「いま 光が とどいたのではない 光に遇わなかっただけだ」の版間の差分
提供: Book
(新しいページ: 'ふだん通い慣れた道を歩いていると、周囲の景色を見すごすことが多いのですが、ふと路(ろ)傍(ぼう)に可(か)憐(れん)...') |
細 (1版 をインポートしました) |
(相違点なし)
|
2016年10月4日 (火) 21:14時点における最新版
ふだん通い慣れた道を歩いていると、周囲の景色を見すごすことが多いのですが、ふと路(ろ)傍(ぼう)に可(か)憐(れん)な花がひとかたまりに咲いているのを目にとめ、感動することがあります。俳人芭(ば)蕉(しょう)の、
よくみれば 薺(なずな)花咲く桓根かな
という句が想い出されます。
芸術は、驚きからはじまるといわれます。それは、芸術にかぎりません。ニュートンは、木から林(りん)檎(ご)が落ちるのをみて、万(ばん)有(ゆう)引(いん)力(りょく)の法則を発見したと伝えられます。科学も驚きからはじまるといえるのでしょう。
宗教の場合はどうでしょうか。仏法を聞いて、気持ちが明るくなった――。そういう体験はどなたにもあると思います。信心も、照らされた身であった、との驚きからはじまります。
浄(じょう)土(ど)三(さん)部(ぶ)経(きょう)には、間(かん)断(だん)なく照(しょう)護(ご)したまう光の仏、すなわち阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)の大(だい)悲(ひ)について説かれています。それゆえ阿弥陀仏は、不(ふ)断(だん)光(こう)仏(ぶつ)とも称(たた)えられます。その仏の大悲の光について、源(げん)信(しん)僧(そう)都(ず)は、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたまう。
と述べておられます(「正(しょう)信(しん)偈(げ)」所引)。阿弥陀如(にょ)来(らい)の悠(ゆう)久(きゅう)なる光は、遠(おん)劫(ごう)の昔から私のうえに降りそそいでいるのだ、と。
しかし無(む)倦(けん)の大悲の光明も、私たちが無自覚のかぎり、とどいたとはいえません。法(ほう)然(ねん)上(しょう)人(にん)が、月の光にこと寄せて詠(うた)われた歌が想い起されます。
月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ
私たちが阿弥陀仏の本願の教えに頭がさがったとき、はじめて光がとどいたといえるのです。教えの真実に頷(うなず)いたとき、まさに「万(まん)劫(ごう)の初(はつ)事(ごと)」ともいわれる大きな驚きに包まれ、深い感動がこみ上げてきます。
私たちが仏法に出遇うのは、さまざまなご縁に導かれることによってです。仏法への驚きと感動は、念仏の信心として相続されます。出遇いが一時の驚きや束(つか)の間の感動に終わらないのは、これを憶(おく)念(ねん)する信心によります。法然上人は、日ごろ七(なな)万(まん)遍(べん)もの念仏を称(とな)えておられたと伝えられます。それは、まさに上人の憶念相続の信心を伝えているものとうかがわれます。
親(しん)鸞(らん)聖(しょう)人(にん)は、
光明てらしてたえざれば 不(ふ)断(だん)光(こう)仏となづけたり 聞(もん)光(こう)力(りき)のゆえなれば 心(しん)不(ふ)断(だん)にて往生す (「浄土和讃」『真宗聖典』479頁)
と讃詠しておられます。遇(ぐう)光(こう)の驚きと感動は、本願の光のはたらきをつねに聞思することにおいて、往生の生活へと開かれるのだ、と。
いよいよ聞(もん)法(ぽう)の生活へとこの身を運ばなければなりません。
安冨 信哉
1944年生まれ。京都市在住。
大谷大学教授。
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。