すがた)を現してまで、体一ぱい、命一ぱいに満ちてお宿り下さいます。


藤岡 道夫