「私の祖母の往生 89」の版間の差分
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2009年7月29日 (水) 13:54時点における最新版
私の祖母の往生は、戦後の昭和二十六年、私が十代最後の年で、すでに三十余年の月日が過ぎました。
祖母の思い出の中、甦る記憶の一つに、手打のうどんをこしらえる姿があります。濃い紺の絣の着物、襷(たすき)のひもで袂(たもと)をつかねあげ、麺棒を力を入れて押しています。竈(かまど)の火が威勢よく燃える。大釜の湯が、煮えたぎる中に、ぱらぱらほぐしながら麺を入れる。
今、飽食・グルメ時代と比ぶべくもない昔の食事は、いつもつつましく貧しいものでありました。それでも祖母がうどんを捏(こ)ねて打って茹であげる傍らに、固唾をのんで見守る。少年の日の私は、いつもお腹を空かしておりました。腹一ぱいかきこんだうどん。何ものにも替えがたいご馳走でした。
こうして食べるウドン、肉もテンプラも載りません。何一つ添えられません。”素ウドン”です。ウドンに汁だけ、何の変哲もない全くの”素ウドン”でした。
俵山西念寺・深川倫雄和上、或る日の仰せに 「この凡夫私が、如来さまの名号・ナマンダ仏に出逢わずして、娑婆にウカウカ過す中は、ただの凡夫、いわば”素凡夫”です。仏とも法とも知らなけりゃ、命のイミやネウチの実りはない、命のユクエも見えぬ、全く”実のない素凡夫”です。
それが、ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、私の命に居据わっていて下さる。今まさしく位は正定聚。等覚の弥勒菩薩に同じき価値(ねうち)もの。もはや私は”素凡夫”ではありませんぞ」と、お聞かせです。
仏の方より往生は治定せしめたもうた価値ものと、軽妙・洒脱に現わし尽くして下さる法悦です。
藤岡 道夫