門の傍に 67
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門の傍に、自転車立てる気配があって、本堂の向拝口に近づく足音がある。ナマンダーブ ナマンダブ、ナマンダーブ ナマンダブ・・・、しばらく続くお称名。やがて足音が遠ざかって、自転車のスタンド払う音と共に、気配が消える。これは、ある同行が日課にしている、仏恩報謝のすがたです。
この同行が語ります。もしまだ、如来(おや)さまの、お慈悲を知らずにおれば、どうでありましょうか。一寸、病気が治りにくかったり、家が不倖せ続きにでもなると、あちの祈祷所に見てもらう、こちらの参り所でお札を貰う。お祈りするやら、お籠りするやら、身も心も大騒ぎで落ちついちゃおれますまい思います。
この世に生きとるほどには、煩悩だけは騒ぎます。それがあろうことか、もう有難い身にして貰うとります。この胸の煩悩のド真中に、ナンマンダ仏の親さまが、居据っていて下さいます。溜息つきつきでも、親さま、離れちゃのうて、ナンマンダ仏とご一緒しておいでの、気の安らかさ。どこの参り所ご祈祷所にも、慌て騒いで駆けつけるこたあ、一つもない。ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、私の五体にいつまでも同居しておいでます。そんなら、雑行を離れ、自力を忘れておる身の御礼に、一日一度、お育ていただいた、お寺の如来さま、きざはしからでも参らせて貰います。と、こんなお領解話でした。
深川倫雄和上”ご報謝は、親さまのお慈悲をいただく身の、一人一人の工夫努力のふるまいです”の、仰せをここに味わいます。また”ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、お宿りなさったわが体、生死流転(まよい)は、とどめられた。よかった、よかったなあと、ご恩報謝の工夫をこらし、信仰生活のよろこびごとといたしましょう”とも、お聞かせです
藤岡 道夫